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89/102

《89》

***




 次の職が介護の予定だと欧華が告げた時、宙は少し考えてしまった。和子と同様、彼女の経歴とその職の整合性がないことに疑義を持ち、だけど、彼女の意を尊重しないことはなかった。


「介護って、欧華とはうまく結び付かないって気がするんだけど」


 やはり釈然としないという風に、宙が小首を傾げて言う。


「わたし、今はおじいちゃんとおばあちゃんのもとで暮らす身なのね」


 欧華は恬淡として話し始める。


「それで、おじいちゃんたちの面倒を見てくれる人って、孫娘のわたしの他にいないんだ。ほら、お父さんとお母さんは、おじいちゃんたちとも、わたしとも、疎遠になっちゃったからさ……」


 欧華は、どこか寂しそうに、あるいは心細いという風に、そう話した。


「あぁ、そうか……」


 宙はそういうことかと悟り、そして、察するべきことを察せず、岬家の込み入った、あまり愉快でない事情を欧華に口にさせてしまったみずからの軽薄さを悔やんだ。


 結局、欧華と父母が、欧華の今後の生き方に関する話で平行線を辿ったことで出来た溝は、埋められぬまま、夏を終えることになりそうだった。


 確かに、宙は部外者であり、彼等の間に首を突っ込む余地などまるでなく、ただこの親子の不調和に同情があるばかりだったけど、それでも、何か関係の改善が予期される兆しが少しでもあればよかったのにと、残念に思われた。


 二人のステムグラスはすでに空っぽになっており、おいしかったからと、彼女等は新たにアイスコーヒーを一杯オーダーした。


「宙はどう?」


 空いた食器をオーダーのついでに店員に持っていって貰った後、宙の方を向いて欧華が聞く。


「プラネタリウムの仕事の状況は?」


「ちょこちょこ新しいことやらせて貰うけど、特にかわりばえしないよ。それより」


 宙はいささか迷うように目線を落としたが、言ってしまおうと思ってまた上げた。


「わたし、ハワイに行くかも知れない」


「えっ」


「館長から勧めがあったんだけどさ、国立天文台が職員を募集してるんだって。その勤務予定地が、ハワイなんだ」


 その話は唐突で、友人の報告としては驚くべきものだったので、欧華は面食らって目を丸くしてしまった。


「嘘。ホントに?」


 欧華は聞き間違えでないか確かめるように、聞き直す。


 宙はコクリと頷き、「確定じゃないけどね」、と返す。「選考があって、それに落第しなければの話」


「すごいじゃん。国立天文台って言うと、日本の天文学の最高峰でしょ?」


「そうだけど、まだ迷ってるんだ。本当に行くとなると、家にお母さん一人になっちゃうから」


「陽子さん」


 欧華は瞬時に、天国家では父が病死して、今は宙と陽子の二人暮らしであることを思い出し、宙の迷いが汲み取られるようだった。


「わたしには、確かに旅への憧れはあるけど、ハワイってすごく遠いし、英語だって苦手だし」


「英語なんて慣れでしかないよ。わたしがそうだったから。生活していく内に次第に慣れていくと思う」


 かつて父の仕事の都合で海外に長く滞在していた欧華が、確信を持っている風に言う。


「土地だって、住めば都って言うし、ハワイでしょ? 常夏の国で温暖で、望遠鏡が設置されるくらい空気が澄んでるんでしょ? じゃあ、絶対気に入るよ」


 店員がトレーに新しいコーヒーをのせて運んで来、宙と欧華の前に置いていった。


 そうだ、と宙は欧華の言葉に同意した。ハワイは素晴らしい国だ。日本より人口密度が低くてのんびりしてて、星々がさやかに照るほど空気が澄んでいる。海だって綺麗だ。ずっと好きだった天体の観測が身近にあり、研究員ではなく、技師としてだけど、国家的プロジェクトに携われる栄誉は計り知れないものがある。


 だが一方で、宙にはハワイできっと起きるに違いないホームシックが予覚されるようだった。たかだか数十キロ離れた地点でのキャンプでは、郷愁はさほどなかったが、国境を越えた遥か彼方の、六千五百キロ離れた遠国では、大なり小なり汪海町が、陽子が、欧華が、スターシップMINATOが、懐かしくなるだろう。帰りたいと思わせるだろう。


 宙はコーヒーを口にしたが、いやに苦味が強く、シロップを入れていなかったことに気付き、入れてかき混ぜて改めて飲んでみたが、不思議とまだ苦く、前のほどおいしく感じなかった。


 正面に見える海はどこまでも広がっていた。ハワイにもこういった海の一望できる気の利いたカフェがあるのだろうか。そこで遥か日本を偲んで海を眺めて飲むコーヒーは、やはり苦いのだろうか。宙は想像してみた。


「考えすぎかなぁ」、と宙は独り言めかして言う。


 彼女とは違い、おいしそうにコーヒーを飲む欧華は、その言にきょとんとする。


「まだそうと決まったわけでもない話で、一喜一憂するなんて、馬鹿げてるね」


 きょとんとしていた欧華は、宙の自嘲に微笑で返し、「よっぽど行きたいんだね」、とその心中を洞察したように言う。


「行きたいけど、行くことを選択するために負わないといけないものがあるから、迷っちゃう」




 誰だって自己実現のために生きている。こうなりたいという像があって、その像目掛けて進んでいる。宙にもそういう像があって、だけど、一度選んだら、選ばなかったそれ以外にあり得た像は、消滅してしまうのだ。


 ハワイ行きの選択は華々しいものだった。宙にとって、ハワイに行った自分のイメージは、成功であり、挑戦であり、奇跡であった。だがその陰で、取り残される一人親の陽子の心細い姿と、離れ離れになって自然と疎遠になっていく欧華の姿のイメージがくっついて離れないのだった。




***

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