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30.新たなスタート

 

 クラスの合唱曲が決定し、さらには、指揮者と伴奏者が決定した、その日の放課後。音楽の藤田先生と一緒に理事長室の扉をノックする。


「失礼します。」

 僕は頭を下げる。

「失礼します。」

 藤田先生も一緒に頭を下げる。


「やあ。待っていたよ。」

 理事長の慎一は僕たちを笑顔で出迎えた。

 その部屋には慎一の他にすでに先客が二人いた。二人は男女で、それを見た瞬間、僕の目が見開いた。

 男性の方は僕の良く知っている人物。先日のバレエコンクールの審査員をしていて、僕の過去について知っていた人物。茂木だった。

 女性の方は茂木よりも大分若く、三十代くらいだろうか。かなりのお嬢様な雰囲気を醸し出している。この女性について、僕は面識がなかったが、驚いていたのは隣に居た藤田先生だった。


「お、お、お姉ちゃん。それに、茂木先生まで。」

 藤田先生の驚きの声がした。その女性は藤田先生の驚いた声とともに、笑っていた。笑顔だった。

「やあ、橋本君。こんにちは。」

 茂木が挨拶をする。

「こんにちは。」

 僕は頭を下げる。だが、過去を暴いた人物。茂木は優しそうな口調で話しかけてくれるのだが、少し距離が開いてしまう。僕はこの茂木という人物が少し信用できなかった。


「大丈夫。君が怒られることはないよ。そこに座って。」

 慎一が理事長室のソファーに促した。

 僕と藤田先生は理事長室のソファーに座る。

 いわゆる応接セットに備え付けられているものだ。


「輝君。本当にすまなかった。井野さんのバレエのコンクールの件、私からも謝らせてほしい。」

 理事長は頭を下げる。

「いえいえ、そんな。」

 何を切り出すかと思ったら、理事長が謝ってきた。

「いや、確かに、輝君の件、つまり、この高校に入学してきた経緯は私しか知らなかったことに問題がある。葉月から話は聞いたよ。葉月からどうして黙っていたのかと問い詰められてしまった。あの後、君のことを少し調べさせてもらったよ。ピアノの成績、本当に素晴らしい成績だね。」

 理事長はそう言いながら、窓の外を見る。


「いえいえ。理事長は悪くないです。むしろ、この学園では、知らない人の方が多いと助かります。あまり自分からも話さない方がいいと思っていますし‥‥‥‥‥‥。」

 僕は理事長に言った。


「そうだな。だが、今後、ここにいらっしゃる茂木さんみたいに、君のことを知っている人物に出くわしてしまうかもしれない。音楽のコンクールとかに出るとなるとね。だけど、あまり話したくないときは誰かに相談してほしい。僕も、葉月も、そして、生徒会メンバーも君の味方だからね。」

 理事長の慎一はそう言いながら、僕の肩を持った。優しそうな表情でこちらを見る。


「さて、そういう意味で言うと、今後のことなのだが。まずはそこにいる藤田先生に、君のことを知ってもらわないといけないと思うのだけれど、大丈夫かな?」

 理事長は僕に向かって、そういった。

「はい。大丈夫です。」

 僕は理事長に向かって頷く。理事長なら信頼できる。


「そうか、それなら、藤田先生、これから話すことは、他言無用でお願いします。この学園で、私の知る限り、このことを知っているのは私と、生徒会メンバーだけなので。」

 藤田先生は頷く。


「では、結論から言うと、彼は、数年前に新聞に出ていた、ピアノの橋本輝君、本人だよ。おそらく、そのコンクールの成績を新聞か何かで見たとき、住んでいる地域も違うし、ひょっとすると学年も違うと思ったのではないでしょうか?」

 理事長は藤田先生に向かって話す。

「えっ?そうなのですか?」

 藤田先生はそう言って、驚きの表情を見せる。


「ああ、そうだよ。」

 理事長の慎一はそう切り出し、藤田先生に僕のことを話す。ここの学園に来た経緯、前の学校のこと、コンクールのこと。


「そんな。そんなことがあったなんて。この件に関しては、他の人には口が裂けても言えないですね。多くの人が同時に真実を知ればかなり橋本君も傷が開いてしまいます。」

 藤田先生は全てを知り、僕の方を優しく見る。

 やはり、この話は、僕がしなくても緊張してしまう。


「ああ。先日の生徒会長、井野さんのバレエコンクールで、私はうっかり、彼に質問してしまって、一緒に居合わせた生徒会の諸君も知ることになってしまったのだ。本当に驚いたよ。」

