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51/102

《51》

***




 梅雨入り後のある雨の夜、宙がスーパーに行くと、欧華がアルバイトで働いていたので、彼女は呆気に取られてしまった。


 エプロンを着て不織布マスクをし、帽子を被っている欧華は、カート上の商品を陳列していた。


「欧華!」


 宙は彼女のすぐそばに立って小声で呼びかけた。


 すると欧華はハッとして作業の手を止め、「宙!」、と驚いたように目を見開いて応じた。


 宙は数週間ぶりに欧華と顔を合わせたが、これといって欧華に変わった様子は見られなかった。(そもそもその容貌のほとんどはマスクと帽子で隠れていたのだが。)


「帰ってきたって知らなかった。いつ帰ってきたの?」


「ちょっと前。まだ一週間も経ってない」


 雨の日のスーパーは客足が遠のきがちだ。その時来店している客数は少なく、あるいは合羽姿だったり、あるいは傘袋に入った傘を腕にかけたりしている。


「連絡くらいくれればいいのに」、と宙は眉間に少しだけ皺を寄せ、刺を含ませて言う。「行った時も知らなかったし、帰ってきた時も知らなかった」


「ごめん」、と欧華は申し訳なさそうに眉を八の字にして謝る。「自分でも旅行のこと、伝えるべきって思ったんだけど、何だか伝えにくくてさ」


 しゅんとした様子を見ると、宙は欧華が気の毒に思えてくるようだった。


 欧華が旅行に行くのを黙っていたこと――というよりはむしろ、事前に告げるのを妨げる心理的要因があったことは、何となく推察された。


「別に、責めるつもりなんかないよ」、と宙は言うと、キッと結んだ口元を緩めた。「手紙、ありがとう。無事、受け取った」


 すると、欧華の表情も明るいものに転じた。


「ちゃんと届いたんだ。よかった」


「スマホの連絡はくれないけど、手紙はくれるんだね」


「草原じゃ、電波が届かないしね」


「そっか」


 宙はそう返すと、口を噤み、これ以上アルバイト中の欧華と話し込むのはよくないと判断して、「じゃあ、わたし行くね」、と会話を終わらせるように言った。「またスマホでメッセージでもちょうだい。わたしも欧華に送るかも知れないけど」


「うん」、と欧華は頷く。「都合のいい時に、また二人でどこかブラブラ出かけよう」


 言い合うと、宙と欧華はバイバイと互いに手を振り合って別れた。




 ……。




 買い物カゴを片手に携える宙は、久々の友人との会話が新鮮で、ホクホクした気持ちだった。まだ話し足りないが、欧華は帰国してきたのであり、機会は遠くない内に巡ってくるに違いない。梅雨が始まり、出かけるにはあまり適さない時期になったけど、どちらかの家でおしゃべりするだけでも楽しいだろう。







 スーパーの閉店時刻の夜九時を過ぎた頃、欧華はアルバイトを終え、更衣室で制服を私服に着替えた。数週間ではあるが、シフトに入らなかった期間は短いとは言えず、風邪を引いたわけでもない欧華は、社員から疑惑を持たれたし、アルバイト仲間からも、その間どうしていたのか興味を持たれた。


 欧華は各々に、ちょっと遠くに行く用事が出来たのだと答えてお茶を濁したが、うまい嘘ではなく、相手はすんなり納得してくれなかった。


 不織布の白いマスクは、会社の支給品としてあったが、欧華はあえて自前で用意していた。というのは、彼女は家からアルバイトに来、そして帰宅するまで、マスクを外したくなかったからである。


 彼女はアルバイトの面接に訪れた時を除くと、アルバイト中、ずっとマスクで鼻と口元の辺を覆い隠していた。一種の韜晦であり、欧華は出来るだけ自分の存在を露わにしたくなかった。その振る舞いはかえって人の注意を惹いたが、欧華は努めて避け続けた。


 雨の夜。欧華は自転車でアルバイトに通っており、合羽を纏ってフードまでかぶった姿で駐輪場に来ると、止めてある自転車の鍵を外し、ハンドルを持って取り回して道路付近まで行き、またがってペダルを漕ぎ出した。自動で点灯するライトがぼんやりと雨に濡れた道の先を照らし出す。


 生温い湿った空気に、しつこく降り続く長雨。合羽の内側が蒸れて汗ばんで、欧華は気持ち悪く、鬱陶しくなって合羽のフードを外した。頭が雨ざらしになるが、向かい風がよく当たるようになっていくぶん快かった。




 突発的に旅行に行くことで、欧華には、何となく掴めるものがある気がした。


 まだはっきりとはしないが、自分が向かうべきところが朧気に見えてくるようだった。詰まる所、標が得られたということだ。


 問題は、その標の案内する先までの道のりが、ひどくゴツゴツしていて、とにかく険難だということだ。世の中の多くの人が歩む安全で整った道とは違い、その道は風変りなものだった。


 辺りはひと気が乏しかった。そのせいではないが、欧華はにわかに心細くなるようだった。宙が、和子が、家が恋しかった。小さい子供のような、慕うことの出来る誰かに縋りたいという希求が萌し、欧華は胸が締め付けられる感覚だった。




 草原で見上げた冴えた星空の写真は、祖父の憲一にはあまり真面目に見て貰えなかったが、宙は違うだろう。星空の好きな彼女は、写真を見て、きっと喜んでくれるだろう。彼女が大切にしている父の形見だというアルバムにある似た写真と並べれば、二つが繋がって見えるかも知れない。




 宙の思い出の写真と自分の思い出の写真が連なる心象風景は、欧華にとって、素敵と思えるものだった。




***

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