《23》
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小さく区切られた一室。真ん中の辺にデスクがあり、デスクの側とその少し離れたそばに、二つの椅子があり、隅にベッドがある。他には小物がいくつか。全体的に白か、白っぽい色に統一されており、清潔感がある。巾一メートル半、高さ一メートルほどのガラス窓には、青空と海が見えている。
汪海町の総合病院、『柊医院』精神科の診察室だった。陽子の勤務する病院であり、また、欧華が折に触れて通院で来るところでもあった。
通路に繋がる隙間のカーテンが開いて、白いナース服の看護助手が書類を携えて入ってく来、彼女は、椅子に座ってパソコンに向かっている白衣の医師に、その書類を渡した。
三十歳代と思しき男性医師は、眼鏡をかけた目で受け取った書類をまじまじ見ると、デスクに置き、椅子より立ち上がって移動し、スライド式のドアを開けて次の患者を呼び込んだ。
「岬さん。岬欧華さん」
待合室より「はい」という返事がし、医師が診察室に戻って椅子に座って程なく、欧華が入室してくる。
「どうぞ、お掛けください」
医師に促され、ロングの綿パンを履き、ネルシャツの袖を肘までまくっているという恰好の欧華が、空いている方の椅子に腰を下ろす。肩に掛けて持ってきたバッグは、用意されたカゴの中に入れられる。
それぞれ同じように、揃った両脚の膝に手を置くという姿勢で対面する医師と欧華は、すでに何度かこの診察室でやり取りしたことがあった。
「パッと見」、と医師。「心なしか肌艶がよくなったようにお見受けしますが、いかがですか、その後のご調子は?」
「前ほどは憂鬱が気にならなくなったように思います」、と欧華。「いただいた睡眠導入剤は、最近めっきり飲まなくなりました」
「そうですか。寝付きがよくなったのですね」
「えぇ。考え事が深まって眠れないということは、今はほとんどありません」
「すばらしいことです」、と医師がにっこり賛嘆する。「睡眠導入剤なんて、飲まないでいいのなら、その方が断然いいです。自然に眠るのが一番です」
欧華が、間が悪そうにはにかんで頷く。
「実は、生活の内容がちょっと変わったんです。やることが出来たというか、増えたというか」
「成るほど。つまり、岬さんは作業療法的に回復したと言えるわけですね」
「そうかも知れません」
欧華の説明に、医師は感心したが、詳しいことは聞かなかった。欧華は、眠れぬ夜があるほどの憂鬱のために柊病院を訪れ、何度か同じ問題で精神科に足を運んできたが、以前までは快癒が見込めず、互いに困っていた。彼女のその状態が翻然とよくなったというその急転に、確かに医師には関心がなくはなかったものの、彼にしてみれば、患者がよくなったというその事実だけあれば十分であり、その背景を探るのは、場合によっては個人情報の詮索となるため、余計であった。
「いい方向にことが転じたようで、ホッとしてます」
医師はそう言い、椅子をくるりとデスクに向くように回すと、首をねじって欧華の方を改めて見る。
「今回はお薬、要りませんね? 前回の分が余ってるようですし」
「そうですね。結構です」
「では、今回はこれで。また何かあれば、いつでも来てください」
「分かりました。ありがとうございました」
「お大事に」
互いに挨拶を告げ合い、欧華はカゴの中のバッグを取って椅子より立ち上がり、医師に一礼して診察室を出る。
クッションの長椅子が並ぶ待合室で、他の患者と共に座って待っていると、やがて名前が呼ばれ、彼女は立ち上がり、受付まで行って診察代の支払いを済ませた。
精神科での用事を終えれば、欧華は帰るだけだった。その日のアルバイトは夕方からであり、診察を終えた時はまだ午前中だった。
車いすの病人やナース服の看護師などの通る通路を歩いていると、欧華はふと、すれ違った一人の看護師と思しき女性に声を掛けられた。彼女は小走りで欧華に駆け寄ってくると、下から上までザッと確かめた。
「あなたは確か――」
茶髪のボブカットで、ナース服の下がスカートではなくパンツの女性は、いくぶん不躾に欧華を指差して、半ば驚いたように、半ば感激するように、目を見開いている。
欧華は欧華で、この女性に見覚えがあるのだった。
「――岬欧華さん、で合ってる?」
「はい、そうです」、と彼女は肯定する。「わたしも確認させてもらいたいんですが、天国宙さんのお母さん、ですよね?」
「そう、そう!」
陽子は自分が覚えられていたことに興奮してか、欣然として欧華の両手を取り、まじまじ見つめた。その熱っぽい目は、欧華にはいささか苦しかった。
「嬉しいわぁ。まさかここでまた欧華ちゃんと会えるなんて」
「また?」
欧華はきょとんと小首を傾げる。彼女においては、陽子とはこの病院で再度会ったのではなく、初対面という認識だったのだ。
「あぁ」、と陽子が欧華の当惑に気付いてハッとする。「いや、こっちの話。欧華ちゃん、何度かここに通院で来てるよね」
「はい。けど、知りませんでした。宙さんのお母さんがここで勤務していらっしゃるなんて」
「宙さんのお母さんなんて言いにくいでしょ。陽子でいいわ」
「陽子さん?」
「そう」
陽子はフフッと軽快に笑うと、また会おうと欧華に告げ、彼女は去っていくようだった。
「じゃあね」
「さようなら」
欧華は立った状態で、陽子は振り向いた状態で、それぞれ笑顔で手を振り合って、そして別れた。
通っていく人々が、彼女等のやり取りを物珍しそうに見ていた。
突如現れては去った陽子に関して、欧華はどこか狐につままれた感じだったが、悪い気はしなかった。
開け放たれた窓から、そよ風が入って来、欧華の首筋をくすぐる。陽子にたまたま病院で行き合わせたこと、宙にメッセージで送ってみようかなんて、欧華は遠くの海を横目で見て、考えるのだった。
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