《77》
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一人タープの中で座っている孤影悄然たる宙は、お腹の辺にやっている両手を落ち着かなげに互いに擦り合わせていた。
夕方の四時を過ぎていた。だが、梅雨が明けた真夏の日脚は長く、暗くなるまではまだまだだった。町中ではうんざりする暑さも、さすがにこういう自然に囲まれたところに来ると比較的穏やかだった。
川の方に行った欧華はしばらく戻ってこない、そういう気が宙においてした。
そういえば、と彼女はふと思い出した。彼女はまだダムを見ていなかった。キャンプサイトはダム湖畔の公園にあるだけで、そこでダムが見られるわけではなく、見るには少し移動しないと行けなかった。
スマホで調べてみると、ダムの水門は、徒歩でに十分ほどの距離にあることが分かり、宙はちょっと行って見ようと思い、椅子から立ち上がった。
だが宙は、自分が離れると、キャンプで留守番する要員がいなくなることを察し、困ってしまった。いくら無人で貴重品は肌身離さず持っており、キャンプ道具は最悪盗まれても致命的ではないと思っているとしても、自分たちのキャンプを放置するのは、気持ち悪いことだった。
仕方なく宙は欧華に一声かけていこうと思い、川の瀬に彼女を探しに行った。
欧華は、カーブする川のちょうど折れ曲がるところの砂利にしゃがんでおり、その後姿は、宙にとって何だか声がかけづらい雰囲気を帯びていたが、ちょっとした不和があった以上、仕方ないことだった。
「欧華」、と宙が遠巻きに呼びかける。「わたし、ちょっとダムの方まで行ってくるね。一時間くらいで帰ってくると思うから、その間キャンプを見てて欲しいんだけど」
宙は欧華の反応を見つつ喋ったが、彼女は呼吸以外の運動が見えなかった。無視されるのかと宙は恐れたが、最後まで言い切ると、欧華は横顔が見えるくらいだけ首を捻って振り返り、ちっちゃい声で「分かった」と返した。何だか取り付く島もないという感じだった。
……。
少しの間、距離を置くのがいいと宙は思った。
彼女は一抹の寂しさと共にキャンプを離れ、車で通ってきた自然公園と湖岸を繋ぐ道路を歩いて逆行した。
荒れた感情は鎮静化される必要があった。
宙は目下、自分と欧華は、ヤマアラシのジレンマのように、刺のために互いに近しく接することが難しく、感情の刺が引くまで時間を置くべきなのだと考えた。自分だってピリついているし、相手だってピリついている。そういった状況では、懸隔を設けることが無難だった。
宙は、湖岸の例の悪路を今度は徒歩で行き、車も人もおらず伸び伸び歩けたが、そのひと気のなさがかえって不気味で、不安にさせるのだった。
スマホに送られた陽子のメッセージに返事していなかったとふと思い出された宙は、だが、これといって知らせるべきことがないので、またしても返事を繰り延べることにした。
その内宙はダムの近辺まで来、白っぽいコンクリートの堤体が遠目に見えた。堤体はただの橋のように見えたが、もっと進んで湖とは反対側より見てみると、恐るべき断崖絶壁となっており、上端の水門より続く導流部が、ずっと下まで続いていた。息を呑む眺望で、また高所が得意でない者には、ダムの底部を覗き込むのは中々ツラいもので、宙は鳥肌が立つようだった。
反射的に目を上空に転じると、叢雲に青天井がチラッと覗いていた。本当にちょっとばかし覗いているだけで、じきに晴れ渡る兆しではないのだが、希望した星空の観察が叶わないわけでは必ずしもないようだった。
◇
宙にキャンプを少しの間離れると言われて、欧華はただ頷くだけだった。
宙が行ってしまったことが気配で察せられると、欧華はしゃがむのをやめて立ち上がり、ずっと同じ姿勢でいたせいか、足が痺れていた。
前屈の恰好になり、欧華は澄んだ川面を見つめた。今回はずいぶん野性味のある旅になりそうだったが、それなりに趣きがあるように、彼女には感じられた。
タープに戻ると、テーブルの両側の椅子が整えられていた。宙が直したのだろう。卓上の二つある紙コップの内片方を欧華は取り、飲み残しを飲み干した。元々冷えていたが、すでにぬるくなっていた。
時刻は四時半過ぎ。そろそろ夕食の用意をしても悪くない頃合いだったが、宙がいない状況で、ひとりでするわけには行かなかった。一方で、いささかぎくしゃくした彼女といっしょに夕食が和気あいあいと取れるのだろうかという不安がないではなかった。
夕食はカレーの予定だった。カレーが無難だった。作るには、具材の野菜を切り、サイコロステーキといっしょに軽く鍋で炒め、後は水を入れて沸騰させて茹で、ルーを溶かして煮込むだけである。ご飯は別の鍋で炊くつもりだった。
おにぎりなどの個人で食べられるものは、チョコレートなどのお菓子を除けば、もはや持っていない。買い求められる場所も近辺にはない。きちんとした食事はカレーだけである。そしてカレーは宙と欧華の二人のためのものであって、つまり、相手に対して憤懣やるかたなしというほどでなく、また、空腹とひもじい思いで惨めな夜を明かしたくなければ、必然的に、二人は互いに協力するべきだし、またせざるを得ないのだった。
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