表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/102

《55》

***




 夜中の町を緊急走行する救急車は病院に到着し、瑛地は集中治療室まで運ばれた。一刻を争う事態であり、予断は許されなかった。


 看護師の陽子としては、まさか自分がこういう形で勤務先の病院の世話になるとは思いも寄らず、常にそわそわして、みずから医師の補助に当たろうかと考えたものの、動員された集中治療室担当の看護師に制されて諦めた。


 瑛地は担架からベッドに移され、酸素マスクが口に、心電図モニターが胴体に付けられ、点滴の用意がされた。


 少し離れたところでハラハラして並んで立っている宙と陽子は、看護師に丸椅子を用意され、そこに座るように促されて座った。


 その親切に対してお礼すら言えないほど、彼女等の意識は危篤の瑛地にだけ向けられており、椅子に腰を下ろしたところで落ち着けるわけはなかった。


 紺色だったり白色だったりする作業着(スクラブ)を着用する医師と看護師たちが慌ただしく施術している光景が、二人にはどこか遠くの世界のもののように見え、瑛地の回復を願う彼女等は、その一方で、この緊張を強いられる状況より逃避したい思いに駆られていた。付き添いたいという思いと、逃げ出したいという思いに自我が分裂し、陽子はただおろおろしているばかりだったし、一方で宙は、その内疲れと不安に参って眠ってしまい、陽子にもたれかかって彼女に肩を抱かれていた。


 しばらくして治療が終わり、女性看護師の一人が宙たちのところに歩み寄ってくると、陽子は結果知りたさに勢いよく椅子より立ち上がり、彼女と対面した。眠っている宙は起きず、よっかかる対象を失った体を陽子の椅子にぺたりと横たえた。


「主人は、どうですか……?」


 苦しそうに胸の辺の服をギュッと握り締め、陽子が恐る恐る尋ねる。


「出来る限りの治療は施しました」、と看護師。その向こうでは、医師と他の看護師たちが、険しい表情で俯いている。


「後は、ご主人の体次第です」


「そうですか……」


 もし、看護師から、開口一番に「安心してください。もう大丈夫です」、などと言って貰えれば、陽子はホッと胸を撫で下ろすことが出来ただろう。だが、瑛地の容態はまだ不確かで、不安定で、予後の見通しが付かないのだった。


 瑛地が亡くなってもおかしくないことが、何とはなしに陽子に予想され、だけど施せることは全部、医療従事者たちの善意と使命感によって施されたわけで、文句の付ける余地などなく、後は幸運を祈るばかりだった。


「ありがとう、ございます……」


 喉を絞るようにか細い声で、だけどしっかりと、陽子は深々と頭を下げて礼を述べた。すると医師と看護師たちも、同じように深々と頭を下げて返した。


 頭を上げると、陽子は激情を持て余し、くしゃくしゃの顔で、ほとんど泣いてしまいそうだった。




 ……。




 瑛地はその後、一見落ち着きを取り戻したようだったが、その落ち着きは近付きつつある死による衰弱に過ぎず、最終的に瑛地はその晩、息を引き取った。


 心停止して心電図がフラットになった時、医師たちは再び懸命に処置を施したが、瑛地の病魔は強引に彼を黄泉の世界まで連れていってしまった。


 陽子は、ずっと眠る宙の肩を抱きながら、ずっと瑛地の手を握って離さなかった。心中では、ある程度覚悟が出来ており、これから一人で娘を育てていくのだといういじらしい気概で、宙をひしと抱いていた。


 死亡が確認され、死後の手続きが諸々始められた。葬儀屋との相談や、保険会社への連絡、等々。


 宙は父が亡くなったと知らされた時、まだ十歳にも満たない子供だったが、その事実がおのずと悟られたし、だからこそ、大声で号泣するなどしなかった。(勿論、その後の日々で悲しくて涙が出る時はあったけれど。)


 父の死の重みは大きいもので、宙は胸を強く打たれたように苦しくなったし、必ずしもその事実をすんなり受け止められたのではなかった。お星さまを撮ってきたという知らせと共に遠くの海より帰ってきてくれた父が存在しないという欠損感は、途方もないものだった。


 葬儀の会場や日程が決められ、親族のみで葬儀が執り行われたが、父と繋がりのある友人たちや、治療してくれた医師と看護師たちが焼香に来てくれた。死んだ瑛地の顔は、死に化粧を施されているせいか肌艶がよく、宙の目にも陽子の目にも、ただ眠っているだけのように見えて仕方がなかった。


 瑛地の遺体が納まる棺には花が添えられ、火葬場で骨になると骨壺に入れられ、その後は、宗教の慣例に則って逐次、管轄のお寺の指示に従えばよかった。


 一週間ほどバタバタする日々が続くと、嵐が去ったようにことは沈静化し、父の不在を除けば、後は元通りの日常であった。


 宙は、様子が変わってしまった。元々髪をアレンジするのが好きだった彼女は、髪のアレンジをしなくなって、ただ伸ばすだけ伸ばし、その内背中の中程まで長くなって、陽子が切るように勧めても、切ろうとしなかった。


 目が隠れるほどの前髪と、彼女の背負うランドセルが覆われるほどの後ろ髪で学校にしばらく通うと、宙は幽霊だと揶揄されて、まずムカッとしたし、また自分自身、だんだん髪が鬱陶しく感じられてきたので、肩の高さで切り揃えて貰うことにした。以来、彼女は髪の毛の長さは肩までと決め、だが、幽霊の呼び名はなぜか学校で、主に人をからかうことを好む男子を中心に使われ続け、またそのからかいに乗っかる女子が少なくなかったせいで、中途半端に定着してしまった。


 幽霊と言われるたび、宙はムカついたが、満更でもない気が微かにした。なぜなら、幽霊は死者の魂が現世に現れたものであり、つまり宙は、生あるものであると同時に常世のものであり、従って、瑛地の居場所に近いのである。




 ――そういう連想にまじめに興じられるほど、当時の宙は幼くて無邪気だった。お父さんに近いというイメージが、彼を喪った傷心の彼女には、ほとんど愛おしいくらいに好ましかったのである。




***

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