11.バレエ教室
「君?加奈子ちゃんを虜にしたと言う、天才ピアニストは。」
バレエ教室の先生はそう言って、教室のエントランスの前で、僕を出迎えてくれた。
生徒会メンバーとお出かけした、翌日の日曜日。
加奈子先輩に連れられて、駅の近くにある、加奈子の通うバレエ教室に行ったのだった。
『SUBARU‘s バレエアカデミー』と書かれ、いくつかの小さな星を背景に、男女ペアのバレエダンサーが描かれる看板が目印の雑居ビル。
どうやら、【SUBARU‘s バレエアカデミー】というのが、このバレエ教室の名前らしい。
そして、この目立つ看板から想像するに、この雑居ビルの大半のフロアが、このバレエ教室らしい。
「はい。加奈子先輩の学校の後輩の、橋本輝と申します。」
先生の出迎えに、僕は頭を下げる。
「よろしく!!このバレエ教室の責任者で、加奈子ちゃんのバレエの先生をしている【原田】です!!」
原田先生が握手を求めてくる。
年齢も若く、パワフルで活動的な感じの女性だ。その立ち振る舞いに圧倒されてしまう。
原田先生は、加奈子と同じで、細身の体を存分に生かすようなファッションをしている。
そして、視線が行くのは、首にかけているネックレス。まるで、毎日同じネックレスを身に着けている、そんな感じの、少し古そうなネックレスだった。
「そんなに緊張しなくていいさ。昨日加奈子ちゃんから、突然、興奮冷めやらぬ声で連絡があって、話はよ~く聞いているよ。」
原田先生は大きく頷く。まるで、何か興奮冷めやらぬ感じで、ニコニコと笑っている。
そして、原田先生は、加奈子先輩を見る。
「えっ。えっと、改めてよろしく。輝。」
加奈子先輩は顔を赤くする。
「えっと、よろしくお願いします。」
僕は緊張しながらも、加奈子先輩と原田先生に頭を下げる。
原田先生は、加奈子先輩と僕を見て、うんうんと、大きく頷いたのだった。
早速、レッスン室に案内される。
バレエ教室はかなり広く、レッスン室はいくつかある。
やはり、どの部屋も、バレエを踊るという目的で作られているため、広々としている。
そう、先ほどの僕の推測は正しく、このバレエ教室は、この雑居ビルの一階部分のワンフロアだけでなく、二階、三階も、バレエ教室のレッスン室があるようだった。
当然、ピアノがあるレッスン室に原田先生に通される。
「ヨシッ、そしたら、早速ピアノを弾いてもらおう。弾いてもらう曲のリストは、昨日、加奈子ちゃんから、連絡もらっているかな?」
原田先生は、僕に向かって言った。
昨日、葉月先輩の家をあとにした帰り道、加奈子先輩から今日の確認をしていた。
「えっと、明日、私のバレエの先生の前で弾いてもらう曲は、今日弾いてくれた三曲と。もう一つあって。」
そのもう一つが弾けるのかが問題だったが。
「そのもう一つの曲というのがね。‥‥。」
加奈先輩は深呼吸する。
「♪タララ、タララタタタ、タララッタラ、タララッタラ♪というやつ。」
緊張しながら口ずさんだ、加奈子先輩のメロディーはもちろん知っている。
『ワルツ11番、Op70-1』。
僕はああ。と頷き、その曲も弾けることを伝えた。
その瞬間。
「やった。ありがとう。輝。じゃあ、また明日ね。」
加奈子先輩はさらに興奮して、昨日それぞれの家へと帰路に就いたのだった。
そうして、今日、バレエ教室に足を運び、こうして備え付けられているピアノの椅子に座る。
曲の順番もあらかじめ指示される。
昨日と逆の順番で弾いてほしく、『ワルツ11番、Op70-1』、『Op18、華麗なる大円舞曲』そして、最後に『マズルカニ長調、Op33-2』という順番で指示された。
加奈子先輩は、昨日、僕が披露していない、『ワルツ11番、Op70-1』を僕が弾けるか心配していたが、杞憂に終わったようだ。
最初の音を弾いた瞬間、加奈子先輩の目の色が変わる。
昨日は興奮した状態の瞳の色だったが、今日は少し安堵感か混じっている。
指示された三曲を全て弾き終える僕。
