《30》
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天国家の前庭兼ガレージには、乗用車二台分のスペースはなく、欧華の車は近くのコインパーキングに止められることとなった。家から徒歩で五分とかからないところにあるので、特に不便はなかった。
宙が欧華を連れて帰宅した時、すでに時刻は七時を過ぎており、宙はすぐに夜ご飯の支度にとりかかろうと思った。が、その前に彼女は、欧華を居間に案内し、そこでひとまずゆっくりするように勧めた。欧華は何か手伝いたいと申し出たが、宙が制した。宙は二階の自室に行って荷物を置き、いつものTシャツとジャージのパンツという恰好に着替えると、階段を下りてキッチンに行った。
冷蔵庫の中にゆでうどんがあったので、宙はとりあえずうどんをゆがくことにした。青ネギやかまぼこやとろろ昆布があり、具材はほぼ揃っていた。後は白ご飯を炊き、おかずとして何か一品作れば、メニューとしては充分だった。
テレビではバラエティ番組がやっており、欧華はソファに座り、四角いクッションを抱いて見るともなしに観ていた。
その欧華の横顔を、宙は食事の支度する傍ら、気になってチラチラ窺うのだが、やはり奇異の念は拭い切れず、例えばシンクで手を洗った後、自然と首を傾げるなどしてしまうのだった。
宙にしてみれば、普段いない人間が家にいるというのは、ソワソワさせることだった。彼女には家に招待するほど親しい間柄の者はいなかったし、陽子の場合も、事情は変わらなかった。瑛地の生前は、仕事の仲間の男たちが時折客として訪れては、瑛地と小さい酒宴を催したものだが、彼の死後はすっかり廃れてしまった。
宙が板より剥がしたかまぼこを包丁で半月型に切っている時、遠くでスマホの着信音が鳴った。欧華のようだった。
彼女はスマホの画面を確かめると、悩ましそうに眉をひそめ、すぐに拒否した。
「電話ですか?」
その様子を見ていた宙が、気になって訊く。キッチンとソファは離れているので、宙はちょっと声を張らないといけなかった。
「えぇ」、と欧華は答えたが、憂色を浮かべている。
どうしたのだろうと宙が怪訝に思っていると、欧華はソファより立ち上がり、キッチンの宙の向かい側に立った。カウンター越しに、二人は対面する。
「宙さん、ちょっとだけ出てきます。すぐ帰ってくるので」
「えっ……あ、はい」
宙は茫然と生返事してしまったが、欧華は意に介さず、スマホを握り締めて行ってしまった。
ガスコンロの上の、大きめの鍋に注いだ水が沸騰している。かまぼこは全部切られ、青ネギは細かく刻まれた。宙は袋入りのゆでうどんを何玉か熱湯に入れてゆがいた。
菜箸でくるくるかき混ぜるようにしてうどんをほぐす宙の脳裡には、スマホで家族と問答する欧華のイメージがよぎるようだった。
……。
白ご飯のおかずに、宙は生姜焼きを選んだ。それ用に売られているパックの豚肉を焼き、タレを絡めるだけで、調理はすぐに終わった。
宙はキャベツの千切りといっしょに生姜焼きをお皿に盛り付けると、キッチンを離れ、テーブルを綺麗にしに行った。とはいえ、陽子がおらず、また宙が終日仕事で出ていたので、テーブルは未使用であり、いささかほこりを被っている程度だった。
水に濡らした布巾でテーブルを拭くと、宙は出来た品々やお茶のポットなどを運んで来、自身と欧華の二人分、配膳した。
宙は壁掛けの時計を見てみたが、すぐ帰ると欧華が言い残して出ていってから、すでに二十分ほど経っていた。
時刻は七時四十分頃。
まだ帰ってこないのかと宙が心配に思うが早いか、玄関の扉が開く音がし、欧華が帰ってきた。
「遅くなってすいません。ちょっと話し込んじゃいまして」
そう言う彼女の面持ちは、気を張っているようでどこか余裕がない。
「夜ご飯、出来ました」
宙は気後れするようにはにかんで、手でテーブルの上を示す。すると欧華は沈んだ顔を翻然と驚きでパッと明るくし、「わぁ」、と感激して見せる。
「全部宙さんが作ったんですか? すごい」
「手をかけなくていい料理ばかりで恐縮ですが」
「とんでもない。きちんと味わわせて貰います」
欧華が帰り、宙によって食事の用意が出来たこのタイミングで、二人は食卓に付いた。
それぞれにとって、今回が初めての会食であり、二人共何だか気恥ずかしい思いで、なかなか箸が進まなかった。だが彼女等には、相手に聞いてみたいことが山積みで、年齢や趣味やこれまでの暮らしがどうだったか等々、聞き合い、答え合いしている内に、緊張や気詰まりが段々とほどけ、自然と打ち解けられる雰囲気を共有出来るようになっていた。
宙は向かい側の、いつもは陽子の座っている椅子で食事する欧華の姿を見、その箸の運び方やグラスでお茶を飲む飲み方に、何とはなしに品を感じた。決してしゃちほこ張っていない、ナチュラルで嫌味のない品だった。
「さっきの電話ですけど」、と食事の途中、欧華がふと言い出す。「実は、お父さんからでした」
「……」
口の中に物が詰まっている宙は、無言で頷くだけだった。
「離れて暮らしてる父母が、ゴールデンウィークに汪海町に帰ってきてるんです」
宙は口の中のものを飲み込んですっきりさせると、「帰省で?」、と聞いた。
「えぇ、そうです」、と欧華は頷いて肯定する。「けど、ただの帰省じゃないんです。お父さんとお母さん、わたしを説得しに来たみたいで……いや、説得じゃないですね。説教です」
それまでの会話の中で、宙はすでに欧華の暮らしの状況を大雑把に聞いて知っていた。だが、その暮らしは通り一遍のものではなく、彼女は始末の悪い問題を抱え、難渋しているようだった。
詳らかにされる事柄のほとんどが、宙にしてみれば、驚きと当惑の対象だった。
要するに欧華は、家で起こるに違いない難を回避すべく、車中泊という名目で脱け出し、夕べの海辺の駐車場で一人ポツンと佇んでいたのだった。
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