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91/102

《91》

***




 炎天がしたたかに続き、水不足が報じられるまでになった。


 世間は盆休みで、方々で里帰りが行われ、汪海町では、地方だからか、出ていく方よりは、帰ってくる方が多いようだった。


 宙はシフトによって、お盆期間中も出勤したり休んだりと、普段通りのリズムで生活していたが、目前に国立天文台の採用試験と面接を控えていた。残り一週間の猶予もないほどに、日時は迫っていた。


 宙は天文学のことはある程度すでに知っているし、分かっているのだが、悩ましいものがあって、それは英語なのだった。


 晴れて技師となれば、宙はハワイで生活を送ることになるわけだが、やはり現地で話される言葉の運用能力は、須らく要求されるのだった。生活のみならず、仕事でも、現地の人とのコミュニケーションは当たり前のようにあるのである。


 宙は苦手としていた英語の勉強に、スターシップMINATOの館長に興味深い求人情報を伝えられたことで、急いで取り掛かるようになったわけだが、付け焼刃の知識でどこまで太刀打ち出来るか、懸念は決して小さくなかった。


 大学を卒業して以来、机にかじり付くようにして根を詰めて勉強するなど、長らくしてこなかった宙は、久しぶりにそうすることで大きいストレスがかかり、イライラして、無性にどこかに出かけたくなった。そして一方では、彼女の内面が抵抗し、家に籠って少しの時間でも努力に注ぎ、技師として採用される確率を出来る限り上げるべきだという良心の声があった。


 どうしようか懊悩した結果、彼女は、次の日が休みの仕事のある夜、家にいた陽子に、一晩車を借りたいと申し出た。陽子がどうするのかと問うと、宙はまたダムの方に出かけるのだと答えた。


 宙は予めまとめておいた必要最小限に近い少ない荷物の入ったリュックを背負い、肩に望遠鏡の入ったバッグをかけると、出かけた。陽子の制止はほとんど聞かなかった。


 宙は南方のダムの方に向かって車を走らせた。今度は宙一人だけで、しかも夜に出発したのであり、前回とは条件が違っていた。一度しか走っていない道程は彼女にとってほぼ初めてに近く、ナビを確認しながら運転するのだが、街路灯の少ないところなどは、道筋が目視しにくく、ほとんど勘に頼らなければいけなかった。


 普段の宙であれば、こういう荒っぽい真似は決してしないものだが、久しぶりに勉強のために机と椅子に拘束されるフラストレーションが推進力となり、彼女の気が大きくなっていた。


 恐るべき湖辺の悪路まで、覚醒した運転センスと集中力でドライブして走り抜け、例の自然公園まで宙はやってきたが、時刻は夜の十時を過ぎていた。勿論、彼女は一晩明かすつもりだったが、今度は車中泊の予定だった。


 夜更けの郊外のひと気のない僻地に、妙齢の女がたった一人でやってくるというのは、かなり野蛮で危険なことだった。


 だが、宙には妙に昂揚感があって、なぜなら、夜空は晴れており、曇っていた前回とはまるで別物の様相を呈していたからである。


 宙が車を下りて天穹を仰ぎ見てみたら、その違いは瞭然だった。彼女はアイドリング状態の車のエンジンをとめ、灯火機を消すと、辺りが真っ暗になり、宙は、まるで自分がプラネタリウムかシアターにでもいる気分になった。


 宇宙とは違って真っ黒でなく、地上の青みがかった黒色の夜空に、街中では指折り数えられるほどしかない乏しい星影が、このダム湖辺の自然公園というロケーションにおいては、宝石を粉々に砕いたかのように、無数の光芒として散りばめられて見えるのだった。大きい星は大きい光を放ち、小さい星は小さい光を放ち、その光の色も、星によって異なり、多様性に満ち溢れた空模様だった。


 肉眼でよく見える星々は、望遠鏡を使うとずっとよく見え、おぼろ月しか見えなかった前回とは打って変わって、観測対象が豊富だった。


 宙は突発的、衝動的にこの湖畔の自然公園まで改めて来てみたが、その動因には、前回のキャンプをかねての天体観測が消化不良に終わった悔しさのあったことが、やはり否めなかった。


 しかし、今回こうして晴れている状況で来てみることで、その悔しさはすっきり清算され、霧消していった。欧華がいないのが寂しかったが、仕方のないことだった。宙はスマホで写真を撮り、欧華や陽子に見せるつもりだった。だが、写真に見える星空は、ただの局限された一隅に過ぎず、本物は、空を仰ぐ宙の視界いっぱいに、またその視界を越えて、無限に広がり、そして輝いているのである。夏は湿気のために空気に濁りがあるが、乾燥して空気の澄む冬になれば、この星空は更に冴えて見えるのだろうが、その時期は野外での天体観測は、かなり厳しいものがあるのだった。




 宙は肉眼で見ることに満足が行くと、今度は望遠鏡を用いて思う様、天体観測に興じた。辺りが真っ暗で得体の知れない生き物たちが跋扈しているとしても、まるで意に介せず、自分のことにだけ没入した。


 そうして一時間、二時間と時間がスルスルと流れていき、目が疲れてきたことでようやくやめにしようかと思って宙がスマホで時刻を確かめてみると、すでに日付が変わっており、彼女は驚倒してしまった。


 急ぎ望遠鏡を片付けて車に乗り込むと、急激に眠気が襲って来、宙は往路で寄ったコンビニで買った菓子パンと惣菜のサラダを食べずに、歯磨き用に買ったミネラルウォーターを一口だけ飲んで、シートを倒して横になり、そうすると、あっという間に意識は付近の闇と同一化して真っ暗になってしまった。




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