《63》
***
紅色だった夕空が、夜に近付くことで紫色になってきた頃、仕事を終えた宙は家まで帰り着き、乗っていた自転車を下りると、正面の庭の隅にとめた。
家の灯りがついており、陽子はすでに帰ってきているようだった。時刻は夜の六時半過ぎ。
体中がジトッと汗ばんで宙は気持ち悪かった。まだ梅雨の最中だが、晴れ間のその日は、盛夏が顔をのぞかせていた。
踊り場付きの短い階段を上り、宙は玄関の扉を開けて中に入ると、靴を脱いで上がり、リビングに向かった。
室内はクーラーが付いていて冷涼だった。
「おかえり」、とソファに座ってスマホをいじくっている陽子が、目線を上げずに宙を迎える。
「ただいま」、と宙は返し、陽子の前を通って階段に向かい、二階にのぼると自室に入った。
照明を付け、机の上にリュックサックを置き、「フゥ」、と一息つく。
……。
宙は部屋着に着替え、その日仕事に着ていった服を一階の脱衣所の洗濯機に入れると、リビングに戻り、キッチンの冷蔵庫よりペットボトル飲料を取り出して、グラスに注いで飲んだ。少し炭酸の抜けた炭酸飲料だったが、爽やかだった。
グラスの中身を一気に飲み干してゲップを吐くと、宙は「サークルがあるんだって」、と、ソファまで届くように、気持ち大きめに言った。
「何?」、と陽子はしかしよく聞こえなかったようで、聞き返した。
宙はグラスを台に置いて彼女のそばまで行くと、「サークル」、と繰り返した。
「サークル?」
左腕をソファの背もたれにゆったり置いて膝を組んでいる陽子は、右手でいじくっているスマホを腿の上に置くと、そばまで来た宙を見上げた。
「天文同好会っていうのがあってさ、職場の人に教えて貰った」
「へぇ。いいじゃん。でも気を付けなさいよ。男ばっかりだったら、アンタ、危ないから」
「そういえば、男女比は知らないなぁ」
宙は顎を持って目で天井の方を見上げ、独り言めかして言うと、目を元に戻す。
「二十代がほとんどみたいだけど」
「遊んでばっかりの名ばかり同好会じゃないといいけどね」
陽子が連続してネガティブな発言をするので、宙は何だかしょぼくれてくるようだった。彼女は顎にやった手を下ろすと、腰の後ろで組んだ。
「まだ参加するって決めたわけじゃないよ。参考程度に教えて貰っただけで」
「後はお金がかかるのかっていう点も、確かめとくのがいいわね」
陽子が腕組みする。
「会費という会費はないみたいだけど、問題は場所が遠いっていうことなんだよね。隣町で活動してるからさ」
「ってことは参加するなら、隣町まで活動のたびに通わなきゃならないってことね」
「大学卒業後はマメに行ってないからなぁ」
「サークルの活動が月一回とかなら、大丈夫じゃない?」
陽子はそう言うと、「ちょっとトイレ」と言ってソファより立ち上がり、離れていった。
宙は陽子のいたところの隣に座ると、スマホをポケットより取り出して、例のホームページを表示して閲覧した。
隣町の天文同好会の活動内容は、あまり遠くない範囲における、星空が冴えて見えるスポットへ皆で行って観望会を催すというもので、移動の際にはサークルの運営委員の車か、公共交通機関が用いられるという話だ。
そもそもこの同好会を宙が知るきっかけとなったのは、彼女の旅行の計画であり、旅行の目的が天体観測と定められたのはいいが、経験がない彼女にはどこにどうやって行けばいいのか分からないとのことで、古川が親切で彼女に教えてやったのだった。宙の企てたようなことをやっているサークルがあるので、そこに参加しさえすれば、彼女は一人で悩んだり考えたりしなくていいわけである。年齢層も二十代が多くて、二十代前半の彼女には隔たりがなくて馴染みやすいだろう。
だが、宙はどちらかというと、その幽霊っぽい容貌を形成した内向的性格ゆえ、まったく他人という状況から既成の大勢の人の輪に入るというのは、やはり躊躇されることだった。
その内陽子がトイレより帰って来、宙の隣に座り、宙が眉間に皺を寄せてスマホを睨んでいるのを見ると、「迷ってるの?」、と尋ねた。
「参加したいんだか、したくないんだか」
「一人でっていうのは何でも勇気が要るものね」
陽子の言に、宙はコクリと頷く。
「あっ!」
陽子は何か思い付いたように目を見開く。
「欧華ちゃんでも誘ったらどう?」
成るほど、と宙は陽子の提案に合点が行った。欧華といっしょにサークルに参加する。だがその提案は、特に鋭い発想のものではなく、元々そのことを考慮に入れていた宙は、あまり賛同出来なかった。
「欧華は今、ちょっと忙しいからさ。こういうの、誘いにくいんだよね」
宙はそう言い、彼女が忙しいのは確かに間違っていなかったが、欧華を誘うのが難しいワケは別にあり、それは、彼女の気後れだった。
欧華はまだ見知らぬ人と打ち解けるのが容易でない状況にあった。彼女は仕事を早期にリタイアし、世間的には脱落者であり、そういう状況に身を置いていることを、彼女は出来る限り大っぴらにしたくなかった。
宙は、先刻彼女と別れたシーンを思い返した。夕焼けの下、手を振ってにこやかに挨拶し、自転車で横断歩道を渡って遠ざかっていくその後ろ姿と、長く伸びる影法師。
今の欧華をサークルとかそういうものに誘うことは、彼女を困惑させるだけに違いない。宙にはその確信が強くあった。
***




