《84》
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すばる望遠鏡のことは、宙は一介の天文学好きとして、また星空を解説するプラネタリアンとして、よく知っていた。その界隈では広く知られた高精度、高機能のハイテク望遠鏡であり、天文学系の科学雑誌の記事やニュースにしばしば取り沙汰されていた。
すばる望遠鏡は、日本よりはるか六千五百キロメートル離れたハワイ島の火山に設置されている。人口密度の低さや標高の高さなどの点で天体観測に絶好のロケーションとされており、科学技術の粋を集めて建設されたすばる望遠鏡は、従来に比べてより精確な天体の観測を可能とし、日々未知なる宇宙の解明に寄与しているわけである。
宙にとって、国立天文台や、ハワイ観測所や、すばる望遠鏡などは、同じ畑の存在ではあっても、ぜんぜん身近ではなく、ほとんど無縁に近かった。
その宙が、卒然に国立天文台の職員を志すようになったのは、ある情報が出し抜けに提供されたことがきっかけだった。
スターシップMINATOの事務室にいる館長。彼がある日の昼休み、宙のデスクまで歩み寄ってくると、彼女に何か差し出したのである。
一枚の紙、何かの資料のようだった。
突然のことで宙は当惑してしまった。隣にいる柳川瞳を始め、事務室にいる職員たちは興味津々といった様子であまり見慣れない宙と館長のやり取りを凝視していた。
宙はきょとんとして館長の顔を見返すばかりだった。薄い白髪頭に銀縁の眼鏡。眉毛まで白く、彼は長の職に相応しく劫を経ているのだった。彼のカーキ色のスーツは、ボタンが外されていて、濃い緑のネクタイと、ズボンにインした薄いグレーのシャツが剥き出しになっていた。
「見てみなさい」
館長にそう促されたが、宙は、どうせ新しい仕事の資料だろうと半ば決め付けて手のハンドアウトを見てみた。
ところが、その内容は、彼女が予測したようなものではなかった。
「これは……」
ざっと目を通して、きょとんとしていた宙が、にわかに目の色を変え、真剣な表情になった。
「天国くんが旅好きと聞いてね。よければ応募してみてはどうかな。君はまだ二十三歳と若く、年齢要件を満たしている」
館長はそう言うと宙のそばを去って自席に戻り、隣席の柳川が代わりに、手に菓子パンを持った状態でデスクに寄ってきて、「何々」、と気安いノリで首を突っ込んできた。
宙と瞳がじっと見ているハンドアウトには、一件の求人情報が印刷されているのだった。
《自然科学研究機構 国立天文台 ハワイ観測所 技師 一般公募》
瞳は合点が行ったようにウンウンと頷くと、「成るほど」、と独り言めかして言った。
宙が分からないという風な顔で瞳を見ると、彼女は微笑み、「要は」、と訳知り顔で言った。
「旅と仕事をかねて、ハワイ観測所に行ってみればってことね」
「でも、募集されている職種は技師ですよ。わたしはプラネタリアン、それも新人なのに」
「確かにそうだけど、この求人によれば、未経験でも大丈夫そうだし、チャレンジしてみようと思うならしてみればっていう、館長の計らいじゃない?」
「そういうことだ」
「わっ! 館長、いつの間に」
二人の気付かない内に、自席に戻ったはずの館長が、昼休みで外に行った古川の空席に、腕組みして座っていて、宙と瞳は面食らってしまった。彼の席は、宙のデスクを挟み瞳とは反対側にあるのだった。
「国立天文台には古い知り合いがいてね、きみが望むなら、その人に口を利いてやってもいいのだが」
「本当ですか?」
降って湧いたような現実味のない話に、宙は平衡感覚を損なわれ、眩暈がするようだった。動揺していたが、とにかく宙は、ハワイに行けるのだという風に受け取り、有頂天になった。
「だがしかし」、と館長が注意を促すように言う。「推薦ではなく、ただの紹介でしかない。本当にきみが行きたいと思うなら、きちんと準備して、面接と試験に臨み、自力で採用を勝ち取らなければならない。勿論わたしが紹介する以上、この科学館で働いていることをある程度買って貰えるだろうが」
宙は、館長の勧めに即答出来ず、とりあえず保留することにした。しかしこういう話は、即断即決がいいのであり、求人に期限が設けられているとしても、その期日までずっと募集されているとは限らず、相応の人材が応募してきた時点で決定となり、求人が取り下げになる場合が少なくない。
宙にとってはだが、館長の話があまりに突飛過ぎて戸惑ってしまったので、反射的に首を縦に振れず、いったん冷静に考える時間が欲しかった。
仮にこの話が実現すれば、宙はスターシップMINATOを退職し、転職の形で、陽子と過ごしてきた家と汪海町、更には日本を去り、海の果ての新天地にて新しい職種で働くことになるわけだが、その変化は劇的でどぎついものがあった。
館長曰く、宙がもし不採用になったとしても、現職に留まることは可ということで、この点で、宙は受け皿を与えて貰い、ほとんど心は決まっていた。
けれど、黙って新しい道に進み出すわけにはいかず、陽子に、欧華に、職場の人たちに、伝えて回らないといけないのだった。
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