《5》
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小雨の日の海は荒れておらず、比較的穏やかで、雨粒による細かい波紋が、海原一面に無数に浮かんでいる。灰色の雨雲に覆われた空の下で、光に乏しい海は、生気のない暗い色で、どんよりしている。
午後三時過ぎ。スターシップMINATOの定時の時刻まで、後二時間ほど。
紫煙が立ち昇っていた。海辺に碇泊する大きくて白い船舶の、海側のデッキの通路で、一人の男が喫煙していた。灰皿と、いくつかの椅子があり、海景を望める位置に、喫煙所があった。男は立って、片方の手をズボンのポケットに突っ込み、別の手でタバコを口にやったり下ろしたりしている。上は淡い水色のシャツ。古川智明。三二歳。彼も、宙と同じ職場で働く職員なのであった。
「――あっ」
デッキに面する扉の一つが開き、宙が顔を出し、古川を認める。
古川は首を曲げて振り向き、何か用かと目付きだけで問う。
「見ての通り、あいにくの雨だ。天国」
「そうですね。古川さん」
宙は扉を閉め、古川の近くに寄っていき、複数ある椅子の内の一つに座る。彼女も休憩のためにこのデッキまで来たようだ。
「お前は吸わないだろう。タバコ」
「吸いません。うちのお母さん、元看護師なんで、健康にはうるさいんです」
半分うそで、半分ホントだった。陽子は確かに元看護師で、今も医療機関で働いているが、決して健康志向というわけではない。
「はぁ」、と古川が、紫煙と共に、ため息を吐く。いささかくたびれた働く男の哀愁が漂い、何ともブルージーである。
彼は宙の方を向き、「何で」、と問いかける。「今日はデッキまで出てきたんだ? 珍しいじゃないか。普段は部屋にいるのに」
「今は、何となく海が見たい気分なんです」
宙はデッキより見える海景にまっすぐ視線を注いで返す。
「へぇ。雨なのに?」
「雨なのに」
特に興味がないという感じで古川が正面に向き直るタイミングで、宙が「部屋には窓がないんですよね」、と言う。「ずっと閉じ籠っていると、窮屈に感じてくる」
「まぁ、分かる。何せ、この船がおれたちの職場なんだからな」
――そう。宙の職場、スターシップMINATOは、科学館なのであるが、船舶の形をした施設なのだった。実際に海に浮かんでおり、それっぽく似せて作った模造品ではなく、本物の船舶を転用したものであった。船舶には、窓がある部屋が確かにあるものの、ほとんどが展示室などの来館客用のスペースとなっており、事務室などの職員用の部屋は、窓なしだった。この労働環境が職員たちの心理面に働きかけるところは決して少なくなく、なるべく残業せずに早々と帰ろうという雰囲気が定着したのは、理の当然と言える。
「お昼前くらいに」、と宙が言う。「プラネタリウムに、女の子が来たじゃないですか、青い髪の」
「あぁ、覚えてるぞ」、と古川は返し、短くなったタバコの火を揉み消すと、灰皿に突っ込む。「美少女だったなぁ……」
妙な余韻を乗せてそう述懐する古川のそのセリフは、どこか間抜けで、宙は何だかバツの悪い気持ちになった。彼は独身で、今までモテた経験のない、冴えない男だったのである。決して不細工ではないが、ニキビの跡が目立つ顔の肌と、しょっちゅう寝癖を付けてくるだらしない髪とが象徴的だった。宙において、彼と深い関係性になるかも知れないという可能性が念頭に浮かばないほど、彼は男性的魅力に欠けていた。
「大学生ですかね?」、と宙が美少女に関して聞いてみる。
「さぁ、どうだろう? 大学生か社会人か、どっちかだろうとは思う」
「成るほど」
そう返し、宙はぼんやりその美少女――岬欧華のことを思い返した。宙には、夢で見た女の子が現実に現れた、などとはとても古川には言えそうになかった。話がいささか現実離れしていたし、ただ自分がその現象に興奮しているだけで、他人に言って聞かせる意味はないという気がした。
「そこまで興味があるなら、連絡先を聞いときゃよかったじゃないか」
「聞きそびれました」、と宙ががっかりして返す。
「しかし彼女、どこかエキゾチックというか、異国風だった感じがする」
「わたしも、何だか帰国子女っぽい雰囲気が、彼女にはあった気がします。また来てくれるといいんですが」
「結構ここのプラネタリウムが気に入ってたみたいだし、また来るんじゃないか?」
そう励ましを込めた言葉をかけ、古川はスマホを取り出すと、「そろそろ時間だ」、と言ってデッキより立ち去った。休憩の時間は終わりのようだった。宙も遅れて椅子から立ち上がると、出てきた扉より中に戻り、デッキは無人となった。
悪天候の日の科学館は閑古鳥だった。欧華の他はほとんど来客がなく、何とも寂しいものだった。
その日家に帰ると、すでに陽子がおり、冷蔵庫に食材が少なくなっていたからということで、買い物してきたようだ。どこかの有名ラーメン店のインスタントラーメンと、チャーシューとメンマ等々、ラーメンの具材を買ってきていた。聞けば、患者に勧められて食べたくなったのだという。
宙には特に不満はなかった。むしろ料理しなくていいので気楽だった。
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