「ヨシッ。完璧だ!!完璧だよ。橋本君!!この腕前なら、伴奏者に指名しても問題なさそうだ。」
原田先生はウィンクしながら、親指を立てる。
「あの、先生、それと自由曲も変更したいです。ショパンのワルツに。輝、昨日、最初に弾いた、葉月のリクエストに一番最初に応えたやつやって。」
加奈子先輩にお願いされ、ここに居る、バレエ教室のピアノでは、『ワルツOp42「大円舞曲」』を弾いた。
一緒にそれを聞いた原田先生。
僕が弾き終わった後、大きく頷き。
「ヨシッ、自由曲変更っと。というわけで橋本輝君こと、天才ピアノ少年、加奈子ちゃんをヨロシク!!」
原田先生が親指を立てて、ウィンクをし、僕の肩をポンポンと叩く。
「あ、あの、そんなあっさり、いろいろ変更していいのですか?」
僕は原田に聞いてみるが。
「ああ。加奈子ちゃんの出る、ゴールデンウィークのコンクールは、一週間前までなら、変更を認められている。曲目の変更とか色々ね。」
原田先生はそう言った。
「あの、制度的な問題ではなく、原田先生としてです。助言とかしなくてもいいのでしょうか。それに、時間的にも仕上がるかどうか‥‥。」
僕はそう言って、原田先生に向かって言う。
そんなあっさり、しかも短期間で、先生が曲目変更を認めてくれるのか。と思う。
「なーに。細かいことは気にしない、気にしない。加奈子ちゃんは、うちのプリンシパルは、この教室みんなの憧れだもの。むしろ初めてだ。ここまで加奈子ちゃんを自由に開放してくれたのは。うん。二人ならきっといいところまで行きそう。去年よりもすごきいい成績を期待しちゃう!!」
原田先生は笑いながら言う。
「プリンシパル‥‥。と言いますと。」
僕は原田先生に言った。
「うちの教室のトップダンサーという意味。それが加奈子ちゃん。そして、天才ピアノ少年!!君の罪はとても重いよ~。」
原田先生はニヤニヤしながら言った。しかし、笑顔の中にも、瞳の奥は真剣そのものの表情だ。
それに緊張して、戸惑う僕。
「罪‥‥。罪と言いますと‥‥。」
本当に、僕の罪が何かわからなかったので原田先生に聞く。
僕が言った瞬間、原田は僕の肩をバシッと叩く。
「うちのプリンシパルをここまで火をつけさせたんだ。こうなったらもう誰にも止められない。君には最後まで加奈子ちゃんの面倒を見てもらうからね。」
原田先生は一息で言った。とても楽しそうに。そして、真剣に。
そして、原田先生は、ふうっ、とため息をつく。
「それに‥‥。」
「それに?」
僕は原田を見る。
「おーっと、この先は自分で考えな。男の子でしょ。君。『眠れる森の美女』も、『くるみ割り人形』も、いろーんなバレエの作品もやっぱり王子様が、ガツンとね。」
原田先生は僕にウィンクする。
「じゃ、一時間くらい経ったら、もう一度見に行くから、それまで加奈子ちゃんをヨロシク~。」
そういって、原田先生は部屋から出て行った。
レッスン室に取り残された僕と加奈子先輩。
「ご、ごめんね。あんな感じの先生で。」
加奈子先輩は僕に向かって言った。先ほどとは打って変わって、かなり恥ずかしそうな様子。
「は、はい。別に大丈夫ですけど、加奈子先輩は良いのですか?僕が伴奏で。」
「何を言ってるの?良いに決まってるじゃない。輝の伴奏が良いの!!」
加奈子先輩はうんうんと頷き、僕の手を持つ。
「お願いしてくれるかな‥‥。」
加奈子先輩は僕の目を見て言う。
「わ、わかりました。」
僕は頷く。ゆっくりと。不思議な気持ちで。
「ありがとう!!輝。」
加奈子先輩は目の色を変えて、ニコニコと、僕の手を握るのだった。
その様子をドア越しに、原田先生に見られていることも知らずに。
原田先生はドア越しに見ていた。
「早く気づけよ~。少年!!」
そういいながら、ふう。とため息をつき、原田先生は別のクラスのレッスンに向かった。
一方のレッスン室。握った手を元に戻し、少し、お互いに深呼吸し合う、僕と加奈子先輩の姿。
「それじゃあ、輝。少し待っててくれる?服、着替えてくるから。」
加奈子先輩はそう言って、レッスン室を出る。
