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86/102

《86》

***




 ウカウカしていたらハワイのチャンスを逃してしまう宙は、考えをうまくすっきりさせられない内に、館長の勧めに応じ、国立天文台の募集に応募してみることにした。


 貰ったハンドアウトによれば、履歴書一枚、職務経歴書一枚、及び志望動機を綴ったもの一枚が必要だった。


 応募要件においては、募集している人員がハワイ観測所に勤務する予定になっているせいか、英語が出来ることが望ましいとされており、宙にとって、他の点では不足がないのだが、英語だけが心配の種だった。何せ、彼女は学生の頃から英語の科目が苦手だったのである。しかし、ハワイ行きがかかっている以上、英語の苦手意識だけで見逃すのは宙には惜しかった。彼女はやるだけやってみようという意気だった。




 すでにこのことが陽子に知らされて以降の、八月のある夜のことだった。


 宙が退勤して帰宅し、居間に来てみると、ソファの座面に仰向けになって、雑誌を呼んでいる陽子の姿が見えた。


「ただいま」


「おかえり」


 宙と陽子が挨拶し合うと、宙は陽子の様子を気にしつつ、キッチンに行き、背負っているリュックに入っている弁当箱を取り出し、シンクに置いた。


 彼女はその後リュックを背負い直して自室まで持っていってしまうと、下ろしてまた居間に戻って来、「何読んでるの?」、とソファまで行って陽子に尋ねてみた。


 だが、陽子は雑誌をパラパラ眺めて、「うん」、と空返事の頷きで返すだけだった。


 宙の目には、雑誌の表紙が露わであり、陽子が何を読んでいるのか一目瞭然だった。彼女にとって気になるのは雑誌の内容ではなく、”その雑誌”を読む理由だった。陽子は、ハワイの旅行ガイドブックを読んでいるのである。


「うん、じゃなくてさ……」


 宙が促すと、陽子はガイドブックに目を向けた状態で、「アンタの話で興味持ったのよ」、と、どこかぶっきらぼうに言った。


「旅行にでも行くつもり?」


「ううん……」


 宙の問いに、陽子はガイドブックより目を逸らして、天井を仰ぎ、悩むように低く唸ると、「さすがにねぇ」、と芳しくないという風に続けた。


「わたしの職場の病院も、アンタの科学館みたいに、連休が取りにくいからねぇ。パートの身ではあれ」


 彼女はそこまで言うと、ガイドブックを「はい」、と言って宙に渡し、宙はぎょっとしたが受け取り、陽子は、横になっている状態より、半身を起こして座り直した。


 宙は大して読みたいわけではなかったが、手渡されたので、ざっと目を通してみることにした。


 街並みを一望出来る死火山のダイヤモンドヘッド、希少種のアザラシがいるワイキキ水族館、大規模ショッピングモールのアラモアナセンター……ちょっと見てみただけでも、行ってみたいと思わせる名所がいくつもあった。


「へぇ」、と宙は思わず感心してしまったが、その内膨張する欲望に包まれていく自分にハッと気付き、「いけない」と自戒するように言い、ガイドブックを閉じた。


 その模様を間近に見ていた陽子は娘の挙動がよく飲み込めず、怪訝そうに眉をひそめて小首を傾げた。


 宙はいやにしかつめらしい表情で陽子を見下ろした。


「わたしは観光で行くつもりじゃないんだから」


「けど、実際に行くとして、ハワイで仕事だけして過ごすわけじゃないでしょ?」


「……」


 宙は図星を突かれて答えに窮してしまった。


 確かに彼女にとって、ハワイは魅力にあふれた土地だった。


 宙において、国立天文台の職員に応募する動機付けとしては、まずすばる観測所のスタッフとして働けることの功名心と誇りがあったが、同時に、旅の意欲があった。表裏一体となっているそれぞれの動機付けが、代わる代わる宙を刺激していた。


 宙は、決まりが悪そうに歯噛みすると、「もう!」、と悪態を吐いてガイドブックを陽子に投げて返し、プイとそっぽを向くと、ドタドタ激しい足取りでまた居間を去り、上階の自室に移動した。




 ……。




 陽子は、確かにずっといっしょに過ごしてきた一人娘と離れ離れになるのは、勿論まだ彼女のハワイ行きは決定事項ではないけれど、心細くさせるものがあった。


 行ってほしくないという挽留の気持ちが、ないではなかった。


 だが、陽子には用意があった。


 天国家の大黒柱、瑛地が急逝して以降、家計は決して余裕のあるものではなかったし、過度の贅沢は禁物だったが、陽子はコツコツ浮いたお金を貯蓄し、たとえば結婚など、子供のことで必要になった時に、いつでも拠出出来る状態にしていた。そのお金は、必ずしも子供のためだけのものではなかったが、基本的には宙の援助を主眼としてあった。


 仮に宙がハワイに行くことになれば、諸々必要になるだろう。彼女はパスポートさえまだ所持していないし、スーツケースだって自分のものは持っていないのである。


 陽子は、書店で買ってきたガイドブックを読みながら、自身が当地に旅行した妄想に耽る一方で、同時に、娘が行くことになった場合のイメージトレーニングをしていたのである。どういう家に住んで、どういう食べ物を食べて、どういう気候条件になっていて……等々。


 ソファに座る陽子は、ふとスマホを見てみたが、時刻は七時過ぎだった。


 彼女はスマホをジャージのパンツのポケットにしまうと、立ち上がり、軽くストレッチして、そろそろ夜食を作りにかかろうかと思い、キッチンに向かうのだった。




***

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