《100》
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八月の末、いよいよ花火大会の日となった。
夜の七時半という開催時間に余裕を持って間に合うべく、宙と欧華は夕方には汪海町を出ることにした。欧華が運転する車に宙が乗せて貰う形で行くのだが、他にも同乗者がおり、陽子と和子だった。彼女等は花火見たさに、それぞれ娘と孫娘に同行させて欲しいと請うたのだった。四人乗りの車に対して、最大人数が乗ることになった。
天国家の車で母娘はまず岬家まで来たのだが、陽子は浴衣姿であり、他の三人が洋服の中、彼女は目立ち過ぎている嫌いがあった。欧華と和子が綺麗だと褒める傍ら、宙は身内として、慎ましく沈黙していた。
「今日は娘と合わせてご一緒させて貰います」、と陽子。
一同は岬家の正面に集まっていた。空は晴れていて、花火がきっと綺麗に見えるだろうと期待させる天気だった。
「人数が多い方が楽しいですから」、と和子。
「おじいさんは来られないんですか?」
憲一について陽子が訊く。
「うちの人は」、と和子。「今日は仲間の家で飲んでくるみたいなので、夜いないんです」
陽子と和子が向かい合っていささか長い雑談に興じている一方、宙と欧華は、彼女等と少し距離を置いて、並んで退屈そうに待っていた。
「宙は今日の花火大会は初めて?」、と欧華が青空を見上げて訊く。
「うん。初めて」、と宙は目線を少し地面の方に落として答える。
「……」
欧華は押し黙ったが、試験の結果をどのように尋ねればいいか、悩んでいるのだった。
彼女がううんと唸っていると、宙が「そういえば」、と言った。「わたし、試験、落ちたよ。ハワイ行きチャレンジは失敗」
そして彼女は、柔らかい笑顔を見せたが、ストレスがかかっているのか、微かにこわばっているようだった。
「残念だったね」、と欧華。
「まぁね」、と宙はあっけらかんと返し、再び目線を落とすと、「でも、行かなくてよかったかも知れない」、と続けた。「ハワイに行って仕事するなんて、自分にはぜんぜん現実味がないから、仮に行くことになって、実際に行ったら、うまく適応出来なかったと思う。お母さんと欧華と別れて、向こうには、知っている人は誰もいないしね」
「宙なら、きっと大丈夫だったと思うよ」、と欧華。「宙はわたしみたいに不安定じゃないから、最初は多少苦労するだろうけど、時間が経てば、きちんと適応出来る」
「行ければよかったね」、と宙。「わたしは、不合格になって、新しい道に進むことが叶わなかった。けど、何でだろう。何か変わったっていう気がする。わたしがハワイに行きたい思いで試験を受ける前と、その後とで……まぁ、期待に胸を膨らませていた時と不合格になって失望した時と比べたら、くっきり違うのは当たり前だけど」
宙はそう言うと、その場にしゃがみ込み、空を見上げ、流れていく雲を見上げた。夏っぽくない淡い雲が、ゆっくり流れていた。
彼女がそうすると、欧華も真似してしゃがみ込み、彼女等はいっしょになって、しばらくの間、ぼんやり無心に空を眺めていた。
するとその内、「そろそろ行こう」、と和子が言葉をかけ、ようやく雑談が終わったらしかった。
宙と欧華は互いに頷き合うと立ち上がり、皆で車に乗り込み、宙は助手席、欧華は運転席、後の二人は後部座席、という配置だった。
欧華が岬家の車を使って宙たちを乗せていくのは、事情があって、まず開催地が隣町なので、隣町に行かないといけないので、地理に明るくまた運転がそつなく出来る者でなければいけなかった。そして、向かうのが結香の家なので、その位置を知るのは唯一、欧華だけだったのである。
車が発進し、狭い住宅街の隘路を低速で走り、幹線道路に合流すると、汪海町と隣町の境界である山を貫くトンネルに向かった。
夏の終わりは人を感傷的にさせるところがあった。欧華はその雰囲気に当てられて、車を走らせながら、脳裡に浮かんでくる思い出の情趣に浸っていた。父母とのあまり楽しくなかったが、かけがえのない生活。学生時代。憧れの職業に就いたこと、挫折、引退……海辺を走っていると、いつだったか、父母が汪海町にやってくる時に、欧華が逃げるように車で家を出て、海辺の駐車場で車中泊することになるかも知れなかった日があった。だが、彼女は偶然宙と出会い、彼女の家に泊まらせて貰うことで、安全に危機を乗り切ったのだった。
薬なしでは眠れなかった日々が、今では嘘のようだった。あの日々においては、欧華は引き籠り同然であり、ほとんど横になっているだけが精々だったというのに。
運転中、欧華は宙をチラッと見てみた。彼女は窓の方を向き、景色を眺めているようだったが、あるいは彼女も、思い出か何かに浸っているのかも知れない。そういう風に、欧華には推想された。
後部座席では陽子と和子がよもやま話に華を咲かせていた。彼女等には話せる話題がたくさんあるようだった。近所の人の人となりに、食生活に、健康や病気のことなど……。
その内車がトンネルに入り、車内が暗くなると、後ろの二人は絶えず口を動かしていたが、宙は景色が見えなくなったと、窓の方を向いていたのが正面に向くようになり、何か気配を感じたように、欧華の方を見ようとし、欧華はその動作を瞬時に察知して、目線を戻した。
欧華はアクセルペダルをちょっと強く踏んでみた。すると、車速が五キロほど上がっただけだったが、欧華の脳裡に浮かんでいたビジョンが、スゥッと遠のいておぼろげになっていくようだった。
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