16.プリンセスとの出会い
僕は自転車をこいで、バレエ教室に向かう。
少し遅くなってしまったが、自転車を止めて、教室に着くと、講師の原田先生が待っていてくれた。
「よっ。少年。お疲れ。加奈子ちゃんから話は聞いてるよ。というわけでいつものレッスン室で待って、自主練でもしていてくれ。今日は私からのスペシャルサプライズの日だ。」
そう言いながら、原田先生はレッスン室に僕を通した。
レッスン室の電気をつける行為をして、部屋に招き入れる動作を見ると、そこには加奈子は居ないようだ。
「じゃ、ピアノを弾いて、待っていてくれ。」
そういって、原田先生はレッスン室の扉を閉めた。
スー。ハ―。と、深呼吸をして、ピアノを弾く。
誰も居ないということで、指の練習曲を今日は入念に実施した。
その後は、簡単なポップスの曲を弾いていく。
こういう時は何も考えずに、適当に弾くのが好きだ。
今日も指はいつも通り動くみたいだ。
そして、一呼吸入れて、準備を整え、加奈子のコンクールの曲の練習を開始した。
しばらくすると。
トントン、とレッスン室をノックされ、原田先生が入ってくる。
そのタイミングで、演奏を止めた。
「よっ、少年。待たせたな。」
そういいながら、原田先生はニヤニヤしている。
「見せたいものがある。最高のプリンセスを、お前に見せてあげよう。」
原田は誰かを入るように促す。
次の瞬間、原田先生の言う通り、最高のプリンセスが目の前の現れたのだった。
再び、美しい人と出会った。
いや、その時とは違う、その時とは比べ物にならない、私は美しいプリンセスと出会った。
加奈子先輩はバレエの衣装を着て、僕の前に現れた。
白地のスカート生地に、青いベストのようなものが腰から胸を覆い、さらには綺麗に刺繍が入っている。
髪の毛を綺麗なアクセサリーで止めて、化粧は薄いが、普段と比べてはっきりとした顔立ちになる。
ほうっ。と僕は息を吐く。
だが、あまりにもきれいで、それ以上は何も言えなかった。
「どうした少年。何をぼーっとしている。何か加奈子ちゃんに言うことはないのか。」
原田先生は僕に向かって問いかける。
「す、すみません、あまりにも綺麗で見とれちゃいまして、何も言葉は出ませんでした。」
僕は、素直に言った。
「そうか。そう言うことなら、御咎めなしで、別にいいか。明後日はこれを着て出てもらう。お前も見とれずに、しっかり演奏してくれよ。」
原田は僕の肩に手を乗せる。
加奈子先輩は微笑んでいた。
「ありがとう。輝。ここまで、一緒に練習してくれて、本当にありがとう。」
加奈子先輩は優しそうに言った。
どこかの、お城のプリンセスなのだろうか。こういう衣装を初めて近くで見る。
「それじゃ、これで、コンクールで演奏するすべての曲を一回ずつ弾いてもらおう。決勝で披露する曲については、百パーセントの仕上がりではないかもしれないが、今日は演奏してもらう。大丈夫かな?」
原田先生はそういうと、僕をピアノに促す。
僕は原田先生の指示にうなずき、課題曲の『ワルツOp70-1』、『ワルツOp18、華麗なる大円舞曲』、『マズルカOp33-2』そして、自由曲の『ワルツOp42』を一回ずつ弾き、加奈子先輩はそれに合わせて、バレエを披露していく。
衣装を着て踊る加奈子先輩は格別だった。
本番も、これで行くのか、と思うと、すごくドキドキする。
「ヨシッ。決勝用の課題曲と自由曲に関して言えば、さらに仕上げが必要だと思うが、コンクール、特に予選は最高の形で行けそうだな。そしたら、少年。改めて、私からも礼を言わせてくれ。最高の伴奏者になってくれて、うちのプリンシパルの魅力を最高の形に引き出してくれて、ありがとう!!」
原田先生は僕に握手を求める。
「そんな、丁寧にお願いされましたので、僕は当然のことをしたまでです。」
僕は原田先生の握手に応える。
「輝。本当にありがとう。」
加奈子先輩も僕の肩を上品に叩いてくれて、握手を求めてきたので、それに応えた。
「では少年。十五分ほど休憩していてくれないか?十五分したら、また迎えに行くので。」
僕は頷き、原田先生はレッスン室を出て行く。
改めて、バレエの衣装に身を包んだ加奈子先輩を見る。
「本当に綺麗です。さっきは何も言えずにすみません。」
僕は照れながらだが素直に感想を改めて行った。
「いいの。とっても、嬉しい。輝とコンクールに出られるなんて。」
加奈子先輩は嬉しそうに、目には嬉し涙を浮かべて僕に言った。
「ピアノは久しぶりなので、自信はないですが、頑張ってみます。力の限り。」
僕は大きく頷く。
しかし、どうしよう。加奈子先輩の前ではああ言ったが、言っている傍から緊張している。本当にこういうコンクール、今回は加奈子先輩がメインにもかかわらず、緊張している。
