《28》
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土曜日の科学館の来館者は平日とは様相が異なる。単独ないしは少数で来る人が多く、とりわけ家族連れが目立つ。反対に平日来る人といえば、向学心の強い学生か、社会見学の団体か、ヒマを持て余した老人など、タイプは絞られていた。
科学館の職員にとっては、相手がどんな客だろうが、やることは変わらなかった。彼等の関心をうまく惹き付け、知的探求心を育むのが肝要である。世の中を統べる摂理を科学の視点から明らかにし、蒙を啓く手助けをするのだ。
その日は普通の土曜日ではなく、大型連休の土曜日だったので、果然、館内は盛況だった。宙は決まった時間に投影されるプラネタリウムで投影機のオペレーターと解説者を務め、その他は館内を巡って来館者を案内した。この日さえ凌げば次の日、その次の日と二連休なので、宙のモチベーションは高かった。
宙が仕事に没入している内、時間はどんどん過ぎていき、朝が昼になり、昼が夕方になり、そして定時の五時半が迫ってきた。
連休前ということで宙は、デスクをいつもより入念に整理し、綺麗にした。隣席の古川は休みで不在だが、反対側の柳川は出勤してきていた。
柳川瞳、三十歳。結婚しており、スターシップMINATOには中途で入社した。肩まである髪はパーマがかかっており、ブリーチされたのか薄褐色で、ナチュラルにアレンジされている。それぞれ同じように細い眉毛と目のある顔は、にこやかで愛嬌がある。過日感染症が流行した頃に習慣付いたのか、彼女はいつもマスクを着用している。
宙が日報を書いて退勤しようと思っている傍らで、瞳は資料作成に励んでおり、多少残業するようである。
「天国さん、明日明後日とお休みよね」
柳川がパソコンより目を逸らし、宙に尋ねる。
「えぇ」、と宙は返す。
「世間はゴールデンウィークだけど、どっか行くの?」
「明日、ちょっと」
「いいわねぇ。旅行?」
「旅行ではないんです。地元を友達?知り合い?とブラブラするだけで」
――欧華をどう呼べばいいか、宙は悩んだ。友達と言うにはまだよそよそし過ぎるし、かといってただの知り合いと言うのも、いっしょに出かける予定が組めるまですでに親しくなっているので、相応しくない。
「へぇ、彼氏? 天国さんも隅に置けないのねぇ」
瞳は一人合点して怪しげに笑う。
「ちっ違いますよ。女の子です」
宙は慌てて否定するが、瞳は期待を裏切られて、いささか索然としたようだ。
「まぁ、地元が一番よねぇ。落ち着くし」
「そうですね。汪海町は海があって、広い海原を眺めると、何だかリラックスする気がします」
二人が雑談を交わしていると、「ゴホン」という咳払いがと聞こえ、離れたデスクにいる職長が、チラチラ宙たちの方を見ていた。彼の目は、私語を慎みなさいと責めるようにトゲを含んでいた。
宙と瞳は職長の意を敏活に汲み取ると、互いに頷き合って話を打ち切り、中断していた業務に戻った。
宙が後やることとしては、日報の作成だけであり、彼女はサッと書き上げて職長に提出すると、室内の人たちに挨拶して回り、退室した。ロッカールームでタイムカードを切る。五時四十五分。そしてロッカーからリュックを出して背負い、科学館の出入口に向かった。
タラップを渡って岸の階段を下りる宙は、暮れなずむ春の夕空を見上げた。まだ明るかった。
日が高く昇っていた時の温もりが残る中、涼しい風が貫いて通り、背筋や首筋に冷たい感覚を与える。夕空はまだ青く、薄く広がった雲が変形して流れていく。
普段であれば仕事後は直帰するのだが、その夕べは、連休前のワクワク感が助けてか、ずいぶん快く感じられ、宙は二十分ほど、夕映えの海辺の風情を味わっていくことにした。駐輪場の自転車に跨ると、ペダルを漕ぐ足が軽かった。
コンクリートの堤防道路。自転車で快走する宙は冷たさを孕む潮のしょっぱいにおいを吸い込み、涼しい向かい風を全身に浴びた。宙の左手には、柵を隔てて堤防と海原と夕焼けが見え、右手には、汪海町を囲む山々に向かって緩やかに上る斜面の建物のゴチャゴチャした並びが見えた。水平線の上に燃える夕日に照らされ、あらゆるものは橙色に染まっていた。
明くる日は、宙は欧華と出かける予定になっている。宙には彼女に聞いてみたいことがいくつもあった。年齢、来歴、趣味、等々。人を質問攻めにするのはあまりよくないが、仮に限られた質問しか出来ないとすれば、宙は大いに迷うに違いなかった。
おおむね十五分、興が乗ってお気に入りの歌を口ずさむなどして、宙は自転車で海辺の道路を快走し、その情緒にしみじみ浸ったが、途中、堤防ごと海側に張り出た公営駐車場を通りかかった時、宙の注意を惹くものがあった。彼女は気になって自転車を止め、片足を地に付いてちょっと見てみた。
海のすぐそばの、二十台ほどのキャパの白線を引かれた駐車場。夕方の今、止まっている車は指折り数えるほどしかない。その残っている車も、じき去っていくだろう。場外より人がやって来、車に乗り込んでは去っていく。少ない車が、更に少なくなっていく。
一台だけ、去る気配のない車が残っていた。いくぶんくたびれた、飾り気のないコンパクトカー。
宙の目は、ずっと『彼女』に向けられていた。
コンパクトカーのそばで、堤防の柵に片手を置き、遠くを眺める一人の少女。白いTシャツに、スキニーのライトブルーのジーンズ。青い髪に強い既視感があった。彼女は欧華に違いなかった。宙には、あのコンパクトカーが欧華のものであるように推知された。
彼女はあそこで何しているのだろう? すぐ夜になるだろう夕暮れに、ひと気のない駐車場で海を眺めて……?
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