《32》
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岬欧華。欧米の欧に、中華の華。
以前、プラネタリウムで偶然宙が欧華と行き合わせた際、宙がその名に関して国際的だという感想を述べたが、実際欧華は国際機関の職員として働いていたので、その感想は当を得ていた。
欧華が聞かせた彼女のこれまでのいきさつは、宙にとって感心させるものである一方で、同情を誘うものだった。
二人共沈黙し、テレビのバラエティー番組だけが無神経に賑やかだった。
欧華の過去の経験とその悲しみや苦しみは、宙にはよく分かるつもりだったし、よく分かるからこそ、彼女にかける言葉の取捨選択が難しかった。来た道を逸れてしまった彼女には、軌道修正が必要だった。だが、欧華はどこに向かえばいいのか五里霧中であり、彼女の目の前には、砂漠のように茫漠たる不毛の空間と時間が広がるばかりだった。
「ごめんね」、と欧華が強がりの滲む苦笑と共に謝る。「暗い話しちゃって」
「ううん、気にしないで」
宙は首を左右に振って励ますが、物思いにかまけて表情がかたかった。
「ごちそうさま。宙の作ってくれたご飯、全部おいしかった」
そう賛美して欧華は、食器をまとめると立ち上がり、キッチンに運ぶ。他方、向かいに座る宙は、依然としてぼんやりしていた。
宙においてすでに明らかだったのは、過去に囚われていてはいけないということだった。昔の思い出を顧みる営みは、感情をいたずらに弄ぶだけで、実質的には何も生み出さない。宙は欧華には未来に向かっていって欲しかった。
宙の脳裡に、亡くなった父、瑛地の顔がよぎった。彼の死は娘の宙にとってすでに遠い過去の出来事であり、星辰のように、過去という隔たりの彼方から、思い出の光を現在に照射してくるばかりだった。欧華においては、彼女がした苦い経験はまだ遠い過去とするには近すぎ、彼女はいわば、その光輝を浴びている最中なのだった。
「宙?」、と欧華がキッチンよりテーブルに呼びかける。「食べ終わった食器、自分で洗おうと思うんだけど」
「シンクに置いといてくれるだけでいいよ。わたしが後でまとめて洗うから」
宙は欧華の気遣いを制すると、椅子をズラして立ち上がり、居間を出ていった。
欧華は言われた通りにしようと思ったが、テーブルに戻って宙の分まで食器を運び、シンクに重ねて置くと、きょとんとして居間を出、階段のところに立って、宙が向かったと思われる上階を窺った。
「……?」
天国家に来てまだ二階に上がっていない欧華だが、きっと二階には、宙の部屋があったりするのだろうと想像した。何せ一回には居間やキッチンや浴室など、共同のスペースしかないのだ。
しばらくすると、階段をおりてくる足音がして宙が現れるが、彼女は脇に冊子を挟んでいた。
「ちょっと見せたいものがあって、持っておりてきた」
「見せたいもの?」
その場で宙は冊子の内容を明らかにせず居間に戻ったので、欧華も彼女に続いて戻り、二人で再びテーブルに付いた。彼女等はさっきは向かい合わせだったが、横並びに変わった。
食器がなくなってすっきりしたテーブル上で、宙は自分と欧華のちょうど中央くらいの位置に冊子を開いて置いた。中身は写真であり、その冊子は、宙が大切に保管する、瑛地の形見のアルバムだったのである。
開いているのは、瑛地が船上で仲間たちと映る写真ばかりのページ。大きい漁船の甲板で、雲一つない晴天の下、よく日焼けした男たちが肩を組んでにこやかにピースサインしている。デジカメで撮影されたデータが現像されて出来た写真は、あるいは黄ばんでいたり、傷が付いていたりし、年季が入っている。
「宙のお父さん?」、とアルバムをまじまじ覗き込む欧華が推測して訊く。
「もう亡くなってるんだけどね」
「……」
宙の口調はあっけらかんとしていたが、欧華は静粛に黙っていた。
「わたし、プラネタリアンだけど、お父さんの影響があるんだ」
「ということは、宙のお父さんもプラネタリウムで働いてたの?」
「ううん」、と宙は首を左右に振る。「お父さんは漁船の航海士だった」
欧華はうまく事情が呑み込めず、頭上にクエスチョンマークを浮かべる。(同時に、航海士という言葉に既視感があり、彼女は以前、求人情報誌で航海士の求人を見たのだった。)
「何でって思うでしょ? そのわけはね、これ」
そう言って宙はアルバムをパラパラとめくり、夜空の写真ばかりのページに移った。
陸地では到底見ることの叶わない星々の散らばりの中に、真っ白の満月が堂々と照っている。
「わぁ、綺麗……」
その美麗さに、欧華は感嘆してうっとりする。
宙は自慢げに微笑むと、「こういう写真をお父さんはたくさん撮ってきて、そして、わたしは感化されちゃったってわけ」
「けど、航海士は目指さなかったのね」
「だってわたし、機械の操作とかあんまり得意じゃないからさ」
「嘘。プラネタリウムのオペレーターしてるじゃない」
欧華は看破したようにアルバムより顔を上げて宙を見て言う。
「確かにそうだね」、と宙は図星を突かれたように苦笑して、どこか投げ槍に肯定する。「オペレーターは、例外っていうことで……」
いつしか、宙と欧華は目と目を合わせて笑い合っていた。さっきまでの陰気臭い雰囲気は一変し、ほのぼのしたものになっていた。
挫折を経た欧華の展望は、まだまるで開けていなかったけど、取りあえず宙と過ごし、彼女と親しく打ち解けて言葉を交わすことで、長く囚われていた悲しみや苦しみより、一時的にではあれ、脱することが出来たようだった。
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