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ユールの黒嵐  作者: イチシメ ケイスケ
1/5

ザルの導きI 古書の実験

物語の始まりは地球上です。

ジョンは奇妙な体験をします。

週末の午後四時──ジョンが最も愛するひとときだ。


手入れの行き届いた広い庭を見渡せる木製の椅子に腰掛け、

片手には香り高い紅茶、

もう片手にはお気に入りの本。


大人の余裕を漂わせる五十二歳の彼は、

そこにただ静かに身を委ねている。


足元でひとりの猫がちょこんと座っている。

一瞬迷い込んできた飼い猫かと思った。

しかしジョンの知る限り、近所に猫を飼う家などなかった。

動物は飼ってこなかったためどうすれば良いかわからなかった。


「お利口さんだね、お家はあっちだよ」


ひとまずそう声をかけた。


そして門の方を指さした。

しかしその瞬間、


猫の姿が消えた、、、!


代わりに古びた一冊の本がぽんと置かれていた。

実に奇妙である。


不気味に思ったが、

同時にそれがどんな本なのか気になった。

ジョンはそっとそれを手に取ってみた。


随分と古い本だ。

紙の質が良いので形は保っているが、

それでもところどころ破けていそうだった。


題名は、、

なんと書いてあるか分からない。

どうやらジョンの知らない言語のようだ。

静かに頁をめくってみる。

当然中身も何が書かれているのかさっぱりだった。


しかしその書体には不思議な、強烈な魅力があった。


ジョンはまるで絵画を眺めるかのように、

本の頁に心を奪われた。

書かれている内容こそ分からないが、

確かにジョンははじめの頁から丁寧に読んでいった。


トムはその古書に夢中になっていた。

読んでいると不思議な心地よさが全身を包み込むのだ。


気づいたときには日は傾き、

庭は黄昏に染まっていた。


門の方から夕食を共にする予定だった友人トムがジョンを呼ぶ声が聞こえていた。


「ずいぶん真剣だったな」


「ああ、偶々手に入れた経済の本でね」


とっさにジョンは嘘をついた。

なぜかあの古書の存在を知られたくなかったのだ。

そしてその言葉を口にした瞬間から胸の奥がざわつきだした。


トムとの食事中も、

本棚に戻したはずの古書をただただ読みたくてたまらなくなった。

トムのくだらない話が本当にどうでも良いと思えてくる。


「トイレに行ってくる」


ついにジョンはそう嘘をついた。

そして書斎へ向かい、

あの古書を手に取る。

読み始めた途端、

食卓で交わされたはずの会話も、

料理の香りすらも、

すべてが記憶の彼方に消え失せた。

快感がジョンの脳内を満たしてゆく。



何時間が過ぎたのだろうか──寝てしまっていたのだろうか。

暗がりの中でふと意識が戻ると、

消え去ったはずのあの猫がじっとこちらを見ていた。


今度はジョンの書斎の、

自分の正面にある、

小さな鏡の中で。


こちらを見つめているのだ、、、


……………………………………………………………….


端的に言えば──


ジョンは猫になっていた、、、!


目の前の光景に唖然とした。

彼はまず自分の身体を確かめた。


思いのほか滑らかに動く四つの脚、

絹のようにソフトな毛並み。

猫が衣服を身につけない理由にもうなずける。


辺りを見回すと、

あの古びた書物の姿はどこにもなかった。


少しずつ思い出す。

トムと食事をとっていた。

しかしあの本が読みたくてたまらなくなった。

トムに嘘をつき、書斎であの本に読み耽った。


そして気づくと、、自分がこの姿になってしまったのだ、、。


ひとまず現状は把握できた。

しかし現実は理解できない。


何故この身体になった?

これは夢?

いや、夢にしては頭が働きすぎている。


、、というか人間に戻るにはどうすれば、、?


疑問が湧きに湧いた。

しかし特にそれらを解決する術はない。


ジョンは、とりあえずこの状況を誰かに知ってもらうべきだという結論に至った。


そういえばトムはどうなっただろうか。

自分を探しているかもしれない。


今、ジョンは書斎の机の上にいる。


降りるのがこわい。

猫としては何てことない高さのはずだが、

視界に広がる距離はあまりに遠い。


数分間、躊躇と決心を繰り返したものの、

最後には意を決して飛び降りた。

着地は驚くほど滑らかで、

まるで何年間もこの身を使い慣れていたかのように思えた。

自分でも驚いた。少しだけ、いや、結構うれしかった。


ジョンは四つ脚でダイニングへと急いだ。


そこには――トムがいた。

いい歳した大人が椅子に突っ伏して眠っている。


自分が消えたことで大慌てしていると想像していたから、

少し安心したのも事実だ。

しかし、なぜ彼は眠っている?

友人が忽然と姿を消した(猫になった)とわかったら、

普通は眠る余裕などなくなるものではないか?


