決別
夏がきた。雨と曇天つづきのじっとりとした夏。要塞の中、草は濡れそぼち、道はぬかるんでまっすぐ歩けなくなる。
この要塞は耐え難い。ピーター・ドールはもう二ヶ月近く滞在しているが、すっかりここに嫌気が差していた。守戦でこもるのに強い要塞であることは確かなのだが……
悶々とした気分で丘の上を歩いていると、向こう側から均整のとれた体つきの赤毛の青年がやってくるのが見えた。腰に剣を下げて、騎士らしく大股で、しかし颯爽と歩いている。バートンだ。
「ドール指揮官」
バートンが雨で濡らした額で挨拶する。
ピーターは返事がわりにうなずいてみせた。
「ここはまったく雨が降り止まない」
「これでは武器まで錆びてしまいそうですよ」
バートンが天上にちらと視線をやって言う。
ピーターは苦笑した。
「武器のためにも早くここから引き上げてしまいたいが……」
二人は十字の島で進軍を始めてから、わりと親しい仲になっていた。バートンはピーターの相談役となっていたのだ。
この、当たり障りのない青年貴族は女王と面と向かって話したことはないのに、内政の多くのことを知っていた。たとえば王女がパトリック・ドトーと結婚する気もないくせに後一ヶ月はここに留まるつもりだということも、その内のひとつである。
プリシラは偽の婚約者に対して、政治的な駆け引きを止めてしまっていた。かといって軽率な振る舞いをするわけでもなく、かえって落ち着き払っている。何か心に決めたことがあるのだろう。
バートンは彼女がパトリック・ドトーに妊娠したと嘘をついたのだと、ピーターに涙ながらに謝ってきたことも知っていた。変な嘘をつくものだ。
プリシラがカーニヴァルの街の生き残った赤ん坊を抱き上げると、マーガレットは怪訝そうに顔をしかめた。居間にはドトー卿とピーターとがそれぞれ別の長椅子に腰掛けている。マーガレットは暖炉台の前に立って、腰の曲線を際立たせるかのように、半ば身をよじって皆の方を見ていた。相変わらずの黒いドレス、眉間の皺。
「本当に、文字通り奇跡の赤子ですわね」
プリシラはいかにも喜ばしそうに言った。
「この子は誰が育てるんですの?」
「さあ、誰か乳母でも見つけないとですね」
マーガレットが低い、気乗りしない様子で言う。
苛立ちを隠す気もないらしい。
「赤ん坊と言えば、マーガレットと話し合っていたんだが……」
ドトー卿は姉の方を見て言葉を切った。
「ええ、パトリックと私で話し合ったんです。その、花嫁の赤ん坊をどうするかっていうことですわ」
マーガレットが澄ました様子で言う。けれどその誇張された優雅さは、まるで婚外妊娠がもっとも汚らわしく、不道徳なことなのだと指摘しているかのようであった。それでもこの私は、堕落したプリシラとは違い、そういう過ちにかすりもしなかったのだ、と。
プリシラは「あら」とつぶやき、笑顔をひっこめた。それでも嫌そうな顔はせずに、赤ん坊のまるく白いほっぺたを覗き込む。赤ん坊が微笑みかけた。
「ここでは出産できませんわ」
マーガレットが声を張り上げて言う。
「ここでは人の噂がありますもの。パトリックが醜聞に巻き込まれては困ります」
パトリックは呆気に取られている二人を前に話を継いだ。プリシラは結婚後、どこか人気のない、目立たない場所に行かないといけないらしい。出産後にやっとここに帰ってこれるというのだ。生まれた赤ん坊は「適当に処理する」という。
プリシラはパトリックのあまりに人間味の欠けた言い方に、存在もしない赤子を流産したかのような気分になった。が、何も言わずに黙っている。驚いて何も言えなかったのだ。
「プリシラ様は妊娠していませんよ」
出し抜けにピーターが言う。
「単なる時間稼ぎのために嘘です」
今度はきょうだいが間の抜けた顔をして、言葉を失った。
堪忍袋の緒が切れたのだ。きょうだいの態度はあまりに敬意に欠けていた。だいたい二人は一度もプリシラを女王と呼んだことがないのだ。プリシラも冷たい仕打ちに反撃さえせずに耐えている。
「それでこの呪われた要塞とおさらばできるわけだ。雨が続いて体が腐りそうだったけど……」
雨の中、馬を並べて走っているとバートンは愉快そうに言った。
「女王はお怒りだよ。赤ん坊を守るためにパトリック・ドトーのところにいたのにって」
護衛に囲まれて乗馬しているプリシラを振り返って言う。美しい乗馬姿だ。要塞にいた時とは打って変わって、生き生きとしている。
「赤ん坊ってまさか……?」
「いや、もちろん妊娠はしていない。カーニヴァルの奇跡の赤ん坊のことさ。罪のない子どもたちを守りたかっただけだ……」
兵士たちの列は長く、どこまでも続いた。ダーチャまで行こう。平和と同盟を求めて……