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《96》

***




「勤務開始日はいつ?」、と陽子が尋ねた。


「九月の頭からです」、と欧華は答えた。


 すなわち、欧華が介護職として働き始めるまではすでに目と鼻の先なのだった。


「今まで介護とか看護とか、欧華ちゃんはやったことないのよね?」


「ないです。完全に未経験」


 欧華はちょっと気後れして答えた。


「じゃあ、ちょっとやってみようか。わたしたち二人で」


「二人で?」


 未経験で初めての職に臨む孫娘にレクチャーしてくれという和子の要望に応じる形で、陽子は提案したのだった。看護助手が接するのは病人で、介護士が接するのは老人で、病人も老人も、体が不自由という点で共通しており、看護助手と介護士の仕事内容は、ある程度共通していた。


 移乗、食事、歯磨き、排泄、入浴、更衣、歩行……そういった基本となる生活の動きの介助の仕方を、陽子は、欧華をモデルにして彼女自身に体験して貰う形で教えてやった。陽子はかつては正看護師として、今は看護助手として、その道十年以上のキャリアの持ち主なので、あらゆる動作は堂に入ったものであり、その一つ一つの仕方の確かさは、何も知らないでいた未経験者の不安を軽減してくれるようだった。実際、陽子は現場では一介のパートタイマーではあるが、指導者としての地位を確固たるものにしていたのである。


 実地のようにしようとするならば、入浴のレクチャーはお風呂場で、排泄のレクチャーはトイレで行われるべきだったろうが、陽子はそこまで几帳面にはしなかった。さすがにお互いに気まずくなるだろうという彼女の配慮からであり、あくまで簡易的にのみサッと教えるつもりだった。


 四十分ほど、彼女等はそれぞれの役割を担って、介助する側とされる側に分かれて(時には交代して)大雑把に演習を行った。


「ありがとうございました」


 欧華が演習用に出してきた和室用の低座椅子に座って深々と頭を下げた。


「お疲れ様」


 畳に座って後方に腕を伸ばして両手を付けている陽子がカジュアルに労った。


「今までは入門書を読むとかネットで調べるとかしかしてこなかったですけど、陽子さんのお陰で、かなりアドバンテージを稼げた気がします。やっぱり経験者の人に教えて貰うのが一番ですね」


 下げていた頭をすっかり上げて、欧華が言った。


「人間相手の仕事だから」、と陽子は苦笑して言った。「難しさはある。介助ではないところで、ひょっとしたら苦労するかもね」


「何となく予想は出来ます」、と言って欧華は同じように苦笑した。「どこまでやれるか分かりませんが、自分で決めた以上は、最後までやり切りたいと思います」


「わたしはいくつか資格取ったけど」、と陽子。「案外この業界ってけっこう緩いところがあって、無資格の人はたくさんいる。欧華ちゃんみたいに。もし欧華ちゃんが、この道でキャリアアップを目指したいのなら、資格を取ることね」


「そうですね」


「けどそういうところは、欧華ちゃん賢いから、大丈夫と思う」


 陽子はそう言って彼女の自信を高めさせるように褒めたが、欧華は苦笑の表情で微かに首を揺するようにして、半ば慎ましげに、半ば決まりが悪そうに、左右に振るのだった。


 ふと開き戸が開かれ、和子が顔を出した。陽子と欧華はどういうことか分かっていた。夜ご飯の支度が終わったようだった。




 ……。




 ずっといいにおいを漂わせていた品物の数々が、座卓にずらりと並んでいた。一人一人には白ご飯、味噌汁、青菜の和え物がそれぞれの正面に、そして、皆で食べるように多めに作られた魚の煮物と筑前煮が、卓上の中央に寄せて用意されていた。


 食卓に付くのは、陽子、欧華、和子、憲一の四人だった。知らない人がその様を見れば、全員一つの家族に見えたことだろう。


 いただきますと唱えられる前に、憲一が陽子に対し、彼女の人となりを知ろうと絡んだ。陽子にはたっぷり質問が浴びせられ、食卓は憲一の独壇場であり、欧華と和子はほとんど苦笑と共に傍観するしかなかったが、質問の一部は宙についてのもので、大半は陽子についてのものだった。質問の内容はありふれていて、どういう生い立ちなのかとか、どこでどういう仕事をしているのかといった、他愛のないものばかりだった。


 はじめ憲一は陽子を、見知らぬ人間が勝手に家に踏み入っているとでもいう風に睨んでいたものだが、話を交わす内に、あっという間に彼の不信感が氷塊し、饒舌になってにこやかになり、くだらない冗談など飛ばすようになり、その程度は陽子を含め、女性陣が内心うんざりするほどだった。


 その内憲一が飽きてようやくまともに食事が出来るようになると、和気藹々とした雰囲気で皆、箸を運び、特に陽子と欧華が旺盛に食べ、あっという間に皿はほとんど空になった。陽子がおいしいと素直に感心して食べると、和子は得意げだったし、何より嬉しそうだった。


 欧華は違和感なく岬家に溶け込んでいる陽子の存在が何だか頼もしかったし、陽子の方は、瑛地がいた頃の一家団欒の温かい雰囲気が思い返されて、しんみりしてくるのだった。


 晩酌のお酒と陽子との楽しい会話ですっかり酩酊した憲一は、和子に誘導されて居間を出ていき、和子が戻ってきて、食卓が三人になると、雰囲気はすっかり落ち着いたものだった。




 時刻は八時であり、そろそろおいとましようかと陽子は考えていたが、和子と欧華との話がなかなか絶えそうにないので、切り出すタイミングがなかったし、そもそも彼女は、すっかり岬家に馴染み、くつろいでいるのだった。




***

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