《69》
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汪海町まで帰ってくると、欧華は、自分がマスクを着けていないことに気付いて驚いた。以前までは外出の際、特にスーパーのアルバイトに行く際は、彼女は必ずマスクを着用していたのに、知らぬ間に都合によって外すようになっていた。
マスクには、素顔や表情が隠せる安心がある一方で、窮屈さや鬱陶しさが付いて回った。黙々と作業するスーパーのバイトでは、そもそも着用が規則で義務付けられていたし、またスーパーでは欧華はアルバイトでの関係以上のものを他人に求めず、あまり身辺を知られたくなかったので、進んでマスクを着用した。
家庭教師のバイトで、一件目の汪海町の生徒宅に行く際も、欧華はマスクを着けて訪問したが、授業している間、生徒と面と向かって質問や回答のやり取りをしている内、相応しくない気がして外し、その流れで、二件目となる結香の授業では、無意識の内に素顔で訪れたのだろうと、彼女には推測された。
十一時を少し過ぎた頃に家に帰ってきた欧華は、疲れのために小さい声で「ただいま」、と言って玄関の鍵を開けて入ったが、中はシンとしていた。あかりは付いていて、テレビの音声が聞こえ、人の気配がした。憲一はすでに寝ているはずで、となると、和子がまだ起きているのだろう。
欧華は鍵を閉めて靴を脱ぎ、かまちに上がって居間まで行くと、座卓に突っ伏して深い呼吸で背中を上下させている和子を目にした。座卓のそばの明々と照るテレビだけが、眠らないで起きているようだった。
和子は、きっと孫娘の帰りを待っていたのだろうが、耐えられずに寝てしまった風に見えた。座卓にはラップのかけられた皿がいくつかあり、欧華のための夜食だった。焼き魚と、副菜の野菜のおひたしと、きのこの天ぷら。空の茶碗が二つあり、一つは陶器製の白ご飯用のもので、もう一つは木製の味噌汁用のものだった。
リュックサックを肩にかけた欧華が、畳に突っ立ってボーッと和子の寝姿を見下ろしていると、その視線を感知してか、和子が目を覚ましてムクリと半身を起こし、孫娘を目に留めると頬を緩め、「あぁ。おかえり。欧華」、と言った。
「もう十一時ね。夜ご飯は机の上に置いてあるし、白ご飯とお味噌汁は台所にあるから、温めて食べて」
「うん」、と欧華は和子の温情を感じ、ありがたい思いでしみじみ頷く。
「わざわざ隣町まで教えに行ってきたのね。遠かったでしょう」
「遠かったけど、相手がいい子だったから、足を運んだ甲斐はあったと思うよ」
孫娘の話に、和子は「そう」、と答え、彼女が会社にいいように使役されたのではなかったと知って、安堵するようだった。
和子は七十を超えた年齢に相応しく、大儀そうに立ち上がった。
「ごめん、欧華。わたし、お風呂に入って寝させて貰うわね。眠たくてしようがないの」
「うん。分かった。おやすみ。おばあちゃん」
欧華が声をかけると、和子は大きくあくびし、弱った足腰で居間を出ていった。
欧華は和子を見送ると、彼女のいたところにリュックサックを下ろして座り、ポケットよりスマホを取り出して画面を付けた。十一時二十分の時刻の他は特に表示はない。
宙の旅行はどうなっているのだろう。欧華は疑問に思った。だが、連絡が来ないということは、まだ詳細が決まっていないのだろう。そのように彼女に推測され、納得された。
次の日の予定は、スーパーのアルバイトが夕方にあるだけだった。欧華は遅く帰ってきたけど、その分次の日の朝は長く寝られる。だけど、こういう生活をずっと続けていくのは無思慮だった。
欧華は何となく気になって、教職についてスマホでサッと調べてみた。名門大学を卒業しているものの、欧華はこれといった資格や免許は持っておらず、せいぜい英語能力の証明の資格があるくらいだった。教員免許は持っておらず、通信制大学で取得出来るが、時間は勿論、学費がバカにならず、海外旅行で費えた金額を軽く上回っていた。とても現実味のない金額ではないが、気軽に出すことの出来ないものだった。
手詰まりの感じが否めなかった。親の用意した軌道に乗っていればよかったのだろうかという後悔じみた思いが、今になってチクチクと欧華を苛んだ。
欧華の中に。宙との旅のことが何となく思い浮かんでくる。彼女との、星空の見えるどこかまで車でのドライブ。その予定は楽しみだった。
だが、同時に宙という人物の様相がその時嫌に拡大されて見える気がし、欧華は、宙が羨ましく、あるいは妬ましく思えないではなかった。
今は亡き父の影響で天体に興味を持つようになった宙は、その興味と憧れを堅実に保持して勉学に励み、最終的には職業にうまく結び付けてプラネタリアンになった。
その点では、宙は自己実現を果たしたと言える。欧華だって、ピースキーパーという存在に憧れて国際機関の職員になったので、宙と同じく自己実現したのであるが、志半ばで挫折してしまった。
宙が道筋をしっかりトレースしているのに対し、欧華は外れてしまったのだった。
宙に対しての羨望と劣等感が、欧華に根差し、そういった劣情は、友人である彼女のイメージを歪めるようだった。
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