《1》
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濃紺の夜空のドームに、夥しい星々がキラキラと瞬いている。大小様々の星々が、それぞれの位置であるいは青っぽく、あるいは赤っぽく、あるいは黄色っぽく発光し、各々の個性を頑なに、けれど切実に、主張しているようだ。
夜空全体は、均一な濃紺に染まっているのではなく、淡いところもあれば、濃いところもある。川や海に、足が付くくらいの浅みと、足の付かないくらいの深みの両方があるのと同じように。
眩しいほど明るく輝く星雲が、大気中の雲さながらに、無定形に棚引いている。我々が天の川と呼ぶもので、無数の恒星で成り立っている。
夜空を越えて、宇宙には、未知の物質や現象に満ちている。宇宙はまだ謎多き領域であり、その前では我々は途方に暮れざるを得ない。だが、明るい星や銀河は、我々にその光芒でもって何かメッセージを投げかけているようだ。光年という長大なる距離を越えて、星々は、あるいは驚くべき真実を、あるいは悪戯っぽい嘘を、語りかけている。
星々は運行するものである。どういう原理でか? 地球が自転と公転でクルクル回るためか?
……その星空は、ひとりの人間に操られていた。その名は、天国宙という、まだ若い無垢の少女だった。
◇
五時三十分。
定時となり、これといった残業もない宙は、事務室のファイルやら書類やらでゴチャゴチャしたデスクに付き、パソコンで日報を作成していた。日報さえ作ってしまえばその日の業務は完了だった。宙のデスクには、仕事で作成した資料の他に、学術用の図鑑やら辞典やらがある。定期購読している科学雑誌のバックナンバーも漏れなく揃っていて、彼女のデスクの棚を圧迫している。
宙は、プラネタリウムの新人職員である。彼女の勤務する、プラネタリウムを備える科学館は、ワークライフバランスを重んじる気風に恵まれ、無駄な残業はしないという慣習が徹底されていた。彼女は勤続してまだ一年しか経っていないペーペーで、大学を卒業して程ない二三歳だった。
チラチラと宙はパソコンのスクリーンに小さく表示される時計を瞥見する。退勤後は寄り道せずに帰宅するつもりだ。
後ちょっとで日報が完成するというところで、宙は椅子の背もたれまでドスンと深く座り、後ろ髪を掻いた。新人の彼女には、まだ慣れないことが多く、諸先輩に比べて、苦労が嵩むのだった。一年経って、ようやくプラネタリウムの投影機を操作させられるようになったけど、ぎこちなさが付いて回ったし、先輩の指導と注意は欠かせなかった。
肩まで伸びた宙の黒髪は、ややボリュームが多すぎ、重ためという印象があるが、マメに手入れされていて、ツヤツヤしている。眉毛は水平で表情を無にし、かてて加えて瞳の輝きが乏しくどんよりしているので、彼女の与える第一印象は、往々にして悪くなりがちだった。幽霊のようだと口々に言われたが、この風貌で本人が納得しており、あえてイメチェンする気にはならなかった。
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白が基調の窓のない事務室は、どこか監房じみていて心理的に窮屈で、職員の評判はよくなかった。(ただ、窓がないのには理由があって、決してこの事務室を含む会社全体が悪趣味というわけではない。)
宙の他に、事務室に彼女の仲間たちがいて働いているのだが、男たちはそれぞれ色がバラバラのシャツを着ていて、女たちは、半袖のTシャツなど、装いがカジュアルであり、とにかく統一感がなかった。この『スターシップMINATO』という職場は、比較的雰囲気が緩いようだった。残業にしろ、仕事着にしろ、あまり厳しさは求められていないという感じだ。
やがて宙は、日報を作成し終え、ザッと見直し、印刷機でプリントアウトすると、職長に提出し、タイムカードを切った。職長は還暦をちょっと過ぎた大ベテランであり、宙にとってはまだ怖い存在だった。
職長は、束の間日報をしげしげと見た後、納得したように頷いた。OKのようだった。
業務終了。デスクに戻った宙は、椅子の背もたれの上着を片腕に掛け、手提げのバッグを手で持ち、事務室の扉まで行くと、仲間たちの方に振り返り、全体に向かってペコリと頭を下げ、「お先に失礼します」、と言った。
それは、幽霊のように弱弱しく小さい声だったが、仲間たちの内、或る者は手を挙げるというジェスチャーで、或る者は「お疲れ」という言葉で、彼女の挨拶に返してやった。
宙は幽霊のような見た目と雰囲気ではあるけど、幽霊のように存在感を示さずに人を避けるなどせず、きちんと挨拶するようにしていた。挨拶がもし出来なければ、宙は本当に幽霊になって人々を苦しめていたかも知れない。
外では、春の暮れなずむ橙色の夕空が待っていた。冬が去って空気が暖かくなり、風が春のにおいを含むようになってきていた。
スターシップMINATOは海辺の職場だ。すぐそばの防波堤に、波が打ち寄せており、潮声が響いている。海原のずっと向こうの水平線まで遠望出来、その上の夕焼けはいつも壮大である。
年度が変わったが、宙の次の新人は来なかった。そもそも新規の募集はなかったようだ。
宙はそれが、何となく寂しかった。
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