《68》
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「海外に住んでたんだ。欧華さん」
母親が退室した後に結香が言う。その口調は、どこか値踏みしているところがあった。
「お父さんが商船会社で働いてるから、その都合でね。家族みんなで向こうに行って」
欧華が答えるが、結香のその口調のため、何となく決まりが悪い気持ちになる。
「勝ち組じゃん」、と結香。「たいていの人は高いお金払って留学とかワーホリでようやく海外に行けるんだから」
「全然、勝ち組じゃないよ。むしろわたしは落ちこぼれ」
「何で?」
「……」
結香の質問が尋問めいた感じになり、欧華は渋面を呈する。
隠し立てするほどではないと思うようになったので、気が進まないが、欧華は告白することにした。
「仕事、やめちゃったんだもん」
苦悩の響きが、欧華のその告白にはあった。
結香は、別に詮索するつもりなどなかったようで、何かマズいことを聞いてしまったと気遣わしく感じ、にわかに戸惑った。
「ごめんなさい」、と結香。「別に悪気はなかったの。ただ本当に気になって知りたくなっただけで」
「ううん」、と欧華は微笑んでかぶりを振るが、強がりの滲む苦しい微笑だった。
「気にしないで。さぁ、勉強始めよう。あんまりおしゃべりばっかりしてると、怒られちゃう」
欧華はそう言って、ワゴンの上のトレーにあるカップを取って中身に口を付け、「うん」と、気持ちの切り替えのつもりで頷く。飲み物は砂糖入りのホットティーだったが、その時の心境のせいか、彼女の口には、甘味より苦味の方が強かった。
八時ちょっと前に授業が始まって、結香は最初、あまり乗り気でなかったように見えたが、少し会話して打ち解けて以後は、まじめに勉強に打ち込み、よく欧華の指導を聞き、質問した。
欧華は、表面的には平然としているが、高校生相手に失職中であると吐露したことの気後れのせいで、内心しょげていた。ある程度肯定的に受け入れられるようになっていたはずの自己像が、結香という高校生の前に晒されたことで、改めてその良否が暴かれた感じで、欧華は自信を失ってしまった。周りに求められる役割とか立場を我意によって拒んで放棄することの罪悪感がわき起こり、良心の呵責が生じた。絶縁した父母のイメージが――娘に失望して蔑むイメージが、脳裡を何度もかすめ、欧華は、結香の指導中、微かに気が遠くなる感覚に陥った。
八時ちょうど頃より始まった授業は、全授業時間のちょうど半分ほどに当たる四十分後に一旦中断され、五分ほどのインターバルがさしはさまれた。
欧華はトイレに行きたいと申し出、場所を結香にガイドして貰った。トイレは彼女の反対側の部屋に向かって左の、突き当りにあった。
欧華は「ありがとう」と礼を述べ、結香は部屋に引っ込んだが、欧華はトイレに行かず、一階に下り、結香の母親に五分ほど外の空気を吸いに出ると伝えて玄関より外に出、乗ってきた車のそばに立った。
梅雨明けを目前にした時期のその日は曇天で、蒸し暑い日和だった。近くの水田に繁殖するカエルの鳴き声がよく聞こえ、辺りはただの住宅街で、街路灯がポツポツあるものの、あまり明るくなかった。
欧華はダラリと下がる左腕の肘を右手で持って立ち、「ハァ」とダルそうにため息すると、しかめ面で首を左右に振り、右手で右頬を何度かパンパンと、戒めるように叩いた。気落ちを和らげるための試みだった。
――その姿を、二階の部屋にいる結香が見ていた。彼女は何とはなしに部屋の二窓ある引き違い窓のカーテンを開けたのだが、家の正面にとまる見慣れない車のそばに、欧華の後ろ姿があったので、思わず目を留めた。
窓のある壁に接してベッドがあり、結香は少しの間欧華の後ろ姿を見下ろした後、カーテンを閉じて体をくるりと転じ、部屋の中ほどに向かって座って、欧華の心中を推量し、胸苦しい気持ちになるのだった。
……。
休憩のインターバルはきっかり五分でおしまいにされた。依頼主の生徒の親の目は、雇われた身と言っていい欧華の立場では、決して無視してはいけないものだった。
欧華は結香のもとに戻り、開いている教科書のページの項目より授業が再開した。その後授業は横道に逸れるなどせず、予定された二時間と、休憩等の考慮されたプラスアルファの時間分、きっちり行われた。
別れ際、リュックサックを背負った欧華は車に乗り込み、結香とその父母たちに見送られて、加地家を後にした。時刻はすでに十時近くで遅い。帰宅すると、十一時は過ぎていることだろう。
夜道はガランと空いていて、欧華の運転する車は快走した。
ハンドルを握る欧華は、ずっと同じ感情に――自己嫌悪の感情に苛まれており、今の彼女の生活状況が、薄々は覚知していたが、やはり公には認められにくい、打開されるべきものであることが明らかにされ、憂いを隠せなかった。
では、どうすればいいのか?
車は長いトンネルを潜っている途中だった。カーラジオが付いており、聞いたことのない洋楽が流れていて、欧華には何となく分かる英語の詞が、その時は何となく耳障りだった。
悩める欧華の見通しは、車が潜っているトンネルのように、長く狭苦しい通路めいた、不安にさせるもののようだった。
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