《29》
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それまで止まっていた車がことごとく去り、ずいぶん寂しくなった海辺の駐車場で、欧華は相変わらず遠くを見て一人佇んでいた。その様には見る者を心細くさせるものがあり、離れたところで注視している宙は、胸が締め付けられる思いだった。
夕べの残光に淡く照らされる欧華の背後に、影法師が長く伸びている。辺りは薄暗く、涼しくなってきており、じき日が暮れる気配が濃い。彼女は家に帰らないのだろうか?
……。
宙が両手で自転車のハンドルを持って押していくと、欧華がハッと振り向いた。
「宙さん?」
欧華はきょとんとして訊く。
「今仕事が終わって帰る途中なんですが、たまたま見かけて……」
宙もだいたい同じ面持ちで、この状況が腑に落ちないという感じだった。
「じき日が暮れますよ。そろそろ帰らないと」
そう宙は言ったが、欧華は目を伏せ、どこかバツが悪そうだった。何か言いにくい事情でもあるようだった。
「今日は、帰らないつもりなんです」、と欧華。「家にね、『お客さん』が来るんです。わたしが家にいるとマズいので、こうやって出てきてるんです」
「……」
成るほど、と宙はとりあえず納得したが、持っていた疑問が解明されたわけではなかった。『お客さん』とは一体誰なのだろうか。とにかく、欧華は今日家には帰らず、外で過ごすのだそうだ。
「じゃあ、今晩は宿か何かに泊まる予定があるんですか?」
「……」
宙の問いかけに、欧華は口を一文字にキュッと結び、答えかねる様子だ。
気まずい沈黙の間が空いた。宙はその目をじっと見据えて答えを待ち、欧華は目を逸らして憂悶を抱えているようだった。
風が立ち、宙と欧華の髪を煽る、宙は片手を壁にして髪が崩れないようにし、欧華はなびいて首や顔にまとわりつく髪を手で除けた。
やがて風が止むと、「今夜は」、と欧華がためらいがちに言いだした。「車中泊するつもりなんです」
「えっ……」
そばにとまっている、使用感のあるコンパクトカー。ヘッドライトのカバーがうっすらと黄ばんでいる。
この車は、きっと欧華のものに違いなく、その言によれば、彼女はこの車の中で寝て一晩過ごすみたいだ。宙にはその話はどこか現実離れしているように思えた。
夜食に関しては、欧華はすでにスーパーで出来合いのものを買って用意してきており、準備は万端整っているようだ。
宙は欧華がそうすることを強いられた事情がまるで読めなかったが、彼女の置かれた状況が不憫だと思った。
「その『お客さん』とは、欧華さんはあまり仲良くないんですか?」
「仲良くないっていうとやや乱暴ですが、まぁ、折り合いがよくないって感じです」
宙の問いにそう返すと、欧華は伏せていた目を上げた。
「なぜ欧華さんが、肩身の狭い思いをしなきゃいけないのか、よく分かりませんが」
「わたし、今失業中なんです。祖父母の家で暮らしてますが、居候同然のもので。そういうわけで、アルバイトしてるんです」
「けど……」
同情を誘う欧華の窮境をどうにかしてやりたいという思いで宙は言葉を紡いだが、いよいよ難しくなってきた。
辺りの薄暗さは増しており、空はすでに夜の装いで、夕焼けは水平線の辺りに辛うじて残っているばかりだった。星々が浮かぶ夜空では、満月が皓々と照っていた。
「宙さんこそ、早くお家に帰ってください。すっかり暗くなってきちゃいましたし」
そう言って笑う欧華の強がりが、痛々しかった。本心では彼女は家で過ごしたいのに、何らかの事情で家を出て来、車なぞで寝泊まりしないといけないのである。妙齢の女性が一人で不用心だし、何より不便に違いなかった。
宙は、その場に黙然と突っ立っているだけだった。彼女には一つの案があった。その案を披歴するのは、だがいささか遠慮があり、躊躇された。母、陽子が旅行に出かけて不在の今、家には宙しかいない。つまり、家でどう過ごそうが、彼女の自由なのである。
宙は俯いてしばし考えると、顔を上げ、「欧華さん」、と改まって言った。「今日、うちに来ませんか? 今お母さんが旅行でいなくて、わたし一人なんです」
「宙さんの家に?」
提案された欧華は、呆気に取られたようだった。
「車で寝るなんて窮屈と思います。ご飯だってちゃんとしたのを食べるのがいいし」
「悪いです。わたしなんかがお世話になるなんて」
「大丈夫です。わたしは歓迎しますし、お母さんだって、別に怒ったりしませんから」
「……」
欧華はしばらく無言の後、自嘲的に微笑んだ。
「わたしの不安が表に出ていたみたいで、ごめんなさい。率直に言えば、宙さんの提案は嬉しいものです。もし本当に歓迎してくださるのでしたら、甘えさせて貰いたいと思います」
欧華は照れ臭そうに、また申し訳なさそうに提案を受け入れ、一方で宙は、差し伸べた手を受け取ってくれた彼女の気概が嬉しかった。
そういうわけで、ある事情で車中泊を余儀なくされていた欧華は、宙の計らいで、天国家に泊まることになった。
宙はスマホの地図で家の位置を欧華に教えて先に自転車で帰り、欧華は遅れて車で到着するという運びとなった。
日曜日にお出かけの予定を控えた二人は、その前日の土曜日に、期せずしていっしょになり、一つ屋根の下で過ごすことになったのだった。
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