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《58》

***




 宙にも欧華にも、それぞれの生活があり、やるべきこととやらなければいけないことがあった。宙は科学館の職員として、欧華はスーパーのスタッフとして、労働する日々を送っていたし、それぞれの住居には同居人がいるものの、成人なので、一定の家事の負担を負わないといけなかった。


 宙は二年目の新人職員として、まだ慣れないことが多く、一人前になるまでの途上にいたが、欧華は道を逸れて迷っていた。どうすればいいのか。どうするのが正解なのか。


 絶縁してしまった親に帰服すれば、みずから考えなくても進むべき道筋が得られるのだが、欧華はその選択を断念した。ずっと父母の言いなりになってきた彼女には、いつからか頑なさが萌し、他人の指図ではなく、自分の意志を重んじるようになっていた。


 結局、父母なしでは何事も覚束ない現況を鑑みれば、欧華はみずからの力の不足を痛感せざるを得ないのだが、あくまで自己決定ということに拘るつもりでいた。


 欧華はとりあえず、海外旅行のために費えた分をカバーすべく、アルバイトをひとつ増やすことにした。家庭教師だった。欧華は学生時代、勉強が得意で成績が悪くなかったので、新しいアルバイトを探す時にあまり迷わなかったし、採用する側は歓迎した。彼女の学歴は好都合で、その学歴さえ耳に入れれば、多くの進学希望の学生やその親を惹き付けられるに違いないと、家庭教師派遣会社の社員は期待した。


 アルバイトの面接に行く際も、欧華は不織布マスクを着けていたが、その頃には彼女は、自己を晒すことに対する抵抗が少なくなっていた。彼女は覚束ない生き方をみずから容認して肯定し、いくぶん前向きになっていて、高い学歴と類を見ない就職先に反して、特にこれといったビジョンなしにアルバイトの応募に来たことを面接官に怪訝に思われたが、あまり気に障らなかった。


 確かに旅を終えた帰国直後の欧華は、せっかくのリフレッシュした気分が、また旅行以前の状況に戻ることで台無しにされる気がしたが、繰り返し現実の自分と対峙することで、だんだん素直に向き合えるように、言い換えれば、現実離れしていた自分を、きちんと地に足が着くようにしようと思えるようになっていた。


 宙の家に行った時、欧華はそのことを話してみて、すると宙は彼女の意志を尊重した。


 欧華には、はっきりそうだと分かる変化はなかったが、宙の目には、彼女が妙に大人びて見えるようになっていた。最初に出会った時、すでにそういう印象はあったが、時を経るごとにその印象が強められていくようだった。現況、欧華は祖父母の家に寄居している身空だが、宙は、彼女が決して祖父母に甘えるつもりも、また現況に甘んじるつもりもなく、出来る限り早く自主自立の道を打ち立てようと鋭意もがいていることを、友人としてよく理解していたし、ひっそり応援してもいた。


 そういう宙は、欧華の支えになりたいと思う一方で、無性に旅行に行きたくて仕方がない思いを持て余すようになった。


 五月には陽子の旅行があり、その後職場の柳川瞳の話を聞き、そして旅先の欧華の写真を見ることで、宙はすっかり感化され、触発されてしまったようだ。




 ……。




「旅行に行きたい?」


 古川が聞き返す。ある日の午後の休憩時間、宙が彼に問いかけた。午後三時の休憩時には、古川は決まって喫煙しにスターシップMINATOのデッキの喫煙スぺースに行くので、宙はそこに話のために現れたのだった。古川は灰皿スタンドのそばに立ち、宙はプラスチックの椅子に座って自販機で買った飲料を飲んでいる。


「海外旅行を夢見てるんですけど」


「……?」


 古川は灰の長くなったタバコを指に挟んだ状態で、出し抜けの相談を持ち掛けてきた後輩を、些少の哀れみのこもった目で見ている。


「あくまで夢見てるっていう話なので、あんまり面食らわないで貰いたいんですけど」


「海外旅行ね」、と古川は独り言めかして呟き、タバコの灰を灰皿にトントンと落とす。「おれも行けるなら行きたいが、仮に行くとすれば、退職してからだなぁ」


「要するに、不可能ってことですね」


 古川がタバコを吸って煙を吐くと、「お前も知ってるだろうが、ここ、連休が取れないからさ」、と返す。


 宙は、シュンと落ち込んだように肩を落とす。


「柳川さんの話でも聞いたのか?」


 古川の推測に宙は顔を上げ、「分かります?」、と言う。


 デッキより見渡される海は時化ており、波が船体に当たって砕け散る音が下の方でしている。細かい雨が、デッキの床まで降ってきている。


「あの人、旅好きだから。大学生の頃かららしいけど」


「海外旅行したくなったワケは、柳川さんの話だけじゃないんですけどね」


「まぁ、詳しくは知らないが、とにかく旅行は無理だ、無理。諦めろ。大体お前はまだ二年目の新人だろうが。まだ贅沢を言うには早い」


「ハァ」、と宙は慨然とため息する。「パワハラです、パワハラ」


「ただの忠告だろうが」、と古川が突っ込む。


 古川が下ろしている手にあるタバコの紫煙が、宙の鼻には苦く感じられる気がした。


 旅行に行きたい思いが否定された感情が、見渡される海原の荒れた様に自然と投影され、宙は落ち込んでくるようだった。


 本当に無理なのだろうか。


 宙はだが、すんなり諦めるつもりはなかった。




***

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