婚約者
寝室に戻ると、プリシラはベッドの上に座り込んでしまった。トリスタンを愛してるなんて、信じたくなかったのだ。
「プリシラ、どうしたの?顔が真っ白だ、どこか悪いのかい?」
トリスタンが心配して聞いてくる。
プリシラは恐る恐る振り向いて、夫の顔を見た。戸惑ったような顔だ。何も特別なところなんてない。トリスタンを見ても、ピーターに感じていたような愛情なんて感じないのだ。プリシラはそう思うと、なんだか気が楽になった。
「なんでもないわ。外は冷えたから、それだけ」
そう言って、気丈に微笑む。
「ならよかった。もうベッドに入って寝よう。明日は早いだろうから」
トリスタンは少しだけ寂しそうに見えた。それでも、かける言葉が見つからず、二人でガウンを脱ぐだけ。夫婦そろって、フランネルの薄い夜着だ。
「あの騎士についていくのかい?」
蝋燭の明かりを吹き消し、やわらかで暖かい毛布の中にもぐりこんだ後に、トリスタンが言った。
「ピーターに?きっと、ついていくんだと思うわ。私は王女なんだし、王女には果たすべき役目があるもの」
「行くなよ」
あたたかい闇の中に、声が浮き上がる。
「どうして?」
「どうしてもだ。君を愛してる。守りたいんだ」
ここに留まるなんて、まるで不可能なことだ。トリスタンもプリシラもわかっている。それでも彼はそう言わずにいられなかったのだ。
「いいえ、トリスタン。私は行かないといけない。この結婚は間違っているのよ。あなたは素敵な人だった。でも行かないと」
「そんな残酷なことを言わないでくれ。プリシラ、君のためならなんだってするんだ」
プリシラは胸が引き裂かれそうになった。今になって、彼のもとから離れることなどできない、と思う。
ピーターは真夜中にプリシラを連れ去った。トリスタンがちょうど少し前にしたように。公爵はプリシラを手放そうとしなかったのだ。
だが、プリシラは怖がっていなかったし、こうしてピーターと同じ道を歩むことが正しいことなのだと思いさえした。それほどにピーターを信じていたのだ。
暗い森をぬけて、水面に太陽の光がきらきらと輝く湖の前に……
プリシラは微笑んで、風が頬をなでてゆく感覚を味わっていた。太陽があったかい。心地よくて、眠たくて、ものすごく幸福だ。
後ろでは、ピーターが馬を木につないで、荷物を降ろしていた。ここで朝食を取るらしい。草地に薄い布をしいている。その上には赤いりんごと水の入った皮袋、歯が折れそうなくらいカチコチの黒パン…
プリシラは布の上に座ると、ピーターがりんごを食べるのを見ていた。引き寄せられたかのように。
「それで私たち、どこに向かうのかしら」
小さなりんごを手の中で、弄びながら聞く。
「まず、私の故郷に。そこには武器と兵士がありますから」
突然、ピーターの足のすぐ近くに矢が飛んできた。矢は地面にささってブルブルと震える。
ピーターはサッと立ち上がって、プリシラを庇った。
向こうから、騎士とその従者の一行がやってくるのが見える。大げさな重装に、銀の盾を持った男。見覚えのある人物だった。パトリック・ドトーだ。
「王女を迎えに来た。生前の国王陛下のご意志にそうことだ」
ドトーが声高々に宣言する。
「失礼ながら、あなたには姫君に関して権利も責任もない。陛下はドトー殿について、何も公式の声明をあげていないでしょう」
ピーターが反論した。
プリシラは、けれど、そんなことドトーには通じないだろう、と思う。だって、ピーターとドトーの一行が戦ったら、どっちの形勢が有利か、明らかじゃないか……
だが、プリシラは争いを望んでいなかった。少なくとも今は……。