《92》
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ある夕方、宙はスーツを着て新幹線に乗っていた。黒いスーツ。着るのは大学生の頃にした就活以来だった。同色のバッグを持ってパンプスを履いて、スカートではなくパンツスタイルで、普段とはすっかり装いが違っていた。
それもその筈、いよいよ国立天文台の採用試験と面接が行われるのだった。会場は東京にある大学で、そのために彼女は新幹線に乗っており、汪海町からは遠いので、前日に着いて一晩投宿するのだった。
宙は自由席の車両の空いているシートに座り、英語の単語帳と睨めっこしていた。やはり彼女にとって気を付けるべきは、得意とする天文学でなく、苦手とする英語の方だった。
バッグには、財布や筆記用具の他、履歴書と志望動機をパソコンで書いてプリントアウトしたものなど、必要になる応募書類一式が入っていた。
乗っている間に夜になり、新幹線の車窓にはほとんど景色らしい景色は見えず、ただの暗幕に過ぎなかったが、その暗さは、不安の象徴のようで、宙には不吉に思われ、あまり見ないようにした。
汪海町には新幹線が通っておらず、宙は汪海町で電車に乗り、新幹線の通る駅にまず行くのだが、そのためには隣県まで移動せねばならず、こういう時に、彼女は自分の故郷が、等閑視された地方であることを実感し、不便さや劣等感を覚えるのだった。(宙の地元には、新幹線の駅がない代わりに空港があって、東京の羽田と飛行機が行き来していたが、新幹線の倍くらい運賃がかかるので、宙の移動の選択肢にはとてもではないが、ならなかった。)
そういった反感も、ハワイ行きが決まれば無縁になるわけで、宙の今回の動機付けの一つとなった。
陽子は、一人娘が旅立つかも知れない寂しさがあったけど、あくまで応援する姿勢を取り、一方で、一足先に進路を決めた欧華の存在は、あるいは宙にとって励ましになり、あるいは焦りの元になった。スターシップMINATOの人たちは、宙に対して多少の羨望と妬みがないではなかったが、館長が勧めた事実があり、基本的には宙に対して応援の声を寄越してくれた。
八時頃に新幹線がJRの東京駅に着き、宙にとって東京は、『推し』の男性アイドルグループのライブを見に来るために何度か来ているが、来るたびに、辺境である地元との落差にショックを受けるのだった。夜になっても皓々と照る街路灯に、天に向かって聳え立つどこかいかめしいビル群。目がチカチカするほどけばけばしい店の看板のひしめき合い。散乱するゴミに、高架下などのスプレーの落書き。
そして、首都だけあって、とにかく人が多い。ビジネスマン、学生、浮浪者、客引き、外国人……。あらゆる種類の人間のるつぼのようだった。だのに、どうにも寒々とした空気があって、これだけ大勢の人がいるにも関わらず、なぜかギスギスしているように、宙には思われるのだった。
ビジネスホテルが予約してあり、そこまでは、電車に乗り換えて最寄りの駅まで更に移動するのだった。
その前に、宙は東京駅の、赤レンガの駅舎の写真を一枚スマホで撮影し、東京到着の知らせと共に、陽子と欧華に送った。夜で暗いので、その模様はよく見えないが、首都の雰囲気はある程度伝わるだろうと思われた。
試験会場の大学近くのホテルのシングルルームに宿泊の予約が取ってあり、部屋は四階の六畳ほどの垢抜けない内装のものだったが、掃除がきちんとされており、居心地は悪くなかった。一泊六千円。窓を開けると、すぐに隣の建物に眺望が阻まれ、下を見てみると、ごちゃごちゃした路地の模様があり、あまり見よいものではなく、宙は、窓は開けないことにした。
素泊まりで食事がないので、宙は部屋でスーツを私服に着替えると、外食しに外に出た。これといって食べたいものがなく、遊びに来たわけではない宙は、チェーン店の牛丼屋に入り、持ち帰りで商品を注文すると、部屋に戻って食べた。
試験を目前に控える宙には、すでに安らげる時間はなく、牛丼を食べる時間も、ユニットバスの浴槽に浸かる時間も、安いゴワゴワのシーツのベッドに横たわる時間も、常に頭には試験のイメージがあり、それは、イメージトレーニングのイメージであるよりは、むしろ落第するネガティブなイメージになりがちだった。筆記試験で空欄を埋められず頭を抱えるところや、面接でうまく回答出来ずにどもってしまうところが想像され、自信のないことが顕著だった。
人員の補充が必要となれば、そのたびに国立天文台の職員の求人は更新されるだろうが、そう頻繁にあることではなく、宙にとっては、チャンスはこの一回だけと思うようにしていたし、だからこそ、失敗の許されないプレッシャーがひどく重く、苦しかった。
うっすらカビくさい冷房のにおいが充満する暗室で、スマホの目覚ましがきちんと設定されているか、宙は、少なくとも目を瞑ってから三度は確かめ、遅刻しないように早めにベッドインしたが、緊張と、寝床の感覚が違うことの違和感のせいで、なかなか思うように寝付かれず、それでもひたすら目を瞑って気絶に近い粗末な睡眠を繰り返していると、その内朝日で部屋が明るくなっていた。
寝返りを繰り返したベッドはシーツがしわしわになっており、寝ぼけてぼんやりしている宙は、きっと採用されるという自信よりは、やはり、能力か素質が不足しているために落ちるかも知れないというみずからの劣等さの自覚の方が強く、けれど、だからといって、母親と友人に志を示し、東京まで出張ってきた手前、しおしおと退くわけには行かないのだった。
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