《7》
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遅くに起き出してきた欧華は、寝間着から、半袖のTシャツと綿パンという装いに変えると、家の正面で掃除している祖母に、もうそれに相応しい時間帯ではないけれど、一応朝の挨拶をかけた。
その丸まった背中に向かって「おはよう」、と彼女がどこかオドオドして言うと、祖母は振り向き、にっこりと破顔して同じ挨拶を孫娘に返した。祖母は割烹着を着、真っ白の髪を襟足の辺りで丸く結わえている。
「朝ごはんは食べたかい?」、と祖母。
「うん。パン一枚だけだけど」、と欧華。
「パン一枚でも、じゅうぶんさ。ちょっとでもいい。ゆっくりでもいい。焦らずに自分のペースでやりなさい。欧華」
「……」
ただのごく潰しに過ぎないと自己嫌悪に陥りがちになっている欧華は、平静に挨拶を返され、また励ましの言葉を掛けられ、感謝は勿論だが、それに加えて、何だか罪悪感に似た感情も覚えるのだった……。
退職する時、欧華の心中は複雑だった。退職届を提出し、期限の日まで惰性で働き、最後の日、仲間たちに別れを告げるのだが、すっきりしないものが、去っていく欧華と、残る仲間たちの間に解きほぐされずに残った。欧華はやむにやまれぬ事由で退職せざるを得なくなったのだが、仲間たちは彼女の離職を大きな損失と感じ、失望するようだった。
欧華は、退職を思い付く少し前から精神的にまずい状態だった。その仕事が、その職業が、彼女の重荷になっているようだった。仕事量そのものはさほど多くないし、彼女の性質が怠惰というわけでもないのだが、仕事に付随する様々な要素が、彼女の精神に悪影響を及ぼすようだった。彼女は精勤すると同時に懊悩し、徐々に擦り減っていった。
今でも欧華においては、在職時の苦痛が生々しく、身近に交わされるまるで遠慮のない憎悪や皮肉や痛罵の言葉が、クリアーに幻聴されるようだった。だが、彼女が奉仕していた『彼等』を責めたり、彼等の口にする相手を貶める言葉遣いを諫めたりすることは、欧華には出来なかった。彼女はそう出来る立場になかったし、彼等には彼等なりの正義や善意のあることが、彼女には鋭敏に察せられていた。
遅い朝食の途中、ついているテレビの公共放送が、語学番組の次に、世界各地で起きている紛争に関する報道を始めると、パンを咥えた欧華は、リモコンでテレビを消し、板張りの床に放り投げられた求人情報誌を、手を伸ばして取り、パラパラとめくってみた。
海辺の町で発刊されるものなので、やはり漁業関連のものが多い。魚料理がメインの飲食店のキッチンスタッフや、水産加工品の運送ドライバー、加工スタッフ。漁船の船員の求人があったが、免許が必須なので、取得していない欧華には無理だった。出来るとすれば、そういう免許を要しないものに限られた。
どれもこれも、欧華が進んでやろうという気になれないキツそうな仕事内容の求人ばかりだったが、色々とある中で、スーパーの鮮魚スタッフの求人が、比較的マシのように、彼女には思われた。バックヤードの清掃や商品の陳列などをするアルバイトで、週三日より応募可能らしい。
祖父母の迷惑になるし、いつまでもフラフラしているわけには行かないと焦燥感に苛まれる欧華は、気重だったものの、とりあえずスーパーのアルバイトにチャレンジしてみることにした。彼女は、その求人のあるページで冊子を逆さまに閉じ、開き癖を付けておいた。
欧華はだが、すぐには募集元に電話したりせず、ちょっと二、三日程度、心の準備を整える期間を挟むことにした。彼女にしてみれば、面接に行って面接官に問い質されるのが怖いし、働くことそのものだって、上下関係があり、種々のハラスメントが起こり得るので、怖かった。また、自身の経歴が人と違うという自覚が彼女にあったし、その点で好奇心を持たれるのが嫌だった。
祖母に、お昼ご飯はどうすると聞かれ、欧華は後で食べる、ちょっと散歩に行ってくると答えた。日が高く昇っており、やや汗ばむほどの陽気だったので、欧華は日傘を用意して出かけた。
岬の寄居する家の近くの入り組んだ道路は、坂道になっており、しかも狭く、車が離合する際、難儀するくらいである。だが、幹線道路がよそにちゃんとあって、大半の車はそっちを通るので、この坂道の交通量はさほど多くなく、通るのは、ほとんどこの辺の住民と決まっている。
歩いている欧華は、陽光に熱された空気を胸いっぱいに満たすと、活力が湧き出てくる感じが、しないでもなかった。陽光には太陽のエネルギーが充溢しているようだった。
やがて彼女は、家の窓より見えていた海辺の防波堤までやってくる。防波堤の階段を下りると砂浜であり、サンダルの欧華は階段を下りていった。
平日の昼頃という時間帯、砂浜にひと気は当然の如く、ないに等しかった。白砂の陽光の照り返しが強く、肌にはあまりよくなさそうだった。
だが、スカッと晴れた青い空に、同じ色の広い海原。スケールの大きい風景の鮮烈さは、欧華に巣食う憂鬱のいくらかを取り去り、その苦悩を和らげたり、忘れさせたりしてくれるようだった。
手でひさしを作り、彼方を望むと、祖父が働く漁港と、海原を走る大小の漁船が見えたが、その向こうに、ひときわ大きい客船じみた船の碇泊している姿が見えた。
あれはどういう船なのだろう?
仕事の継続を諦め、この町に移ってきた時、欧華の目は、大層落ち込んでいたにも関わらず、あの船の巨体を決して見逃さなかった。
あの船は、ずっとあそこに停まっているように見える。故障しているのだろうか? それとも、出航のための準備が、船内でせわしく行われているのだろうか?
関心を持った欧華は、この準備期間の日々の間に、あそこまでちょっと行って様子を見てみようという気になるのだった。
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