《40》
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宙は海外に在中の欧華に連絡してみるか迷った。何も告げずに旅立った彼女に対して、確かに友人の宙としては、水臭いと思わないではなかったが、彼女には、旅に出ることをおおっぴらにしたくない理由があったのかも知れない。あるいは宙が連絡することで、欧華にわずらわしい思いをさせて迷惑をかけてしまうかも知れない。そういう風に想像した宙は、連絡は控えることにした。どの道、二週間ほどで欧華は帰ってくる予定なので、待っていればおのずと宙が彼女と顔を合わせる機会はまた巡ってくるのだった。
陽子と欧華の家に行ってみた時、彼女の父母らしき人影はなかった。対応してくれた和子を除けば、気配がなく、家には彼女以外いないようだった。
あまり関係性のよくないという父母は、結局どうなったのだろう? 宙は疑問だった。娘を連れ帰る説得をじかにするためゴールデンウィークに帰省してきて、その後は?
和子はそのことについて口にしなかったし、宙もわざわざ聞こうとしなかった。決していい話ではないので、そもそも触れること自体忌避された。
だが宙においては、和子の口ぶりから欧華の住処がまだ祖父母の家であることは推知されたし、その点は安心してよさそうだった。
日本海側の六月は、すでに真夏日が続出し、汗ばむ暑気に加熱する汪海湾の砂浜越しに見える海の水面には、ユラユラするかげろうが立つようになった。
ある日、宙がスターシップMINATOより帰宅すると、自宅に彼女宛てに届け物があった。その日は一日中雨で、職場まで自転車通勤する宙は、合羽をまとって帰ってきた。
合羽中に雨粒をビッシリ付ける宙が、自転車を芝生の端に止める。家の窓が電灯で明るく、また玄関の扉がある壁のポーチライトが照っていて、すでに陽子は帰宅しているみたいだった。時刻は夜の六時半を少し過ぎた頃で、日脚が長くなってきた六月の時分、まだ外には残光があった。
ただいま、と言ってせっせと玄関内で雨具を脱ぎ出す宙のところに、陽子が廊下よりやってくる。
おかえり、と言う陽子は半袖Tシャツに七分丈の綿パンという軽装だ。
彼女は宙に持ってきたハンドタオルを渡してやり、宙はありがとうと言って受け取って首にかける。
「ひどい濡れようね」
「雨脚が朝から変わらないんだもん。嫌になるよ。靴下までぐっしょり」
宙の言う通り、雨は靴を越えてその中の靴下まで浸み込んでいた。
合羽の上衣のボタンを外しながら、忌々しそうにボヤく宙の目の前に、一通の郵便物が差し出される。茶封筒だった。宙はきょとんとして目をやる。
「アンタ宛てだってさ」、と陽子。
「誰から?」
宙の問いに陽子は答えず、顎をクイッと動かして自分で確かめるように促す。
茶封筒の差出人の名前が黒のマジックで記入されている。
MISAKI OUKA
岬欧華がローマ字で表記されたものだった。
その郵便物が欧華の送ったものだと知って宙はにわかに興味がわいたし、遠路はるばる届けられてきたそれは、外観はただのありふれた茶封筒なのだけど、どこか異国風で物珍しく見える気がした。
成るほど、海外から送る都合で、宛名や住所がローマ字表記である必要があるのだと宙は合点が行ったし、だけど同時に、送り主である彼女の住所は、確かにアルファベットではあるものの、名前とは違い、どう読めばいいのかてんで分からない、謎の場所だった。
「どこだろう。この住所」、と宙は前のめりに封筒を睨んで独り言めかして呟く。
「さぁ? わたしにもさっぱり」、と陽子は首を傾げる。「アメリカとか英語が使われてる国の地名なら、何となく読めるんだろうけど」
「じゃあ、英語が使われてない国ってこと?」
「ホント、どこなんだろうね。後でスマホで調べてみたら?」
提案された宙は「そうだね」、と返すと、姿勢をまっすぐに戻し、首のタオルを床に落とし、靴といっしょに合羽の下衣を脱いで抱え込むように持った後、そのタオルに乗って裸足の水気をザッと拭い、廊下を歩いていった。
浴室に隣接する脱衣所で、濡れた衣類を全部着替えて洗濯機に入れると、宙は、半袖Tシャツとジャージのハーフパンツという恰好になった。水気を帯びた気持ち悪さが失せ、気分はさっぱり爽快だった。
その後宙は居間に行き、そこでは、陽子がテーブルで頬杖を突いて見るともなしにテレビを見ていた。旅番組がやっていて、タレントが温泉街を案内している。
欧華の茶封筒はテーブルの上に置かれており、しかし宙は、まずキッチンに向かって冷蔵庫より紙パックの砂糖入りの紅茶を取り出し、グラスに注いでテーブルに持っていった。口さみしいので何か必要なのだった。
よく冷えた紅茶を飲むことで一抹の清涼感を得た宙は、茶封筒を手に取り、改めてまじまじ見てみた。表面と裏面の両方。天国家の住所ははっきり読める日本の住所のローマ字表記なのだが、やはり欧華の方の住所は、どう読めばいいのかよく分からないアルファベットの羅列だった。そもそも宙は理系であり、学生時代、英語を主とする外国語はあまり得意でなかった。科学のようにカチッとした原理や法則がなくて慣用が多く、ひたすら暗記を強要される感じが意に染まなかった。
だが詰まる所、開封して中身を見れば、きっと謎は解けるに違いない。
テレビを見ている陽子は、テレビを見ているようで、その実チラチラと流し目で茶封筒を気にしている。早く開けるように促している感じで、完全に注意がテレビより逸れている。封筒は薄いが、何枚かおさまっているようだ。
何が入っているのだろう? そう思って宙は、茶封筒を居間の照明にかざして、透かして見たりしてみるのだった。
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