 茂木は藤田先生に向かって言う。


「そこでだ、輝君。どうだろう、もう一度、ピアノを習って、コンクールに出てみないかと、こちらの茂木さんからお話があったんだ。」

 理事長は僕に向かって笑顔で話しかける。

 僕は理事長の方を見る。そして、茂木の方を見る。


 二人ともゆっくりと頷いた。


「君の心の傷は深いだろう。だが、どうだろう。私もサポートするから、もう一度、一緒にコンクールに出てみないか。勿論、先日の一件もある。レッスン代はしばらく私が負担して無料にする。」

 茂木という男に関しては信用できない。やはりあの一件以来そうだ。

 だが、何だろう。優しそうな言葉だったからなのだろうか。

 わからない。わからないが、前に進みたいと、僕の心が言って居る。だが、少し不安という部分も僕の心は言っている。


「輝君。ダメでもいいさ。少しでもやってみたいという気持ちがあるなら。どうだろう?そして、コンクールに出て、関東大会や全国に進んで、君を退学にした人達を一緒に見返してみないか?」

 理事長はそう言って、僕の肩に手を乗せた。


 少し深呼吸する僕。自分の胸に手を当ててみる。

 答えは自ずと出てきた。それは加奈子のバレエのコンクールでわかっていた。


「コンクールに出られるかどうかわかりませんが、もう一回、ピアノは弾いてみたいです。」

 僕は自然と言葉が出た。


「良かった。安心したよ。先日の一件もそうだし、今までの退学になった経緯も考えると、もうだめかと思った。だが、音楽は本当に素晴らしいな、少しでも前に進む気持ちがあって、本当に良かった。そういう意味で、君に二人の先生を紹介しようと思ってね。」

 茂木はそう言って、笑った。


「一人は、そこにいる藤田先生だ。この人も結構ピアノの面で信頼できる。そして、もう一人が僕の隣にいる。」

 茂木はそう言って、藤田先生の姉らしき人物を紹介した。


「初めまして、藤田美里の姉の、岩島晶子です。結婚して、お互い苗字は違うけど、よろしくお願いします。」

 そういって、その人は自己紹介した。

「この姉妹は本当に、音楽の知識がある二人だ。どうだろう。藤田先生となら、学校にいるときにいつでもレッスンできるし、岩島先生の方も、原田君のバレエスタジオの近くで教室を開いているよ。ああ、原田君も今後も君に来てほしいと。」

 茂木は優しく提案してくる。


「裕子ともすごく仲が良くてね。君のことを聞いたら、会いたくなって、今日、茂木先生と一緒に来ちゃいました。」

 岩島先生はそう言って、笑っている。なるほど、原田先生の友人というところも信頼できる。


「はい。どこまで行けるかはわかりませんが、よろしくお願いします。」

 僕は頭を下げる。


「そうか、良かった。それなら、レッスンの日程とかは別途相談してくれ、もちろん、生徒会の活動とかで忙しいみたいだから、毎週、同じ曜日や時間帯じゃなくても構わない。次のレッスンをいつにしようか、毎回練習終わりにコミュニケーションを取ってくれ。」

 茂木は僕に向かって言った。


「藤田先生、部活とか忙しいと思いますが、可能な限りで大丈夫ですので、彼に相談に乗る程度でも構いませんので、それでよろしいでしょうか?」

 理事長は藤田先生にお願いしてくる。


「も、もちろんです。よろしくね。橋本君。私は、いろいろ、音楽の部活の指導もあるから、メインはお姉ちゃんで良い?」

 僕は頷いた。

「これからよろしくね。」

 藤田先生の姉、岩島先生も僕のリアクションに対して頷いてくれる。


「良かった。本当に、それじゃあ、とりあえずは、目標は秋、九月のコンクールということで。間に合わなければ別にそれ以降、冬に行われるものとかでも全然いいので。あくまでも、目安だから。」

 それを見た茂木は、秋のコンクールを目標でという提案をしてきた。

 秋までに間に合うか不安になっていたが。


「コンクールで弾く曲は、既に弾けるものから選べばいい。井野さんの時に弾いていたものとあと、何かあるかな?それに、新しいレパートリーを増やす作業も、今後の練習のモチベーションも、君の状態を見た感じ、原田君のバレエ教室や、他の人の助けがまだまだ必要そうだからね。」

 茂木が優しそうな口調でさらに続ける。それだったら、かなり気が楽だった。

 そして、その後の言葉も茂木のいう通りだった。

 新しいレパートリーを増やす作業も、今後の練習のモチベーションも誰かの力が必要だった。


「それに関しては私も同感かな。心の問題もあるし、時期的に忙しいこともあるし、難曲を仕上げるよりも、すでに弾ける曲から選びましょうか。橋本君もあちこちで伴奏を引き受けて忙しいわけだし。現に、また裕子から連絡があるかもしれないけれど、バレエ教室から依頼があるみたいだから。」