加奈子先輩は僕の両手を取る。
「大丈夫。出来るよ!!私を信じて。」
加奈子先輩の両手は僕の両肩に乗る。
さらにその両手はそのまま背中に少し回る。
僕はドキドキした。
両手は完全に背中に回らず、僕と加奈子の間にわずかな空間ができるところで止まった。
お互いに微笑み返して、離れる。
「ありがとうございます。」
「私も、ありがとう。」
そういって、お互い深呼吸する。
少し、加奈子と距離を縮められた、そんな瞬間だった。
再び、レッスン室の扉が開く。
「ヨシッ。お前たち、お取込み中失礼だが、時間だ。私についてきてくれるか?」
どうやら休憩時間は終わりのようだ。
加奈子先輩と僕は頷く。
そして、原田先生に言われるがまま、先生のあとについていく。
正確には、原田先生と加奈子先輩について行った。
そう、加奈子先輩はこの後何をするのか知っていて、どこに向かうかもわかっていた。
案内されたのは、このバレエスタジオでいちばん大きなレッスン室だった。
レッスン室の入り口側には椅子が並べられ、すでに子供達や保護者が何人か座っている。
奥側は広いスペースがあり、まるで、それが小さなステージのようで、まさに、誰かがこれから発表しようとする雰囲気だった。
なんとなくではあるが、この後の雰囲気を察した僕。
どことなく、胸の鼓動が速くなる。
「じゃあ。少年。加奈子ちゃんと一緒にここに座って、申し訳ないが、また少し待っていてくれ。」
原田先生はそう言って、僕と加奈子先輩を、小さなステージの一番前の列で、しかもその列の、いちばん奥から二番目と三番目の椅子に座るように促した。
そこから待つこと、さらに十五分くらいだろうか。その十五分の間に、このレッスン室はこのバレエスタジオに通う子供とその保護者がさらに集まった。
といっても、椅子の数は三分の一ほど空席があるが、それでも人数が多いことに変わりはない。
やがて、原田先生がやってきて、小さなステージの場所の中央に立った。
「皆様、日ごろからこのバレエスタジオを支援していただきありがとうございます。ただいまより、バレエスタジオの発表会と壮行会を開催させていただきます。発表者は、明日からのゴールデンウィークに行われます、雲雀川市のバレエコンクールに出演される皆さまです。どうぞ、日ごろの練習の成果を十分に発揮しますので、盛大な拍手で迎えてあげてください。そして、送り出してあげてください。よろしくお願いいたします。」
原田先生の挨拶で、レッスン室が拍手で盛り上がる。
やはり大勢の生徒や保護者の前なのだろう。いつもの言葉ではなく、丁寧な口調で、挨拶をしていた。
やはり、僕の予想した通りになった。
「発表会ですか。」
僕は隣に座っている加奈子先輩に言う。
「そうなの。驚かせて、ごめんね。このバレエスタジオは発表会やコンクールの前日に、お父さんやお母さん、そして、他の生徒さんに見せるための発表会を開いているの。目的は色々あるけれど、緊張を少しでもほぐすためかな。」
加奈子先輩は笑いながら応える。
「黙っていてすまなかったな、少年。どうだろう、コンクール前最後の練習だと思って、加奈子ちゃんと一緒にやってもらえないか。そして、君も他の生徒のバレエの演技を楽しんで見て行ってくれ。ここは、さっきも加奈子ちゃんが言ったように、みんなの緊張をほぐす、つまり君の緊張もほぐす、そういう場所だ。」
原田先生は、ウィンクして、笑いながら言った。そして、僕の隣、つまり、最前列の一番奥の端の席に座った。
少し緊張している僕。なんだろうか。まだ大勢の前でピアノを弾きたくない気持ちがある。
だが、何だろうか。
<君も他の生徒のバレエの演技を楽しんで見て行ってくれ。>
原田先生の言葉に、少し胸の鼓動が落ち着く。
楽しんで、良いんだよね。少なくとも加奈子先輩の演技の前までは。
「あ、あの。本当に、他の生徒さんのバレエを、楽しんで良いんですか?音楽、好きなので。」
「ああ、もちろんだ。」
「もちろんだよ。輝。今日この日を、いちばん楽しむ権利は輝にあるよ。」
原田先生と加奈子先輩はニコニコ笑っている。
「わからないところがあれば教えてやるぞ。隣に座っているしな。」
「あ、あの、私もいるから。」
両隣に座っている、原田先生と加奈子先輩に頷かれる僕。
少し、緊張が解けてきた。
「はい。ありがとうございます。」
僕は、二人にお礼を言って、楽しんで見る、という頭のチャンネルに切り替えたのだった。
そうして、原田の司会進行のもと、この大型連休のコンクールに出場するバレエスタジオの生徒たちのお披露目が始まった。