トムのだらしない姿に少しイラッとしたが、とりあえず彼を起こして状況を伝えなければならない。


ジョンはトムを起こすためにどうすべきか考えを巡らせた。

声を出せない。発するのはただの猫の鳴き声ばかりだった。


どうしたものか。


、、少々焦りすぎだ。

こういうときは一旦丁寧に記憶を掘り返して、打開策を考えるべきだ。


ジョンは一度落ち着いて状況を分析してみた。


週末の午後を過ごしていた。

猫に出会い、

その猫が本に変わり、

本に魅了された。

そしてその本を読み続けた。

その結果、自分は猫になった。


―ジョンは奇妙なことを考えついてしまった。


もしも、最初に足元にいたあの猫が、元々人間だったなら?


もしあの猫が人間だったなら、

猫が化けて本になったときその人間はどうなった?

―おそらく、「消えた」、或いは「本になった」だろう。


そして今、その本は消えた。


―つまり、、どちらにせよ、その人間はこの世から消えたということだ、、!


―自分だっていつ消えるか分からない、、、


もしトムが目覚めて自分に近づけば、

もしかすると次はあの古書になってしまうのでは?

その可能性は大いにある。


怖くなってきた。不気味な仮説が胸を締めつける。


ここは起こさず、一度書斎に戻ろう。

それがジョンの出した答えだった。


しかし。

遅かった。


書斎へ戻りたい衝動にかられ、

トムから背を向けたそのとき、背後から声がした。


「あれ、なんで猫がいるんだ?」


終わった──。

しかしまだジョンは消えてないし、本にもなっていない。


だが続けざまに、その声はこう付け加えたのだ。


「ははは。なんてな。」

「ジョンさん。猫になった気分はどうですかな?」


意味がわからなかった。

ジョンは凍りついた。

トムは何を知っている?


──だが同時に、、

もっと恐ろしい事実に気づいた。



―トムって、誰だ?



真後ろにいるこの人物は、

ジョンの記憶には一切存在しない。


今日まで出会ったことのない人物──なのになぜか彼を「トム」と呼び、

古くからのとして認識し、

自宅に招き入れ、

共に食事までしていたのだ!


―ジョンの頭は、真っ白になった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



トムは静かに口を開いた。


「少し驚かせてしまったかな。まず確認から始めましょうか。あなたはジョン・ヴェラスさんで間違いありませんね?」


猫の姿になったジョンは、言葉など到底発せない。

せいぜい「ニャー」と「ニャン」が関の山だ。

仕方なく、ジョンは小さく頷いた。


「それは何よりです」


淡い銀色の髪を整え、

紺碧のジャケットを軽やかに纏うトムは、

紳士的な佇まいの中に洒落心を漂わせている。

年齢はおそらく五十八、九歳ほどだろうか。

もし普通に出会っていたら、

本当に気の合う友人になれたかもしれない──そんな予感を抱かせる人物だった。


だがジョンの警戒心は解けない。

胸の鼓動は早鐘のように鳴り、食事を共にしたはずの記憶も、会話の内容も――全てが霧の中だ。

トムは自分に何か“魔法”をかけたのではないか、と疑わずにいられない。


「どうか身構えないでください。食べたりはしませんから」


トムの言葉に思わずグルル、と低い唸り声を上げるジョン。

しかしトムはまるで気に留めない。


「まずは状況をお話しします。ただし、常識からすれば突飛すぎる話です。ですが事実ですので、どうか最後までお聞きください」


ジョンは、この時点で既に十分に非現実的な状況に身を置いていた。

どんな話であろうと、もう驚きはしない――そう自分に言い聞かせた。


「私は地球の方から見れば、宇宙人――あるいは地底人に近い存在です。

一般には、この世界に宇宙は一つだけと考えられているでしょう。

しかし実際には、宇宙は複数存在するのです。私の知る限り、二つあります」


トムは言葉を切り、深い息をついた。

わずかな沈黙が流れる。


「ひとつは、この地球がある宇宙。

便宜上『地球世界』と呼びます。

そしてもうひとつ――私たちの故郷、『ユール』が広がる宇宙です」


またもや短い沈黙が流れた。

不思議なことに、「ユール」という言葉は聞いたことがあるような気がした。


「そしてこの二つの世界は、地下深くに伸びるトンネルで繋がっているのです」


不意に、トムは問いかけた。


「ところで、『ユール』という言葉に覚えはありますか?」


まるで心を読まれたかのような切迫感。ジョンは小さく頷いた。


「では、『ザル』という言葉は――?」


その響きにも確かな既視感があった。

食事のとき、トムが話していたのだろうか。

ジョンが再び肯くと、トムの顔に微かな影が差した。


「そうですか。最後に言っておきます。私はトム・トルンだ。」


次の瞬間、ジョンの意識は深い闇に閉ざされた。


──こうして、彼はあの「古書」となったのである。

お読みいただきありがとうございます!


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