 岩島先生の言葉にも、僕は頷く。


「えっと、裕子から話を聞くと、『レ・シルフィード』プラス、『Op42の大円舞曲』と『英雄ポロネーズ』に『子犬のワルツ』だよね。他にもいろいろ弾けそうだけど、そこから選びましょう。」

 本当に、岩島先生は加奈子のバレエの原田先生と仲がいいのだろう。

 事前に原田先生からヒアリングしていたということで、先日のバレエコンクールとコンクールの壮行会で披露したものも提案してきたのだった。


 ちなみに、九月のコンクールでは。

 課題曲は、ショパンの『マズルカ』もしくは『ワルツ』の中から二曲。各々各自で選んだ自由曲一曲の三曲を披露する。

 ここまでは普通かもしれないが、追加のルールとして、『県大会を突破し、関東大会に出場する場合は、自由曲は県大会の曲とは異なる曲であること。』である。その上位の全国大会は県大会で披露したもの、関東大家で披露したもののどちらかを演奏しても、新しく別の曲を用意するということをしても全く問題ない、というルールだった。

 これに関しては、コンクールごとに違うのだが、秋、九月のコンクールを目標とするとそんな感じだった。


 そういう意味では、すんなり曲が決まった。

 そうして課題曲として、選んだのは、『マズルカニ長調、Op33-2』、『華麗なる大円舞曲、Op18』であった。自由曲は、加奈子の自由曲でもあった、『Op42、大円舞曲』そして、『英雄ポロネーズ』が選ばれた。


「良かった。自由曲が決まったことは裕子にも連絡しておくね。あとで裕子からも連絡が行くと思うけど、練習する機会も、私もそうだけど、バレエ教室の方で時間をくれるみたいだから。詳細は裕子から聞いてね。」

 岩島先生がニコニコ笑う。


 そうなってくると、あとは僕の心構え次第となる。


「緊張してきたかな。後は君次第という顔をしているね。」

 それを見透かされたのか、理事長に指摘される僕。僕はゆっくりと頷く。


「まあ、間に合わなかったら無理に出る必要はない。最大の課題は、技術よりも、メンタルだと思うから。うん。この間話を聞いた限りは、かなりそのメンタルがやられているようだから。焦らなくていい。辛いことを思い出させてしまった、罪滅ぼしということで、私たちは、君の手助けをしていると思っている。少なくとも、君にはそう思ってくれればいい。」

 茂木は深く頷く。


「とにかく、今日は、今君の口から、もう一度頑張ってみたいということが聞けて嬉しかったよ。」

 茂木はうんうんと、さらに続けた。


「はい。よろしくお願いします。」

 僕は、やはり、辛い記憶を呼び起こしたこの張本人である茂木をまだ信頼していないが、ここまでしてくれるのはありがたかったし、その少なくとも気持ちに応えてみたいと思った。


「今日は、本当に良かったよ。ところで、少し話を変えるのだけれど、ピアノの他にやりたいことはないかい?ピアノ以外でも、音楽でなら、君の才能はとても輝けると思うのだが。」

 茂木の提案に僕は少し考える。


 そして、今日の結花とのやり取りを思い出す。

「指揮を振ってみたいです。」

 僕はそう言うと。

「ああ、それなら歓迎だよ。私の連絡先を教えるから、いつでも見においで。勿論、そっちの二人の先生に習ってもいいからね。」

 そういって、茂木は改めて、連絡先を渡してくれた。


「応援しているよ。私も、そこにいらっしゃる理事長先生と一緒に、君をサポートしよう。勿論、この二人の音楽の先生も一緒にね。」

 茂木のまとめの言葉に、理事長室にいるメンバーは僕に向かって、しっかりした表情で頷いた。「ありがとうございます。」

 僕はお礼を言った。


「そういうことだ、話は以上だ。生徒会の活動、頑張っておいで。」

 理事長は僕に向かって、うん、と頷く。


「はい。ありがとうございました。」

 僕はそう言って、理事長室を出た。


 確かに、茂木のことはまだ信用できないが、今日の優しそうなやり取り、そして、先日の食事代を支払ってくれたりと、本当に誠意を持ってくれていることに関して、感謝の気持ちでいっぱいだった。 

 僕も頑張らないと。


 こうして新たなスタートが始まろうとしていた。

 もう一度、再起を。この場所で始めよう。


 そう思いながら、僕は学園の廊下を進んでいった。








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