《42》
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朝からの雨は、夜になってもまだしたたかに降り続いていた。天国家の近くを行く車の路面を覆う雨水を撥ねる音が、宙の耳に聞こえる。
欧華の手紙には、まだ続きがあった。
【わたしにはあまり自覚がないけど、モンゴルまで来たわたしは、ひょっとすると、さすらいの旅でもしてるつもりなのかも知れません。もちろん、日本にはすぐ帰ります。
日本に帰っても、これといった予定はありません。わたしが旅に出ると言ったら、アルバイト先のスーパーの店長に露骨に嫌がられました(苦笑)。結局許可して貰いましたが、あの人とまた顔を合わせるって思うと、ちょっと憂鬱です。
かれこれ一カ月以上は働いていることになります。アルバイト仲間の学生、パートのおじさん、おばさんとは、うまく打ち解けられずにいます。どうしても自分の今の境遇を知られるのが怖くて、避けてしまいます。そういう話になったらテキトーに誤魔化しますが、そのせいか胡散臭がられています。
日々、居場所がないなぁと寂しく思います。祖父母の家も、しょせんは仮住まいでしかありません。ゴールデンウィーク、宙のお家に泊まったことが、とても懐かしく思い返されます。
日本に帰ったら連絡します。それではご機嫌よう。岬欧華】
そこで、手紙は終わりだった。
欧華の近況は文面より推察された。そして、彼女の内面の決して明るくない模様もまた、である。
コンコンと扉がノックされた。扉に背をもたせて座っている宙は、ノックの振動がじかに背中に伝わり、思わずビクッとした。
「宙?」
階段を上ってきた陽子が呼びかける。宙の持って上がった手紙の内容が気になって来たのだろうと、彼女は踏んだ。
宙が返事せずに無言で立ち上がり、くるりと振り返って扉を開くと、廊下に陽子が、宙のようにタオルを首に巻いて立っていた。
その姿を見、宙はきょとんとする。
「お風呂、先入るけど」
「お風呂?」
「アンタ、びしょ濡れで帰ってきたし、先に入りたいかなぁって思ってさ」
「あぁ、そういうこと」、と宙は合点が行く。「いいよ。わたしは後で」
「欧華ちゃんの手紙は読んだ?」
特別聞きたいわけではないけど、一応聞いておくという感じのふんわりした聞き方で、陽子が聞く。その表情には熱がなく、むしろ冷めている。何だか関心がなくなったみたいだ。
宙はしばし迷った後、「うん」と頷くだけで返した。欧華の心情を汲み、あまり詳細に答えたくはなかった。
陽子は「そう」、とだけ答え、追及はしなかった。陽子曰く、後一時間ほどすると、テレビで歌番組が始まり、そこに彼女の推しである男性アイドルグループが出演するそうだ。その時間までにお風呂を上がりたいらしく、彼女はすでに夜食を済ませていた。
陽子が入浴のために階下に下りると、宙は何だか拍子抜けしてしまった。宙にも推しのアイドルグループがいるが、陽子の言っていたテレビ番組に出るのとは違っていた。
宙は自室より廊下に出て階段を下りると、居間のテーブルに戻った。紅茶の残るグラスと空の茶封筒と欧華の写真が、卓上に置かれたままだった。
宙は席に座って読み終わった手紙を茶封筒に収めると、元の位置に戻し、中央の写真を自分の方に寄せて手に取り、改めて見てみた。
草原に立つ民族衣装を着用した欧華が、青空を見上げ、微笑んでいる。
本当に美しい空だった。宙はこの青空が夜空になった時のことを想像してみた。これだけ澄み切った青さの空は、きっと夜においては、星々の輝きに満たされ、まさに満天の星といえるくらい、数多の星宿が夜空いっぱいに観測できることだろう。視界を遮るビルもなく、例えば流れ星でも流れるとすれば、走って追いかけられるほど、星影は明瞭に見えるだろう。
写真を眺める宙はふと思い付き、写真を一旦置いてポケットよりスマホを取り出すと、欧華の住所が見えるように茶封筒を裏返し、そのアルファベットを打ち込んでインターネットで検索してみた。すると、検索結果が即時に表示され、地図と画像で住所の詳細が確認できた。
モンゴルの首都、ウランバートルの南方の丘陵地の一隅。街の外側で、欧華が手紙で記していたように、古来の生活が営まれているのだろう。そのように宙は思ったし、また、茶封筒に書かれている欧華の住所は、ないに等しいのだろうとも思った。なぜなら、この住所の人々――草原と丘陵しかないエリアの人々は、遊牧生活者であり、従って定住者ではないのだ。この住所は有効なのだろうか。仮にこの住所に郵便物を送ってみて、果たして届くのだろうか。宙は疑問に思った。
だが、この住所は欧華にとって、またそこに住む遊牧生活者にとって、かりそめの住所に過ぎないのだろう。彼女はあるいは、すでに別のところに移住しているかも知れない。彼女は当地の人々と共に、日々移動して暮らしているに違いない。日本の訪問者として、歓待されるなどして。
今の欧華にとって、その暮らしは相応しいように宙には思われた。
今の彼女は浄化されず、放って置けば汚損され続けるいわば淀みであり、そういう彼女には流れることが重要で、必要だったのである。
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