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《61》

***




 千切りにされたハムとキュウリと錦糸卵がのせられた縮れ麺の底部が、広い皿の上で、酢醤油に浸かっている。宙も瞳も、オーダーしたのは冷やし中華だった。


 箸で麺を持ち上げ、具材と共にズルズルとすすって食べる二人のテーブルの上では、ピッチャーの水の注がれたグラスがびっしりと結露している。




「旅行ねぇ」、と瞳が言う。「行けないことはないんじゃない。二日っていう期間でも」


「本当ですか」、と宙。「何だか自信なくて」


「必ずしも成功するとは限らない。だからこそ、旅行っていうのは面白いんじゃないかしら」


「成るほど」


 冷やし中華を味付けする酢醤油の程よい酸味が、食欲を掻き立て、空腹だった二人の皿の上は、あれよあれよという間に減っていく。あまり上品ではないが、彼女等は食べながら話していた。


「いい旅のコツは、せせこましい気持ちを捨て去ることね。とにかく余裕を持つこと。お金と時間があれば、いくらでも余裕が持たせられるけど、ない場合は知恵を絞ってその不足を補うべし」


 そう言って瞳がまず完食し、いささか仰々しくわざとらしいやり方で、合掌して「ごちそうさま」、と唱える。


 宙はというと、残りわずかで、瞳にさほど遅れず食べ終えることが出来そうだった。


 宙は瞳の教えを参考に黙考していた。いい旅のコツは、ゆったり構え、せかせかしないこと。旅費に関して宙は、日頃浪費しないのである程度出せるが、リッチというわけにはいかなかった。時間に関しては、これは限られていて、二日間である。出発地である汪海町より離れれば離れるほど時間に余裕がなくなるので、近場がやはりいいだろうか、などと彼女はぼんやり考えた。


 その内宙も食べ終え、瞳と同様に合掌する。


 時刻は十二時四十分を過ぎたところだった。休憩時間の残りは少なく、これ以上のおしゃべりは無用だった。


 二人は席を立って別々に会計を済ませると退店し、来た道を戻り、スターシップMINATOに帰還した。




 午後の仕事の間の宙の悩みは、旅の移動手段だった。行き先が決まっていないのに、彼女はすでに移動手段を決めにかかかっていた。電車、新幹線、飛行機などの公共交通機関は勿論、最近運転免許を取得した宙の選択肢には、車が加わってくるのだった。陽子の所有する家の車でもよかったし、レンタカーでもよかった。問題は運転がきちんと出来るようになっているかどうかと、陽子が車の貸与を許可してくれるかどうかだった。


 だが結局のところ、目的のはっきりしない旅の計画を練るというのは不条理であり、宙がどれだけ考えたり悩んだりしたところで、捗々しくいかないのは理の当然だった。


 目的という問題が意識に現れて程なく、宙には思い出されることがあった。


 五月の連休中の、欧華が泊まりに来た頃のことだった。宙が彼女の運転と車で海沿いの道をドライブしていた時、宙は車の運転をするかと問われ、彼女はしないと答え、そもそも免許が当時はなかったのだった。


 その話の流れで、欧華は宙に運転免許を取ることを勧め、そしてプラネタリアンの彼女に、望遠鏡などを車に積んで星のよく見えるところまで出かけるなどしてみてはどうか、と提案したのだった。


 お昼休憩の後、宙は科学館のプラネタリウムに戻り、予定された投影の解説を務め、その終了後、観客が投影室より出ていくのを見届け、ホッと緊張が解けたタイミングで、宙はその時のことが思い返されたのだった。


 亡くなった父のおさがりの望遠鏡があるが、使うのはベランダか、あるいは汪海湾のビーチと決まっており、他のロケーションで使ったためしがなかった。汪海町は都会というには鄙びており、大都市ほど車の交通量がないものの、大気は決して澄んでいるとはいえないほど汚染されていて、望遠鏡を用いたところで観察出来る対象の星は限られていた。


 ようやく宙において、自身のプラネタリアンという職と、車を運転できる資格を得たことと、欧華のアドバイスとが、旅行欲を媒介にして結実したのだった。


 延々と曖昧模糊としていた旅行のイメージが、ようやくクリアーに見え始め、宙の意気はにわかに昂じてきた。


 その日の三時の休憩時、宙はまた古川と話しにデッキに行き、以前よりはずっと具体的になった旅行の計画を彼に話してみた。


「悪くないんじゃないか」


 宙の案を耳にした古川が、納得が行ったようにコメントする。


 彼はいつものようにタバコを手に立っており、宙はプラスチックの椅子に座っている。梅雨の晴れ間の海景は壮観だった。雨天で暗かった海原の色味が、晴天の光に照らされることで明るくなっている。


「星空の観察だけなんで、旅行ってほどのものじゃないんですけど」


 宙がいささか気後れしたように言う。


 だが古川が、「旅行だって自信を持って言えばいいさ」、と励ますように返す。


「見知らぬ土地に行くっていうのは、そこが遠かろうが近かろうが、ちゃんと旅の要素を含んでる」




 星空の観察――宙が決めた旅行の内容だった。まだ内容だけが決まっている状況だが、どこかに行きたいという欲求があるだけだった以前と比べれば、彼女の旅行の計画は、かなり前進したといえるのではなかろうか。




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