《13》
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憲一は座卓にもたれるようにして片肘を突き、口を半開きにしてぼんやりテレビを観ていた。灰色の無精髭が彼の口の周りを覆い、目蓋が開いたり閉じたりし、眠たそうである。座卓の彼のところには日本酒の一升瓶と、おちょこが置いてある。夜の七時半。憲一はすでに微酔のようだ。
七十代の高齢になっても未だに現役で漁に出続ける憲一は、欧華の祖父だった。憲一は矍鑠として、老衰している感じはあまりない。いささか粗野で繊細さに欠けるが、その辺りは、学業を早い頃に断念して海の男として身を立てたワイルドさとトレードオフの関係になっているのだろう。
刺身の盛り合わせや焼き魚が座卓に並んでいる。夜ご飯の時間だった。憲一の他に、欧華と和子――欧華の祖母である――も、座卓に付いていた。
憲一も和子も、すでに年金受給者であり、老後の生活を細々と営んでいるシニアであった。
巾約二メートル、奥行き約一メートルの広い座卓の一方に憲一がおり、その対面に和子と欧華とがいた。
憲一は古めかしい、今では時代錯誤と言える家父長制の、無自覚ではあるが、継承者であり、機嫌が悪いと、高圧的に声を荒げる時がある。都会ではまず生き残っていない昔の因習が、地方ではまだ残存しているのである。
和子と共に、欧華は黙々と箸を運んでいたが、座卓の陰の、膝元に置いている真っ暗のスマホのディスプレイをオンにしてみた。ひょっとすると、両親からメッセージが届いているのではないかと思ってのことだった。通知は、しかしなかった。そもそも、欧華が父母の元を離れて以来、彼等とまともにやり取りした記憶がなかった。欧華においては、通知のないことに、思った通りという感じがしたが、その裏では、些少の寂しさが隠れていた。欧華と両親の音信不通の期間が更新されていく。だが、互いに言うべきことがないのであれば、絶交の状態が続いても別段構わない、そういう風に欧華は、確かに寂しいと思うところは幾分あるけれど、冷淡に肯定するのだった。
ふと気配がしたように思い、欧華は憲一の顔色を窺ってみた。が、彼は酔って赤らんだ顔でテレビを観ているだけであり、違うと思って目線を転じ、隣にいる和子の方を向いてみると、彼女の目線とぶつかった。和子はどうしたのと問うように見るのだが、欧華はバツが悪い気持ちで思わず目を逸らした。
畳の上に、求人情報誌がある。スーパーのアルバイトのページがすぐ見えるように表紙が裏返った状態になっている。欧華において、食べ物は味がほとんどせず、胃袋が憂鬱のために収縮しているようだった。
二三歳で早くも仕事をリタイアして、祖父母の家に寄居してから、ずっと欧華の頭には、解きほぐすことの容易でない悩みが絶えずあり続け、苦しめていた。彼女が悩みから解放される時と言えば、ほとんど睡眠している時くらいのものだった。
どこにでもあるフリーペーパーの求人情報誌。大した求人はのっていないし、多分、そういう性質の媒体なのだろう。欧華が次号を手に入れてみても、恐らく彼女の得られるものは少ないだろう。
仮に、と欧華は考えてみた。
――仮に、わたしがおじいちゃんとおばあちゃんの家に来て、アルバイトしていると知ったら、お父さんとお母さんは、どういう風に思うだろう。色々勉強してきて、英語は聞いて話せるし、就職していた頃は外国の要人や団体の代表者との折衝だって出来ていたわたしが、これといった魅力のない、時代の流れに置いてきぼりにされた辺境に移り住み、時給千円ほどの価値しかない軽作業に時間を費やしていると知ったら、彼等は果たして……?
「欧華」
憲一が不意に呼びかけ、物思いに没入していた孫娘は半ばビクッとし、「はい」と畏縮して返す。
どこかニヤついた顔の祖父が、テレビに向けていた視線を欧華に転じている。
彼は組んだ腕を座卓に載せ、前のめり気味に欧華の方に乗り出してくる。
「海女さんでもやってみないか? 今ちょうど人手がいるっていうところがあって」
どうやら、進路に悩む孫娘に対する提案のようだ。
「海女さん……」
欧華は俯いて考え込む。
「あなた」、と和子がいささか眉を怒らせて口を挟む。「欧華はまだ考えてる最中なんですよ。それに、疲れてる」
「何、一案を提示しただけさ」
全く出し抜けの話で、欧華は戸惑うだけだったし、元々スーパーの店員をやるつもりだったので、心中ではすでに拒絶していた。ただ、せっかくの提案を無碍には出来ないという彼女の気遣いがあり、せめて考えるだけ考える振りをしているのだった。
「毎日ヒマで寝てばかりいちゃ、体に悪い。海に潜って運動すりゃ、その内元気になるさ。元気になれば、色々いい考えが自然とポンポン浮かんでくる」
「そうですね」、と欧華は当り障りのない返事で返す。
そもそも欧華の家系において、この祖父母と両親の関係自体、あまり良好ではなかった。成長志向の強い父母と、保守的で素朴で、昔ながらの生活に従順であろうとする祖父母とは、馬が合わなかった。辛うじて和子だけが、欧華の父母との繋がりを保っており――と言っても、本当に口がきけるという程度の関係性でしかないが――仮に和子が病死などすれば、憲一と父母は無縁となるだろう。そうなれば、欧華も同じように……
ほろ酔いで話を持ち掛けてきた憲一に対し、欧華ははっきりとした拒絶の意は示さず、肯定っぽく聞こえる返事だけでお茶を濁し、彼が眠たくなって寝室に移動するまで、その調子でやり過ごすのだった。
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