公爵と弟と愛人と
それにしても、公爵の領地ダーチャは美しく、素晴らしい場所だった。まるで絵画のなかのように。春の青い草の匂いがする。
生き返ったような気がした。ここ数日、ずっと館の中にこもって領地の経営を見直していたのだ。
公爵が立っているのは背の低い草とすみれの花ばかりの草原だった。両側には森と村の門。後方には領主の館が、前にはすみれの咲く野がどこまでも続いている。
屋敷の厩舎に引き返した。馬丁が何か話しかけながら、馬のたてがみを撫でている。公爵がくると、振り向いて姿勢を正した。
「あいつが帰ってきたのか?」
公爵がつぶやく。
馬丁は質問に答えなかった。そもそも公爵は馬丁に質問したわけではないのだ。地面に視線を向け、何か面白いことでも見つけたかのように笑う。
「喜べ。トリスタンが宮廷を抜け出して帰ってきたぞ。王は怒るかな。寛容を絵にしたような男だけれども」
皮肉な口調だ。
馬丁はどっちともつかない返事をし、公爵の反応をうかがって見ていた。
公爵は今や晴れやかな表情を浮かべている。
「乗馬はしない」
ニコラス・カールセンはそう言うと、馬丁の肩をたたいて厩舎を出て行った。
円形の中庭を順路にそって歩いてゆくと、どんどん円の中心へと近づいていく。逃れられない宿命のようだ。行き着く先は決まっている。ぐるぐると円を描きながら……
中心までくると、竪琴をもった裸婦の彫像があった。右の乳首の部分を押すと、下に穴があいて、階段が出てくる。
ニコラスは慣れた動作で階段を降りていった。単なる暗い地下室である。大きな寝台とワインの樽が三つ。
寝台に少女が正体もなく眠っていた。白い下着のようなかっこうだ。肩はむき出しになって、ドレスは胸元から破られている。顔には切り傷、それから涙のあと。娘は陵辱されたのだろうか?
隣にはイーサンがすっかり狼狽して立っていた。
「女を連れ込んだのか?」
公爵が声を荒げる。
「違う。俺が女を愛さないのは知っているだろう?トリスタンが連れ込んだ」
イーサンが慌てて言った。
「なぜトリスタンがここを知っているのか?ここはお前と一緒にいるための部屋だ」
「俺は教えてない。あいつが嗅ぎつけたんだ。あの娘をダーチャに連れてきたのを、あなたに知られたくなかったらしい」
公爵はどうでもいいことなのに、と言ってイーサンに熱情的にキスした……
この部屋は公爵の「秘密」を隠すためのものだったのだ。公爵は女ではなく、男を愛した。世間の目を恐れて、男への欲望をさらけ出すこともできないが、元来備わった欲求を抑えることもできない。
「女を外に連れ出して、愛し合おう。トリスタンも案外うぶだな。女を誘惑して抱いたところで、俺が気にすると思ったのか」
公爵がそう言って娘を運び出そうとする。
不意に公爵の手が止まった。不審そうに眉をひそめる。
娘は美人だった。男を愛する公爵さえ心動かすほどの美しさだ。わずかに開いた色っぽい唇、白い透き通るような肌。それに細く美しい指。高価な絹の下着だ。
農民でも、使用人でもない。金持ちの商人の娘かもしれない。あるいは貴族の娘か。
「娘に何をしたんだ?」
「何もしていない」
イーサンが素早く答える。
「何もしていない?」
公爵が厳しい声で追究した。
「娘はまだ処女だ。トリスタンが宮廷でひとめぼれして、さらってきた。トリスタンのやつ、娘が泣くから急に可哀想になって、モノにする気がなくなったんだ。腰抜けだな」
イーサンが淡々と言う。
途端に公爵はイーサンを壁に押しつけて、首をしめる動作をしてみせた。イーサンが息を詰まらせて咳き込む。
「なぜ弟を止めなかった?お前が娘を誘拐するようふっかけたのか?」
だが、すべては後の祭りだ。
トリスタンは眠り続けるプリシラと怒れる兄の前で、しょんぼりとしていた。プリシラは客室の広いベッドで眠り、トリスタンはその横のいすに黙って座って、頬杖をついている。
「彼女を愛してるんだ」
トリスタンは切なそうに訴えた。目には涙が光っている。
こうして見ると、トリスタンも物語の中のロマンチックな恋人のように見えた。ピンク色の頬に、夢見るような瞳、金髪の美しい巻き毛……。きっと本気でプリシラを愛してるのだ。彼女を傷つけるようなことなんて、できないに違いない。ましてや、あんな野蛮な誘拐劇なんて……
「彼女に触れたのか?取り返しのつかないことをしたのか?結婚しなければ、すまないような……」
ニコラスは弟を詰問した。
「彼女の体を征服するつもりだったんだ。でも、できなかった。か弱い、傷つきやすい人なんだ、強い男の庇護が必要な……。兄さんはもしかして、結婚を許してくれるの?」
トリスタンが希望をこめて兄を見る。それはエサや主人の抱擁をせがむ子犬なような純粋な目つきだった。
「だめだ。彼女を父親のもとに返してこい」
ニコラスはあくまでも厳しい口調で言った。
「だけどニコラス、そんなこと僕にはできない。彼女から離れたら死んじゃうよ!愛してるんだ」
トリスタンがうなだれて言う。
「女なら他にもいる」
「だめだよ。彼女じゃないと。他の女の人なんか好きになれっこない」