《33》
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旅行に出た陽子は知る由もないが、陽子の自室はその夜かりそめに欧華に供されることとなった。旅行の準備で用意されたが選別の上、不要とされたものが置きっ放しになっていたが、全体としてはおおむね整っていて、人が過ごすのに不都合はなかった。
白や白っぽいアイテムばかりのインテリアの室内は、病院で働く陽子のイメージにマッチしていた。模造品の観葉植物や姿見の鏡の他、CDや生写真など、某男性アイドルグループのグッズがちょこちょこ飾られていて、程々に個性的である。陽子が焚いたアロマの香りが、微かにまだ残っている。
宙は、普段まず入ることのない母の部屋に入り、客人に提供し得るかその可否をしばし悩んだ後、可と判断して欧華を呼び入れ、この部屋で寝るように勧めた。欧華ははじめ遠慮したが、居間のソファや床で寝るわけにはいかず、最終的に受け入れた。
陽子のベッドのへりに欧華が、手荷物の入ったトートバッグを脇に置いて座っている。宙はというと、部屋に何があるか確認するため、見回りしている。もしも陽子のセンシティブな部分に関わるものがあれば、彼女の尊厳のために隠さないといけない。陽子の趣味を如実に表す男性アイドルグループのグッズがあるが、これは飾り物なので、別にいいだろうと宙は判断した。
「好きにくつろいでよ。これといって何もないけどさ」
そう言って宙はクローゼットを開ける。陽子が買い集めた衣服の他、特に変わったものは見受けられない。
「ありがとう」、と欧華。「そういえば宙のお母さんって、わたし、見たことあるよね?」
「あぁ、この前の雨の日」、と宙は言い、クローゼットを閉める。「わたしたちがスーパーで話してる時、首を突っ込んできたのがお母さん」
「あんまり宙と似てないよね」
欧華はそう指摘してクスクスいたずらっぽく笑む。
「そうだね」、と宙は微笑と共に答えて振り向く。「れっきとした実の娘だけど、雰囲気はずいぶん違うかも。お母さんは明るいけど、わたしは暗い」
「落ち着いてるってことでしょ?」
「いいように言えばね」
宙はそう言って正面に向き直ると、小窓の方に寄り、閉じているカーテンとガラス窓を開け、引手に手を置いて夜空を見上げた。
欧華はきょとんとして宙の後ろ姿を見ていたが、彼女がプラネタリアンであると意識すると、その情景はしっくりくるようだった。
「お父さんの影響で夜空の星が好きになって、宇宙まで好きになって、小さい頃からこうやって夜空を見上げてばかりいた。そうするとわたしは、集中して黙々と自分の世界に浸っちゃう」
まるで自分に言い聞かせでもするように、宙は淡々と述懐する。
そよ風が吹き込み、端によけられたカーテンと宙の髪が、嫋やかになびく。
しっとりした雰囲気の宙に欧華は見入っていたが、ふと彼女が振り向き、「寒くない?」、と聞いた。
「ううん、ちょうどいい」
「そう。じゃ、窓は開けとくね」
その後はお風呂が案内され、宙が掃除して沸かして欧華が先に入浴した。宙はその後に入り、欧華共々、髪を乾かしてパジャマ姿になると、居間のソファに並んで座って度数の低い缶チューハイを飲んだ。二人共あまり酒は強い方ではなかった。
彼女等はアルコールの力を借りて陽気に、また楽観的に、決して明るくない身の上話の続きに花を咲かせた。すっかり打ち解けた二人はクタクタに疲れるまで話し尽くすと、歯磨きして宙は自室で、欧華は陽子の部屋で就寝した。
夜風が快く、宙も欧華も、ガラス窓を開けて網戸にして寝た。就寝時刻はだいたい夜中の十二時だった。
……。
夜中の二時半頃、宙はふと目覚めた。喉が渇いていた。だが、手近には飲み物がなく、階下に下りないといけなかった。
宙は半分寝ぼけた状態で自室を出、廊下の電気を付け、階段を下りていった。キッチンで水道水をグラス一杯ほど飲むつもりだった。
彼女はよろめく足取りで階に下り、フラフラ廊下を居間まで行って照明を付け、キッチンでグラスを一つ取って水を注ぐと、グビッと一気に飲み干した。
フゥと息を吐いてグラスをシンクに置く宙においては、夜が明けた次の日のことが予想された。ドライブの予定が控えていた。
急遽欧華は天国家に宿泊する運びとなったが、仮に宙と出会わなければ、欧華は今頃ひと気のない海辺の駐車場の車中で一人、窮屈に身をよじらせて寝ていたことだろう。そのイメージの中の彼女はひどく不憫だった。しかし実際には、彼女は今陽子の部屋で安眠出来ているはずだ。ただ、彼女が車中泊をしようと思うに至った要因は現実に存在している。帰省で汪海町に来ているという父母との不和がそうだ。
欧華は今進路に悩んでいるし、どうにかしたいと切に思っている。国際機関の職員をリタイアした次の道が、模索されている。
だが、宙はぼんやり思った。父母との折り合いを付けない限り、欧華の道は開けてこないのではないだろうか。彼女が単独で道を開くには、よほどの屈強さと意地と思念が必要になる。果たして欧華にそういった要素は備わっているだろうか?
「……」
宙の足は自然と居間の一隅に向かっていった。ちょうど冷蔵庫ほどのサイズの仏壇がある。洋間に仏壇はいささかミスマッチだが、仏間がない家なので仕方がなかった。観音開きの扉の奥の、複数の段構造になっているスペースには仏具や位牌が安置されており、手前に張り出している最下段には小さい瑛地の遺影が、ロウソク立てや香炉や仏花などと共にある。
宙は仏壇の正面に跪き、マッチで蝋燭に火を付けて線香を一本手に取り、先端をその火で炙ると、香炉に立てた。
香煙が立ち昇り、宙は合掌して束の間瞑想して目を開き、遺影の瑛地を見下ろした。
「ねぇ、お父さん。親と娘の仲が悪いのって、どうすればいいんだろうね」
よく日焼けした遺影の瑛地は、白い歯を見せてニカッと笑うばかりだ。その表情は、娘の目には、心配しなくてもいいという励ましに見えたが、一方ではシニカルに、ただの遺影にしか見えないのだった。
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