《15》
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それぞれ同じ二三歳である宙と欧華は、小雨の日、スターシップMINATOのプラネタリウムで印象的に出会い、互いにインスピレーションの稲妻を閃かせ合った。
また会えたら、と彼女等は思ったが、再会の機縁は、なかなか巡ってこなかった。宙は職員としてプラネタリウムにまじめに勤務していたが、欧華の方は失職中の身であり、彼女が頼る祖父母は、家事や労働を無理強いしないほど寛大だったが、だからといって、彼女が悠々自適に過ごせるというわけではなかった。またプラネタリウムに行きたいと欧華は欲したが、プラネタリウムに行くというのは、余暇の過ごし方のひとつであり、定職に就かない欧華には空き時間が山ほどあるが、彼女はあくまで失業者であり、有閑人ではないのだった。
欧華はくよくよ悩んでいたが、ようやく行動に移り、ある日、求人情報誌にある求人の募集元に電話してみた。彼女のよく行く地元のスーパーのスタッフ。品出しや清掃など、やることは至極単純だが、時給は最低賃金に近く、条件は決してよくない。
他人に聞かれると恥ずかしいので、欧華は密閉した寝室にこもり、壁際で膝を抱えるという恰好で、スマホで電話した。電話には募集元の社員の男が応じ、欧華は緊張と不安で胸をドキドキさせていたが、男は反対に淡々と手続きを進めた。面接の日取りと場所。履歴書などの必要となる持ち物。わざわざメモしなくていいほど、内容は簡明だった。
面接の日時は数日後の夕刻と決まった。思いの外あっさり手続きが済んだが、欧華において、あまり緊張する意味はなかったように後になって思われた。今までずっと欧華は、こういうアルバイトらしいアルバイトの経験がまるでなかった。学生の頃に学会やシンポジウムなどの会議の企画、運営を担う企業のインターンシップに参加するくらいのもので、その他は学業に費やしていた。世間知らずといえばそうかも知れないが、欧華は大学生だった当時、父母と共に暮らす箱入り娘だったので、多少過保護気味に扱われていて、アルバイトは許可されなかった。
「――欧華」
ある日曜日。二階の欧華の寝室に、呼び声がした。和子だった。欧華はローテーブルで読書しているところだった。テーブルが接する窓は換気のため、障子とガラス窓が開けられて網戸だけになっており、その日は晴れで、室内は明るく、また快い風が吹き通ってくるのだった。
襖が開き、和子が顔を出す。カットソーにひざ丈のスカートというシニアっぽい出で立ちだ。
文庫本より顔を上げて欧華は、どうしたのかと問いたげに振り向く。
「車を出して欲しいんだけど」、と和子。
「いいけど、買い物?」
「そう。ちょっとたくさん買い物したいから、自転車だと不便なんだよね」
「オッケー。任せて」
欧華は了承し、準備するといって本をパタンと閉じ、和子は和子で彼女の支度にとりかかりに寝室を離れた。和子は運転免許を持っていないので、時々こういう風に、不都合が生じるのだ。欧華は免許を持っており、頻繁にはしないものの、運転が苦ではなかった。
家の隣の広場には、二台分の駐車スペースがあり、一台は憲一の軽トラで、後一台は自家用車のコンパクトカーだった。軽トラは祖父が仕事に行く時に乗るので今はない。
先に欧華が準備を終え、車のキーを持って乗り込む。飾り気のない車内空間がシンプルで、欧華には心地よかった。ほのかに香る芳香剤。新しい車ではないので、外装に傷があったり、内装がくたびれていたりするけど、まだエンジンは元気だった。欧華はシートベルトを締め、各所のミラーを調整する。晴天の日差しのせいで車内はやや熱っぽかったが、エアコンは付けず、窓を開けるだけに留めた。
欧華が家の方を、和子を待ってぼんやり見ていると、その内彼女が玄関より出て来、入念に戸締りする姿が見えた。和子は小さい手提げカバンを持って、遅れて助手席に乗ってきた。
出かける手筈が整い、ハイブリッドシステムの車が電力のみで静粛に前進する。
幹線道路に出るまでの近所の道路は、人家が密集しているため狭隘で、欧華にとっては未だに車で通るのに苦労するところだった。とはいえ車幅感覚と退避場所を覚えれば、後は慣れでしかなかった。
祖母の行きたいというお店は、汪海町を出た都市部の方にあり、しばらく時間がかかった。自転車では到底いけない距離であり、車を出さざるを得ないところだった。
着くまでにかかる時間はそこそこあり、仲が悪くもないのにずっと黙っていると気まずいので、和子が、運転する欧華に話しかけた。話題はやはり欧華の身空だったが、欧華は別に嫌がる素振りなど見せずに、素直に応じた。
「欧華は、元に戻りたいとか思わないのかい?」
そう問われた欧華は、悩むように低く唸った。
「『あの仕事』は、わたしにとって、向いているようで、その実向いてなかったんじゃないかな」
すでに車は幹線道路に出ていて、時速五十キロほどで他車と共に快走していた。
「欧華のコミュニケーション能力は、絶対あの仕事に向いてたと、わたしは思うけどね」
「わたしに能力が備わっていたかどうかは、自分ではよく分からない。だけど、やっていける自信は確かにあった。少なくとも最初の頃は」
欧華の口吻は冷静だった。彼女は過去を顧み、改めて考えてみた。当時どういう心境で苦しみ、退職するに至ったか。今ある程度空白期間を置いて回顧してみて、復職したいと思うかどうか。
「世界にはたくさんの問題があって」、と欧華。「わたしの友達が、そのために苦しんだり困ったりした。わたしはその支えになりたいと思って仕事に臨んだけど、世界は中々問題を解決してやろうという方に向かっていかないし、むしろ頑なで、より狭小に、より悪くなる気がした」
――その内、欧華は気概を徐々に失っていき、無気力に陥って、退職することになる。そうなるまでと、そうなってから今に至るまでの日々を振り返ってみると、欧華は霧のように薄く広がる無力感と虚無感に包まれ、悲しみや失意を覚えるのだった。
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