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《2》

***




 日本の少子高齢化は深刻だという社会状況が、宙は折に触れて、家庭を媒介にして思い知らされることがある。




 宙は母と二人暮らししていた。父は幼少期に病気で亡くなり、以来、宙は女手ひとつで育てられた。特にこれといった不自由はなかったが、決して裕福ではなかったし、片親であることに、どこかコンプレックスを持っていた。要素の欠落した家庭というのが、彼女にとって、何だか不服だった。


 スターシップMINATO退勤後、宙は予定通り自宅まで自転車で帰った。職場より自転車でおおよそ二十分の距離のところに家がある。特別遠いわけではなく、むしろ近い方と言える。


 六時過ぎ。住宅街の家並に溶け込む戸建て――正面が芝生になっている――の自宅まで来ると、宙は自転車を下り、芝生の端っこに寄せて駐輪した。芝生には一台、黄色ナンバーのワゴンがとまっており、天国家の自家用車だった。運転免許を取りに行こうかと考えることがあるが、教習所に通う手間と要される費用とを考慮すると、面倒くささが勝つのだった。


 近所の会社勤めしている人も、大体この時間帯に帰ってくることが多く、帰宅時に出くわせば、宙はこんばんはと、会釈と共に挨拶するのだった。


 暗くなっていく夕空の下、天国家の窓に光は灯っていない。母はまだ帰ってきていないようだ。


 カゴの中の鞄を取り出し、玄関に対して横向きになっている低い階段を上り、扉を開けて中に入る。


 静まり返った家の中。ペットを飼うなどしておらず、何とも寂しい感じが漂っている。


 だが、宙にとってはこれが日常であり、昔からこういう雰囲気の中で暮らしてきたので、別段、苦に思うこともないのだった。勿論、父親という存在が欠けていることへの物足りなさはあったが。




 ……。




 ただいま、と帰宅の挨拶が聞こえた。二十帖ほどのLDKのキッチンで、切り身のマグロを刺身用に包丁でカットしていた宙は、パッと顔を上げた。


 母、天国陽子(あまくにはるこ)の帰宅である。四三歳。医療機関でパートの看護助手として働いている。宙がまだ学生の頃、陽子は、正規の看護師として働いていたが、娘が自立したということで、ひとまず雇用形態を変えることにした。出来れば引退して別のことがやりたかったが、長年勤めてきた病院の仲間たちに引き留められ、やむなく続けることにした。彼女にしてみても、わざわざキャリアをリセットしなくても、慣れた仕事を続けるのが、やはりベストだという気がした。医療の仕事にうんざりしてはいたけど……。


{IMG226563}


 陽子は、ボブカットというのか、髪の襟足がまっすぐに切り揃えられ、前髪はアシンメトリーに流していた。サイドにはレイヤーが施され、髪染めしてもいるし、陽子は、その年齢に対して若々しい見た目であり、溌剌として明るく、娘とは対照的だった。


「おかえり」、と宙は小さい声で返し、調理を続ける。


 陽子は玄関を入ってすぐの階段を上がり、自室へと向かっていく。荷物を置き、着替えるためだ。早くに帰宅した宙は、すでに着替えており、長そでのTシャツにジャージの長ズボンという出で立ちである。


「――何、マグロ切ってるの?」


 陽子がキッチンの端より首を伸ばし、娘を窺う。


「うん」


 赤いマグロのエキスが滲む白いまな板の上に、一口サイズにカットされた切り身が並んでいる。


「お母さんは、何食べるの?」


「あたしは、カップラーメンでいいかなぁ」


「お母さんって、病院で働いている割に、ホント健康に対する意識が低いよねぇ」


 宙が苦笑を零す。


「別にいいじゃん。健康診断でペケ貰ったことないし」


「まぁ、そうだね」


「足りなかったら自分で作るよ。冷蔵庫に何があったっけ?」


 そう言って陽子は、キッチンの冷蔵庫を開けて中を確かめる。空っぽではないが、入っているのはいささか傷んだ使い古しの食材ばかり。


 パタンと冷蔵庫の扉が閉められ、陽子はハァと豪勢にため息を吐く。




 それから、職場の愚痴が始まる。




 宙が少子高齢化をしみじみ感じるのは、この時であり、陽子はいつも、世話する患者の不満を零すのだが、その人物は決まって爺婆である。食事がまずいだの、枕がくさいだの、部屋が暑いだの、文句ばかり言うと看護助手の彼女は辟易している。


 もし彼女の愚痴に、青年が出てくれば、宙も年頃であり、恋愛を夢見たり出来るのだが、母親の話に若い男が出たためしはないのだった。日本の少子高齢化は深刻だ。


 熱々のカップラーメンの麺が伸びても、陽子の口は閉じずにパクパク愚痴を吐き続ける。


 宙は淡々と自分で調理したものを胃袋に運んでいくのだが、陽子の愚痴を零す時のバイタリティにはいつも感心するのだった。あまり真似したいとは思わないのだけど。


 スーパーの刺身には、大根のケンが敷かれていたり、大葉が添えられていたりして、見栄えがするが、切り身だけで用意した宙のマグロの刺身は、美味しいのだけど、ただそれがお皿に乗っているだけであり、味も素っ気もないという感じだった。


「――あたしもプラネタリウムで働きたいなぁ」


 と、陽子がボヤく。


「宙の職場、人手足りてなかったりしないの?」


「今年は新規の募集がなかったの。必要充分なのかもね」


「ちぇっ」、と陽子が悔しそうに舌打ちする。


「お母さん。プラネタリウムの職員は、ある程度勉強が出来ないとダメなんだよ」


「あたしこう見えても理数系なのよ?」


「だけど、せっかく看護師の資格があるんだから、病院で働けばいいじゃない」


「もう散々やってきたって」


 そう更にボヤき、陽子はようやく箸をカップヌードルに突っ込んで麺を持ち上げ、ズルズルとすするのだが、「マズッ」、と言って眉をひそめた。




 麺が、すっかり伸びているようだった。




***

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