《54》
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宙の父、天国瑛地はすでに故人である。享年四十歳。死因は急性心疾患だが、間に合わせに提出された診断結果に過ぎない。実のところはよく分かっていないのだ。航海士として頻繁に洋上に出るストレスが嵩んだ結果として、彼は病死したのだと推測された。
その頃宙は小学校の二年生であり、まだ幼かった。いつも学校に背負っていく赤いランドセルはピカピカで、いかにも無垢という感じがし、今と違って明るくて愛嬌があり、家族には勿論、隣近所の人にも可愛がられた。小憎らしい面もあるにはあったが、子供だからと大目に見て貰えた。
看護師の陽子は毎日家にいたが、瑛地は家にいる、いないのリズムが不規則だった。基本的には遠洋漁船の航海士なので、半年以上は家を留守にし、その後一カ月ほどのまとまった長期休暇を貰い、その期間は家にいたり、外に遊びに出かけたりした。
夜、仕事より帰って就寝を控えた宙は、寝間着姿で勉強机に付き、アルバムをパラパラめくっていた。十一時頃。
笑顔の瑛地が仲間と並んで肩を組んでいる写真。他には、たまの休みに家族サービスしている昔の写真が残っていて、ベビーカーに乗っているベビー服姿の宙の傍らで、ゆったりしたグレーのパーカ姿の瑛地が、自慢げに笑っている。彼の嫌味のない笑みを見ていると、思わず宙も頬が緩むし、また懐かしさに切ない気持ちになるのだった。
半年以上も家族と会えないとなると、心が離れてしまいそうに思えるが、陽子が厳しく許さず、瑛地は彼女の尻に敷かれていたのだろうか。
必ずしも瑛地は恐れだけで嫁に縛られていたわけではなく、きっと彼女に対する深い愛情があったのだろう。彼等の馴れ初めが宙は何度か気になったものだが、そういう話を親にするのは、こっぱずかしくてなかなか出来ず、未だに知らないでいる。
「宙」
ふと、扉の方で呼び声がし、陽子が来たようだった。
宙がアルバムを置いて振り向くと、扉が開かれて、彼女と同じく寝間着姿の陽子が現れる。陽子はグラスを持っており、足元には瓶が立っている。
「これ、飲む?」
そう言って陽子は足元の瓶を持ち上げて見せるのだが、その瓶には赤黒い液体が入っている。
「何それ?」
「赤ワイン。飲もうと思って買ってきたんだけど、アンタも飲みたいなら、分けてあげるよ」
「わたし、明日も仕事なんだよね」
「じゃあダメだね。残念」
そう言うと、早々に陽子は退散し、彼女は冷やかしにでも来たのかと、宙は微かにムッとして正面に向き直るのだった。すでに陽子はワインを口にしてほろ酔いのようで、気分が高揚して誰かとしゃべりたくなったが、娘しかいないため、ああいう風にわざわざ絡んできたのだろう。そのように宙は推測した。宙は明日仕事だったが、陽子は休みだったので、彼女は気楽に過ごしているのだ。
陽子の気配が遠のいたタイミングを見計らって、宙は閉じていたアルバムを再び開いた。
アルバムの後ろの方のページは、空のポケットばかりになっている。写真がないということだ。
二年生の宙は、父の訃報より前に、容態の急変に際会した。彼がいつものように長期の仕事の後、まとまった休暇で家にいる日の、その夜のことだった。
夏だった。
ぐっすり眠っている宙は、ふと物音に目を覚まされ、何事かと思うと、そばで陽子が瑛地をせわしなく揺さぶっているのだった。彼女等親子はその頃同じ部屋でいっしょに寝ており、その部屋は、現在陽子の自室になっているもので、他方宙の自室は、その頃ただの物置だった。
「瑛地くん! 瑛地くん!」
切迫した状況で、陽子が大声で呼びかけるが、掛布団をめくられた敷布団の上の瑛地は、青ざめた顔で苦しそうにするだけで、まともに返事がない。宙の耳には、瑛地の呼吸らしき音が聞こえたが、笛のようにピューピュー鳴っており、子供の彼女でさえ異状が察せられ、急いで跳ね起きると、遅れて父のそばに這うようにして寄っていった。
陽子は当時看護師として働いており、その時も恐らく、瑛地に対して適切な処置が取られたのだろうが、結局芳しい効果が得られず、救急車が呼ばれることになった。
赤い回転灯を回した救急車が夜中にも関わらず騒々しいサイレンの音と共に家まで駆け付け、隊員が担架を二階の寝室まで運び込むと、瑛地をのせてすぐに救急車に戻った。家族である陽子と宙は同行することになり、熟睡していた宙だが、眠気などまるでなく、ただただ不安にドキドキするばかりだった。
酸素マスクが付けられた瑛地はまだ意識があり、お腹が上下していたが、額に汗の粒が夥しく浮かび、例の正常でない呼吸音が続いていた。
最寄りの病院まで救急車は夜中のガランとすいた道路を疾走した。赤信号の交差点も停止せずに進み、この速やかさで病院に向かえば、きっと父はよくなるに違いない。幼い宙にはそういう風に予想された。
行き先は陽子の勤め先の病院だった。そもそも汪海町の救急指定の病院は、ごく限られているのだった。
急ぐ救急車の窓を流れる景色は、普段見たことがないくらい目まぐるしいものだった。だが、窓より見上げられる夜空の星々は、定位置に留まっており、宙がじっと見つめていられるほどだった。
担架のそばにある、ベッドに似た台に、宙と陽子は並んで座っており、陽子が握っている瑛地の手の上に、宙はその小さい手を添えていた。
きっと大丈夫。バチを当てられる悪行など、わたしも母も父もしていない。だから父を助けて……そういう風に、幼い宙は天上にまします人智を越えた存在に祈りを捧げ、父の回復を子供らしい純真さで切望したのだった。
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