《59》
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海外旅行の願望に対して、古川は頭ごなしに無理だと断定したが、宙はそうされることで、ますますその願望に対する意欲と執念が強まってくるようだった。宙には憧れぐらいしか動機付けはないのだが、願望というのははねつけられると、かえってこだわってしまうものなのだった。
「必ずしも、旅行は海外じゃないといけないわけじゃないんです」
宙がくいさがって話を続ける。心なしか、休憩用に買った飲料を持つ手に力がこもっているようだった。
古川においては、もう終わりかけたか、すでに終わった話を続行され、いささか呆れるようだったが、同時に、後輩の執念が察せられる気がした。
「国内でも別にいいんです」
「国内旅行だったら、この職場は、二連休は比較的取れるし、行けないことはないんじゃないか。といっても、行き先によるし、うまく計画してやらないと、せわしなくなるだろうが」
そういえば、と宙は思った。そういえば、父が亡くなって以後、旅行という旅行に行ったためしがない気がする。生前は、温泉に入りに行ったり、古いお寺に参ったりしに家族で出かけたものだが、父の死後は、めっきり行かなくなった。その頃宙はまだ小学校低学年で、親に連れていかれるなどしなければ、旅行など出来ようはずはないし、また、物心付いてからは、ちょっとしたガリ勉になって、男性アイドルグループの応援を癒しにして暮らすようになった。
「行き先は?」
「……」
古川の問いかけに、宙は考え事でボーッとしていて返せなかった。
「おい、天国」
「……?」
「『?』じゃねぇよ。行き先はどこだって聞いてるんだ」
遅れて、宙はまっすぐ向いている目線を古川の方に向けた。
古川は若干イライラして、タバコの煙を気持ち多めに吸い込んだ。
「行き先は、まだ決めてないです」
「行き先も決まらないで、何で旅行の話なんてするんだ?」
「何で?」
問われて、宙は目線をまた真っ直ぐに向け直した。デッキの欄干越しに、海原を見遣る。荒れた海と白く泡立つ波。灰色の雲と降り注ぐ雨。目の前に広がるのは、部屋でぬくぬく引き籠っていたいと思わせる荒れ模様だった。
「さぁ?」、と宙はとぼけたようにしばし考えた後、返す。「親が旅行に行って、友達が旅行に行って、自分だけが行けないのが、何だか悔しくて」
「何だ。ただの意地か」
宙を憧れさせる秘境でもあるものと踏んでいた古川は、彼女の深みのない真意を知って索然とするようだった。
宙はコクリと頷き、「本当に」、と返す。「ただ単に衝動的にしたくなった、って感じです」
「今、思い出したんだけどさ」、と古川。「確かこの職場、従業員が結婚すれば、慶弔休暇で連休が取れたはず。二連休よりもっとたくさん」
宙は「ハハッ」、と噴き出すように笑い、手で膝を叩く。「結婚はちょっと。ただ海外旅行したいがために結婚なんて出来ないでしょ」
「何だよ。まじめに提案してやったっていうのに」
「あっ……すみません」
不適切な答え方でムッとした古川に、宙はシュンとして謝る。
「けど、この職場、独身の男性ってどれくらいいましたっけ?」
そう言いながら宙は、すぐそばにいる古川も独身だったとその問いかけの途中でハタと気付き、二人は沈黙して、ちょっと気まずい雰囲気になるのだった。
……。
その日の定時頃、宙は一応旅費を稼ぐという名目で一時間ほど残っていたら、隣の柳川瞳も残っていた。古川は定時で帰って、そのデスクはすでに空席となっている。
「柳川さんって、結婚したの、ここに入社した後のことでしたっけ?」
「うん。そうだよ」、と瞳。
彼女等はパソコン作業しながら、なるたけ声を抑えて話したが、館長は古川と同じタイミングで退勤しておらず、彼女等を睨んだり注意したりする者はいなかった。
「どうして?」
「慶弔休暇って、ありましたよね?」
「あった。一週間だったかなぁ」
「一週間! けっこう長いですね」
「だから、わたし元々旅行好きだし、その休暇は海外に行ってたわ」
そう返し、瞳はブラインドタッチをやめてデスクの引き出しを開け、ファイルを取り出すと、あるページを開いて見せた。
「これ。その時の写真」
ビニールのポケットに写真の貼り付けられた厚紙が入っている。夫と思しき男性と瞳のツーショットの写真が多い。ハネムーンの記念写真のようだった。
ゴシック様式の聖堂での天井絵の写真や、飲食店でピザとパスタの皿が置かれたテーブルでの自撮り写真や、雪に覆われた重畳たる連峰を背景にした草原の風景写真などが、並んでいる。
「ヨーロッパですか?」
作業の手を止めて写真を眺め、宙が尋ねる。
「そう」、と瞳。「せっかくの新婚旅行だから、やっぱり飛び切り垢抜けたところに行きたかったのよね。イタリア、スイス、フランス……ずいぶん高く付いたけど」
「いいなぁ」
宙は純粋に憧れの念を持ち、瞳の写真を一枚一枚、うっとりと見ていった。
こうなると、すでに旅行に行きたくてウズウズしている宙は、更に動機付けとなる憧れを促進され、その気持ちが増してしまうのだった。もちろん、慶弔休暇のために結婚することは非現実的だが、二連休はまだ取りやすいと古川が言っていて、宙は取りあえず、二日の休みで出来そうな旅の計画を練ってみようと思うのだった。
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