《81》
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宙と欧華はそれぞれ、今後の人生についての自身の考えを言明することは避けていた。小さい変化ならまだしも、彼女等は抜本的に生活を改めようと企てているのであり、ただの企てに過ぎない段階では、どれだけ真剣に取り組む気であろうと、安易に話すべきではないというある種の清廉さに対する意識があった。またその一方で、話すことでみずからがその企てより逃げられるなくなるというおそれがあり、怯懦のために口にしない部分がいくらかあるのだった。
七月が終わりを迎え、八月になった。夏の盛りの只中だが、カレンダーでは次月は九月であり、秋の到来は遠くなかった。ミンミンゼミの鳴き声にまじってツクツクボウシの鳴き声が聞かれるようになり、ひっそりと秋は忍び込んできているようだった。
宙は半袖のTシャツとジャージのハーフパンツという出で立ちで家のキッチンに立ち、コンロの上の鍋で炒めものしていた。ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、等々が、木のヘラで混ぜられている。カレーのようだった。
欧華とのキャンプ以降、宙においてカレーの好感度が幾らか上がり、食事のメニューで好んで作るようになった。からいのが苦手なので甘口をいつも選び、福神漬けを添えるのだった。
その内野菜と肉に火が通り、水が入れられると、後はキャンプの時とほぼいっしょの手順で完成まで向かい、やがて食卓に宙のお手製のカレーが用意された。お手製といっても、オリジナリティはなく、パッケージに記された作り方に忠実に作っているだけなのだが。
「アンタ、あれから何も話さないけどさ」
いっしょに食卓に付いている陽子がスプーンを下ろして言い出す。その口ぶりや面持ちは、雑談という感じではなく、至ってまじめだった。陽子も宙とおおむね同じで、半袖Tシャツとハーフパンツという装いだった。
時刻は夜の八時半。二人共その日は仕事で、酷暑の日和だった。部屋の冷房は二十六度の設定で稼働している。
「前に言ったことって、本気なの?」
宙はスプーンにのせたものを口に運んで、物思う風にゆっくりもぐもぐすると、「うん」、と頷いた。
「国立天文台で働きたいって話でしょ。本気だよ。まぁ、百パーセントじゃないけど」
「五パーセントくらいは嘘ってこと?」
「嘘というか。やっぱり、絶対に採用されるって保証はないからさ、嘘になるかも知れないっていう自信のなさの割合」
「何それ」
陽子は呆れたように返すと、スプーンを置いてグラスの水を飲み、副菜の野菜サラダのミニトマトを取って食べた。
「まぁ、アンタがチャレンジしたいっていうなら、応援は勿論するけどさ、もし実際に採用されるとしたら、家、出ていくんでしょ?」
「まぁね」、と宙はカレーを口に含んで答える。「ハワイ行き希望だからね」
「アンタまでわたしを置いていくのね」
「何よ。お母さん。湿っぽいセリフなんか口にして」
そう言われ、陽子は軽く冷笑すると、頬杖を突き、リビングの仏壇の方にぼんやり目をやった。
「瑛地くんが亡くなってからは、アンタとずっと二人きりでここで過ごしてきたからねぇ。小学校、中学校、高校、大学……」
陽子の目線の注がれる先に感付き、宙も同じように目を遣った。そして、陽子が今回顧しているだろう彼女の家族にまつわる思い出の情感が、おぼろげに宙にまで伝わってくるようだった。
「十年以上いっしょに暮してきた連れ合いがいなくなるっていうのは、寂しいものよ。まして、アンタが本当に旅立つとしたら、この家にはわたし一人になっちゃうからね」
「別に、まだ決まったわけじゃないし、結局ダメになってここに残る可能性だって大いにあるし」
「そうね」、と陽子は返すと、目線を食卓に戻し、スプーンを持った。
「まぁ、せいぜい頑張んなさい」
しおらしく笑う陽子は、背を丸めてカレーを少しずつ口に運び、対面に座る宙は、母のその姿がずいぶん小さく見える気がした。哀愁を纏っており、同情を誘い、何だか放って置けばどんどん弱っていきそうに娘には思われた。
とはいえ、宙が言ったように、企てが陽子の杞憂に終わる可能性はじゅうぶんにあり、何と言っても、宙が挑もうとしている国立天文台の職は、狭き門なのである。幾つかの職種があり、博士課程まで修了していなければいけないものがあれば、大卒でも応募出来るものがあり、割と多様だった。
やがて夜食のカレーとサラダが食べ終えられ、宙が陽子の分とまとめて食器をシンクで洗い、その間に陽子は風呂に入りに行った。
一人、洗剤を含ませたスポンジでカレー用の大皿をぼんやり磨いている宙は、さっきまでの会話を思い返し、陽子の見せた憂色に罪悪感に似たものを感じていて、難関に挑む大志を持つ自分について誇らしく思う一方で、何か親不孝のようであり、心中複雑だった。
また、旅に行きたいと望んで結局小規模のキャンプに終わった時と変わらず、今回に関しても、宙においては、目標と意欲だけがまずあって、そこまでに到達するためのプロセスがほとんどまるごと欠落しているのだった。
みずからの憧れや夢と、母とふるさととの惜別の予感が、宙の中でグルグルと巡っていた。
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