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94/102

《94》

***




 宙が東京に発った日の夕、陽子は車に乗ってスーパーに出かけた。食品の買い出しのためだった。宙がその夜いないので、用意するのは自分の分だけでよかった。(勿論、何日分かまとめて買うつもりだったが。)


 欧華がそのスーパーでアルバイトとして働き、そして最近やめたことは、娘の話で陽子はすでに知っていて、彼女の姿が見えないからと、不審がることはなかった。


 娘とその友人の今後の展望について知っているだけに、宙は東京に試験に出かけて、欧華はスーパーのバイトをやめて、これから変わろうとする日常が予感され、陽子としては、頼もしいのか、物悲しいのか、複雑な心境だった。


 陽子はおおむね三十分店内を巡り、買い物カゴが半分埋まるほど品物を入れると、レジで精算した。


 買い物後、元来た道を家まで戻り、生物や要冷蔵品などを冷蔵庫に収めると、彼女はふと思い立ってまた車に乗り、今度は違うところに向けて走りだした。


 陽子にとっては、自分だけで訪れるのは初めてなのだが、行き先は岬家だった。


 暮れなずむ夏の夕日が遠い水平線まで沈んできており、明るい陽光と暗い闇が併存していた。空は夕焼けが燃えているが、家々の陰を染める暗黒は深いものだった。


 陽子は、隣接する広場の出入口付近に一旦車を止め、歩いて玄関まで行き、照明で明るい窓を見上げ、人がいることを認めると、音符マークのデザインされた古いドアホンのボタンを押した。


 手首を胸元の高さまで持ち上げ、そこに巻かれた細い腕時計を見てみると、時刻は六時を少し過ぎた頃だった。あまり遅くなると訪問者としては非常識だが、この時刻ならまだ許されるだろう。


「はい」


 引き戸のドアがガラガラ言って開き、中から人の姿が見え、欧華だった。


「こんばんは、欧華ちゃん」


 手首を下ろし、軽い会釈と共ににっこり陽子が挨拶した。


「あぁ、陽子さん」


 欧華は、引き戸の引手に手をやった状態で同じようににっこりして返し、二人共、Tシャツに綿のパンツという軽装だった。


「おばあちゃんにご用ですか? 今、夜ご飯の準備をしてまして」


 笑顔を少し困ったものにして、欧華が続けた。


「ううん」


 陽子は首を左右に振って否定した。


「特に用っていう用があって来たわけじゃないの。ちょっと欧華ちゃんの顔が見たいなぁって思って」


「はぁ。そうですか。じゃあ――」


 欧華はきょとんとして首を傾げたが、引手より手を離すと、外にすっかり出、後ろ手に引き戸を閉め、陽子のそばまで来た。


「まだ暑いな」


 そう独り言めかして言い、欧華は手で風を煽る仕草をして見せた。


 暗くなっていく夕焼け空の下、岬家の玄関の辺りには、うっすらと蚊取り線香の香りが漂っており、その中に、家の中で和子が作っている夜ご飯の、程なく炊ける白米のしっとりとしたにおいや、煮物の甘いにおいが混ざっていた。


 陽子はキョロキョロすると、家の正面の植え込みの石垣に目を留め、「ちょっと座ろっか」、と提案し、欧華といっしょにそこまで行くと、並んで腰を下ろした。石の感触はゴツゴツしてかたかったが、角が丸いので、悪くはなかった。日没まで、後三十分といったところだった。


「宙がハワイに行くって言ってました」、と欧華。


「そうね」、と陽子はどこか素気無く返し、乗ってきた車の方を何となく見遣った。「わたしもびっくりしたけど」


「陽子さんとしては、どう思いますか?」


「親としては、応援せざるを得ないわね。娘がそうしたいっていうことを、否定する親ではありたくないからね」


「いいお母さんですね。羨ましい」


 そのセリフは、事情を知らない者が聞いたら、ただのお世辞にしか聞こえなかったろうが、事情を知る陽子は、彼女が抱いたかも知れない寂しさに、いささか失言してしまった感じを覚えた。


「今日、宙は出てったよ。東京まで試験を受けに、一泊の予定で」


「そうなんですか」、と欧華は意外に思うように驚いて返した。「何も知らされなかったですけど」


「あんまり自信がないから、進んで言いたくないんでしょうね。あの子は英語が苦手なのに、試験ではけっこう重要視されてるみたいだし」


「宙なら大丈夫ですよ。ここまで陽子さんのサポートがあって、順調に来てますから……って、わたしの見立てですけれど」


 そう言って、欧華はエヘヘと苦笑して見せる。その笑顔がいじらしく、陽子は釣られて笑ってしまった。


「そうかも知れないわね。あの子なりに、頑張ってうまくやってきたっていう感じはする。わたしとしては、バリバリ仕事するのはいいけど、一人くらい、いい男でも連れてきて欲しいものだけどね」


「確かに宙って男っ気ないです。けど、そういうキャラクターだから、わたしは安心して彼女と付き合えてるって気がする」


「男が絡むと、女同志ってうまく行かないものね」


「そうですね」


 そう共鳴し、陽子と欧華は互いに微笑み合った。


 彼女等は何も言わず、今移動中であろう宙に思いを馳せた。そして、宙がハワイに行くと仮に決まるとして、それが宙にとっては勿論いいことに間違いがないにしても、同時に自分にとっても果たしていいことなのか、まだよく分からないのだった。




***

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