《38》
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六月になった。梅雨の時期が近いが、まだ晴れの日が続いていた。
土曜日。宙は両膝に手を置き、行儀よく椅子に座っていた。彼女は用事でよそに出かけており、そこは学校の教室に似た広々とした一室で、長机と椅子が並んでいる。
宙の他にも大勢椅子に座っているのだが、何か待っている様子だ。
全員が向く先には、教壇とホワイトボードがあり、男が二人、女が一人、それぞれバラバラの位置にいる。教壇のところにいる男は青い制服を纏っており、警察官だった。
彼はクリップボードを胸のところでよく見えるように傾けて持ち、番号を読み上げていた。番号が読まれると同時に、誰かが立ち上がって移動し、教壇の脇の椅子に座る女に、その前の机の上の箱より、札を一枚手渡しで受け取って、扉のそばの別の警察官に誘導されて退室していく。以上の一連の動きは、決められたものだった。次々に番号が読まれ、人々が順番に札を受け取り、退室する。
その内、宙の番号が読み上げられ、彼女も決まりに則って椅子より立ち上がって前に行き、札を受け取って退室する。
廊下で宙は、受け取った札をまじまじ見てみた。天国宙という姓名に、生年月日と現住所。顔写真のそばには、運転免許証の字面。詰まる所、彼女が受け取ったのは免許証であり、彼女は五月からまめに通い続けた教習所をさほど悪くない成績で卒業し、また試験にもパスしたことで、晴れて免許交付の時を迎えたのだった。
宙は顔写真の枠内の自画像を見、枠いっぱいの厚ぼったい髪型が野暮ったく、また、相変わらず目付きが陰気臭く、ちょっとした自己嫌悪に陥るのだった。
受け取ったばかりのピカピカの免許を財布に収めると、宙は、照明がいささか暗くて古めかしい廊下を歩いていき、ベンチが並ぶ待合所に移動した。
「今終わった」、と宙がその一席に腰を下ろしている、半袖Tシャツとジーンズという恰好の陽子に伝える。陽子はその日休みで、宙を車で送ってきたのだった。
「あぁ、そう」、と陽子は返し、両腕を拡げて伸びをする。「待ちくたびれたわぁ」
彼女の片手にはブックカバーで覆われた文庫本があり、一時間強の待ち時間、読書でもして過ごしていたのだろう。
拡げた腕を元に戻し、陽子が「合格?」、と訊く。
宙は「うん」と頷き、財布に収めたばかりの免許証を指で摘まむように持って見せる。
「よかった」、と陽子は本を傍らのバッグにしまって言う。「これでアンタにドライバーを頼めるようになるわ」
宙は呆れるように眉を上げ、「お母さんってば気が早いよ」、と諫める。「しばらくは同乗してよ。まだ運転に慣れてないんだから」
「はいはい」
陽子は投げ槍に答えて立ち上がり、宙は彼女と共に待合所を去り、出入口より外に出た。
駐車場に、宙と陽子の乗ってきた軽ワゴンがあり、二人は車に乗り込むと、用の済んだ試験場を後にした。
……。
五月、欧華が天国家に泊まりにきてその数日後、宙は彼女が寄居しているという祖父母の家を紹介された。少しばかり中に上がり、昭和の感じの濃く残る畳の居間で、彼女の祖母の和子にお茶とお菓子を出して貰ったが、以後は欧華との間に連絡があまりなく、せっかく家の住所を知れたものの、訪れる機会はなかった。
一週間、二週間と、二人が顔を合わせない期間が過ぎていった。宙がスーパーに行っても、鮮魚売り場に欧華の姿はなく、しかし宙は、単にシフトに入っていないだけだろうと思ってあまり気に留めなかった。
後に陽子は、彼女が五月の旅行中、欧華がその部屋を借りて二晩泊まったことを宙に知らされて興味を持ち、娘と彼女がずいぶん仲良くなったものだとほくほくした気持ちになった。そのため、その後密に交流しない二人のどこか疎遠に思える関係性が陽子には不可解だった。ケンカでもしたのかと尋ねてみても、宙はしていないと答えるし、嘘ではないようだった。
さて、宙が晴れて免許取得したある日、陽子に家に連れていってほしいとせがまれ、宙は半ば強制的に了承させられた。二人共休みの日のことだった。宙は欧華としばらくやり取りしていなかったし、別に構わない気がした。
そういうわけで、ある週末の日曜日、宙は初めての自家用車でのドライブを兼ねて欧華の家に行くことにした。陽子に助手席に乗って貰い、軽ワゴンはどこかたどたどしい仕方で芝生の庭より発進した。
欧華の家の付近の道はあまり車の行きよいものではなく、宙は離合に苦労したが、陽子のアシストがあって何とか事故せずに済んだ。
汪海湾に近い、坂道を平地に整備したところに欧華の家はあり、宙は隣の広場の空きスペースの、コンパクトーカーの隣に車をとめた。そのコンパクトカーに宙は見覚えがあり、欧華が過日運転していたものだった。
二人は下車し、家の玄関まで歩いていった。
「立派ねぇ」、と陽子が、古民家の全貌を眺めて感嘆する。「欧華ちゃんのお家って、結構由緒ある家柄なのかしら」
「さぁ、聞いたことない」と宙。「でも、欧華はエリートだから、ひょっとするとそうかもね」
縦格子の引き戸のそばの、音符マークの付いた昔風の小さいインターホンを宙が押すと、音がして、しばらく後に、老人らしく腰の曲がった割烹着姿の和子が現れた。宙は和子と顔見知りだが、陽子は彼女とは初対面である。
「あら、宙ちゃんじゃないの」、と和子は彼女に対してにっこりし、その後隣の陽子に目を向けると、「そちらは」、と紹介を求めるように尋ねた。
「初めまして。天国陽子といいます。宙の母親です」
陽子は名乗り、頭を下げた。
「そうでしたか。わたしは岬和子。欧華の祖母です。ようこそ」
和子も同じように頭を下げて応じた。
やがて二人共頭を上げ、笑みを交わすことで、互いの関係性が成立した感じになる。
和子は宙に目を向け、「欧華に会いに来たのかい?」、と問いかけた。
宙は「えぇ」、と返し、「今家にいますか?」、と聞いてみた。
仮にいないにしても、きっとアルバイトか何かに出かけているだけだろうと踏んでいる宙は、心なしか言いにくそうにする和子の様子に違和感を覚えた。
欧華は家にいないようだった。そして彼女は、アルバイトに行っているわけでもないようだった。
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