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王が死んだ

 プリシラはしばらく目を閉じたまま、夢の続きを考えていた。


 夜の静寂の中、ピーター・ドールがプリシラを抱えて寝室の敷居をまたごうとしている。プリシラは花嫁で、夏の海のように濃い青のドレスをきて、頭から垂らした、長い長いヴェールはどこまでも続いていた。寝室から婚礼の行われた広間まで続いているのかもしれない。


 ピーター、なんてかっこいいんだろう!彼をどうしようもないくらい愛していた。ピーターだって王女を愛してるのだ。優しい手つき、燃えるように激しい瞳。彼の腕の中、触れそうで触れない唇。


 プリシラは世界で一番幸せな娘だった。憧れの人と結婚できるのだから。


 不意にピーターが敵意をむき出しにして、プリシラを抱えたまま、窓へと突進していった。一瞬のことで声も出ない。王女は婚礼の床から、吹雪のふる薔薇色の城門の下へと投げ出された。ひどいわ、と言う。愛していたのに、信じていたのに……。ピーターは冷酷な顔をして、落下し続ける花嫁を見下ろしていた。



 ひどい頭痛がして、ようやく目を開けると、ベッド脇のいすに男が座っていた。足を伸ばし、体の前で手指を組んで物思いにふけっている。金髪に、茶色の冷ややかな瞳。どことなく見覚えのある顔だ。


 プリシラは天井の高い、広い部屋に寝かされていた。天井にはまるまるとした子どもの姿をした天使の絵が。ベッドの反対側の壁には立派な装丁の本が並べてあった。

 緑のビロードの重たそうなカーテンが大きな窓に引かれている。もう夜なのだろうか。部屋の中はほの暗い。


「大丈夫です。ここがどこかわからないだろうけれど、もう安全だから」

 男はプリシラに気づくと、どこか機械的な口調で言った。

「あなたは私の領地で倒れていたんですよ。ダーチャを知ってらっしゃるでしょう?きっと教養のある方だろうから」


 混乱してしまって、なぜダーチャにやってきたのか思い出せない。舞踏会があったのは覚えている。父と話したこと、事実上の婚約者パトリック・ドトーと踊ったこと……。でもそれ以上は思い出せないのだ。


 カールセン公爵は—それが男の身分だった—状況を説明して、もしプリシラが父の領地を覚えているのなら、馬車を用意して家に送っていくという申し出さえしてくれた。プリシラはぼんやりとしたままだったが、とりあえず礼だけは言う。公爵という人はひどく親切だ。これが騎士道の成果なのだろうか。


 公爵はプリシラを寝室に残して出ていった。帰宅の旅は明日始まるらしい。


 だしぬけに月明かりが差し込んできて、ベッドをまともに照らした。おかしい。カーテンは閉まっていたのに。


 慌てて身を起こすとトリスタンが窓辺で月光に照らされて立っている。急に何もかもが思い出されて、ハッと息を呑んだ。この人の体の重みを覚えている。蜂蜜色の夢見るような瞳もその体の匂いも。

 彼は地下の暗い部屋でプリシラの服を脱がそうとした。抵抗もできなかった。恐ろしくて身体中の力が抜けてしまったのだ。あまりの恐ろしさに泣き出すと、彼が耳元で何かを言って、どこかに行ってしまったっけ。


 トリスタンは今、遠くからプリシラを見ていた。まるで見えない壁でもあるかのように、その場に立って動こうとしない。プリシラに見惚れていたのだ。同時にまた彼女を怖がらせ、傷つけるのではないかと恐れていた。


 亡霊を見ているのだろうか。トリスタンは静かに見守っているだけで、動こうとしない。プリシラは恐怖と夢の名残りで感覚が麻痺していた。熱に浮かされているかのように。


 彼が亡霊かそうじゃないかを確かめないといけない。


 プリシラは音も立たずにベッドを出ると、亡霊の方へ近づいて行った。彼は夢見るような瞳でプリシラを見つめていて、動こうとしない。プリシラは思わず彼の金髪に指をからめて微笑んだ。あおざめた、滑らかな頬にふれ、どうしようもないほどの強烈な幸福を感じる。生温かい唇にそっとキスをした。彼は亡霊だったのだ!ハンサムなお人形さん。


「プリシラ」

 亡霊は半ば呆然としてしゃべった。


 プリシラが後退りする。急に体が冷え込んだ。


 プリシラは裸足で、薄いネグリジェを一枚しか着ていなかったのだ。


「プリシラ、君を怖がらせたくない……」

 亡霊が慌てて言う。

 

 プリシラは小さく悲鳴をあげた。亡霊はもはや亡霊ではない。昨夜、情欲にかられてプリシラを犯そうとした男だ。カールセン公爵に助けを求めて叫んだ。トリスタンが謝って、叫ばないように懇願しても効き目はない。


「プリシラ、お願いだ、話を聞いてほしい。こんな風に来るべきじゃなかったのはわかっている。でも、今しかないんだ……」


 それは哀願のようにもきこえた。


「トリスタン!」

 公爵が怒号をあげて部屋に乗り込んできた。


 トリスタンは公爵が肩をつかもうとするのを払いのける。カールセン公爵は、怒鳴るのをやめて、興味深そうにネグリジェ姿で恐怖に震える娘と弟を観察した。


「プリシラ王女だな。宮廷から王女を盗み出してくるとは」


「兄さん、なんのことだか……」


 プリシラはすっかり取り乱して二人を振り返った。兄弟だったとは!公爵は味方のふりをしていたのだ。


「トリスタン、お前は王女と結婚するんだ」

 公爵が言った。


「そんな……。父のところに帰してくれるって約束したのに」

 プリシラが泣きながら言う。


「あなたの父上は今朝大公に殺されたよ。宮廷だって、もう安全な場所ではない」

 公爵は淡々と言った。


「嘘よ!」

 プリシラが絶望して叫ぶ。


 父が死んだなんて嘘だ。だって数日前まではあんなに元気で、あんなに幸せだったんだから。


「兄さん、あんまりだ。そんな言い方ってない」

 トリスタンが憤慨して言う。


 だが、プリシラにはどうでもよかった。父が本当に殺されたのなら……。


 大切なのは、もう安全な場所がないということだ。こういうふうに無理やり結婚をすすめられたとしても、守ってくれる人はいない。


 自分を暴行しようとしてきた男と結婚するなんてあんまりだ。プリシラは悲しみと恐怖にいつまでも体を震わせていた。

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