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《66》

***




 海外旅行以後、岬欧華は生活に変更を加えた。元は一つだったアルバイトを、二つに増やしたのである。以前からやっていたスーパーのスタッフは継続し、新たに家庭教師をするようになった。


 国際機関の職員をやめて以後の欧華は精神的に落ち込み、柊医院の心療内科への通院と、何もしないでいい時間とが必要になったが、療養期間を過ごすことで、精神的な落ち込みは徐々に和らいで、同時に活力が出てきた。


 彼女がアルバイトを増やしたのは、もちろん旅費のカバーの意味がまずあったが、更に彼女の意欲もあったのである。回復して戻ってきたエネルギーが、発散されたがっていた。


 家庭教師のアルバイトの面接の際、欧華は面接官に希望の勤務エリアを問われたが、彼女は汪海町と回答した。やはり行きよいのが望ましく、あえて地元より遠くを選ぶ意味はなかった。面接官は納得したが、ひょっとすると汪海町以遠のエリアまで行って欲しいという依頼があるかも知れないと注意喚起した。


 まず欧華は一人だけ担当することになり、汪海町に住む中学一年生の女の子で、英語の学習が希望だった。週一日より始め、一回の授業は二時間だった。将来語学留学がしたいと希望の生徒だったので、海外にいた経験のある欧華は恰好の相手だったし、更に言えば、欧華の経歴はその生徒にとってのロールモデルであり、彼女は羨望の的だった。ただし、欧華が国際機関の職員になるまでの話であるが。


 家庭教師として個人宅を訪問するに際し、欧華は必ずしも生徒に授業を施すだけでなく、親とよもやま話を交わすことが間々あった。お家にお邪魔する身で無碍に断るわけにはいかないので、欧華は快く応じたが、相手の温良な人柄のお陰で決して煩わしいものではなかった。


 その過程で身辺の話に触れられるのは果然避けがたいことであり、しかしスーパーのアルバイトの面接の時などと比べれば、自身の境遇を知られるのは欧華にとってさほど気重ではなかった。生徒の親は、彼女の事情をきちんと汲み取った上で哀れみ、いいようにことが運ぶように応援してくれるのだった。


 さて、欧華の初めての家庭教師のバイトは首尾よくいき、教育機関を卒業してしばらく経つものの、彼女の明晰さは大いに発揮され、生徒の学習は捗った。途中、生徒が嫌になって集中力が散漫になってきた時などはいささか面倒だったが、欧華自身、親が厳しかったので、こういう時に頭ごなしに叱責されると逆効果になるイメージがあったことから、あまり責めたり侮蔑したりせずになだめすかしてやると、割合うまくいくのだった。


 多少の気の逸れや集中力の低減は仕方ないという欧華の思いが、ある種の懐の深さとなって、生徒の安心感と信頼に繋がるようだった。(もちろん、この話はこの生徒に限ったものであり、あらゆる生徒のパーソナリティは千差万別なので、対応はケースバイケースになってくる。)


 その生徒の授業が始まって一週間くらいしたタイミングで、会社が新しい依頼を紹介してきた。今度はしかし汪海町ではなく、隣町の生徒宅が依頼主だった。高校一年生の女の子が対象のようで、希望の科目はまた英語だった。


 欧華としては、出来れば引き受けたかったけど、隣町となると行き来が大変になるので、断ろうとまずは思った。公共交通機関では不便なので、車しか手段はなかった。だが、遠くても交通費がしっかり出ると会社が言うので、欧華は気持ちが一転し、半ば押し付けられる感じがしないではなかったが、引き受けることにした。授業は生徒一人につき週一回、二時間程度のものなので、負担といっても、たかが知れていた。また、隣町まで距離が遠いことを逆手に取り、いつものように憲一の車を借用して、ドライブがてら行ってやろうという思いが、彼女の引き受ける動機付けとしてあった。




 ……。




 七月になり、欧華は夏の気配が感じられるようだった。気温が高まり、梅雨の合間の晴れの日が猛暑日になったり、うっすらと蝉の鳴き声が聞こえてきたりした。食卓にはそうめんが出されるようになり、透明のガラスのボールに、氷といっしょに入った白く細い麺がとても涼やかで、またおいしかった。祖母の和子が縁側に水色の風鈴を飾り、晴れの日も雨の日も、風が吹くとチリンと慎ましい音を鳴らすようになった。祖父の憲一はアジなど夏が旬の魚介類を持って帰ってくるようになり、土用の丑の日がバイト先のスーパーでアピールされるようになった。




『よかったら、欧華、来る?』




 ある夕べ、燃えるように明るい紅色の空の下、スーパーのバイトに向かう途中の交差点で、欧華は偶然宙と行き交わし、彼女に誘われた。宙はぜひとも旅行したいようで、なのに目的地は未定だった。


 その後宙から連絡が来、まだ詳細までは決まっていないが、とりあえず星空を見にどこか空気の澄んだところに行くというのが、彼女の誘った旅行の概要だった。




 空気の澄んだどこかと、冴えた星空。それらを想像してみると、欧華は、まだ記憶に新しい、海外旅行した先の草原で見上げた星空のビジョンが、まざまざと浮かんでくるようだった。




***

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