確かに、私服姿の加奈子先輩。それだと少し動きにくそうだ。
バレエには動きやすいように、練習着がある。レオタードというのだが。
十分ほどして、戻って来た加奈子先輩の姿に僕は見とれていた。
「お待たせ、輝。」
加奈子先輩はニコニコと近づいてくる。
ドキッとする僕。
「輝、変だったかな?輝を待たせたくなくて、急いで着替えて来たんだけど。」
僕は大きく首を振る。
「な、何でもないです。特に、問題ありません。」
僕は一瞬、声が裏返ったのだった。
すみません、本当は、加奈子先輩のレオタード姿。体のシルエットがより美しく際立っていて、見とれてました、何て言えるわけがない。
好きなもの、得意なものにのめりこんでいく先輩だ。この時の加奈子先輩の真剣な表情は、何だろうか。
一瞬にして、僕の何かを制止したのだった。
そうして、僕は練習に入る表情に切り替えたのだった。そう、本番のための練習に。
少し深呼吸をして、改めて、僕は加奈子先輩に聞く。
「とりあえず、コンクールの内容を説明していただけますか?」
僕はそう言って、加奈子先輩に説明を求める。まずはそこからやらないと、話が進まない。
やるからには、コンクールの全容を僕も把握しておかないと。
「もちろん!!」
加奈子先輩は大きく頷き、改めて、全容を説明してくれた。
「私が出るコンクールは、丁度、生徒会長の選挙と日程が被っていて。ゴールデンウィークに予選。で、中間試験と決選投票が終わって、丁度、六月の初めの週末に地区大会の決勝という感じなの。」
そういいながら、コンクールのチラシを見せてくれた。
「コンクールでは課題曲が三曲と自由曲一曲の四曲を披露します。課題曲は、ショパンの『レ・シルフィード』の中から、三曲選んで、選んだうちの二曲を予選で、その予選が通過すると決勝なんだけれど、決勝は予選で選んでいない一曲と、自由曲を披露します。昨日、葉月の家で私がリクエストして、弾いてくれた、『華麗なる大円舞曲』と『マズルカ』、そして、今日、一番最初に披露してくれた『ワルツ』は、全部『レ・シルフィード』に含まれているんだ。そして、自由曲が。昨日、葉月の家で一番最初に弾いてくれた‥‥。」
『ワルツOp42、大円舞曲』というわけだ。
「さっきのやり取りで、自由曲を変更したんだけど‥‥。ご、ごめんね。」
加奈子先輩は謝る。
「どうして、謝るんです?」
僕は加奈子先輩に聞く。
「あの、輝の意向を無視しちゃったかなって。自分が勝手に。輝のピアノの練習時間とか負担になるとか。今思ったんだけど。」
「いえいえ、そこは、それにさっきの説明で、予選と決勝の日程が違いますし、分けて備えて練習すれば僕は行けます。むしろ、一から振付をし直すことの方が‥‥。」
そう、加奈子先輩の自由曲変更に伴い、バレエの振付し直すことの方が負担に思われるが。
「そこは大丈夫。すごく楽しみだから。流石に、このバレエ教室の生徒全員で踊ることになるというのであれば、そんな無茶はしないけれど。今回は私一人だし‥‥。」
加奈子先輩が口を詰まらせる。
「なるほど、それなら、わかりました。ちなみに変更前は、一体何の曲を?」
僕は加奈子に尋ねる。
「『コッペリア』の曲から、『ワルツ』。」
有名なバレエ曲。僕でも知っている。
そうなると、オーケストラ音源を使用しての披露だ。
より迫力が増すのではと思う。
「『コッペリア』の方が素敵だと思うのですが。昨日の、ワルツで良いんですか?一応、オーケストラ音源を使用しての披露なので迫力もありそうですし‥‥。」
僕は先ほど思ったことを加奈子先輩に言う。
加奈子先輩は首を横に振った。
「それでも私は、輝のピアノ伴奏の方がいい!!」
加奈子先輩はニコニコ笑う。真剣な表情も含めて。
そして、加奈子先輩は深呼吸して、一気に顔を赤くしながら。
「だって‥‥。」
「だって?」
僕が、加奈子先輩に尋ねる。
「輝と出会って、こっちのショパンのワルツの方が躍りたいと思ったから。」
加奈子は顔を赤くしながら、一息で言った。
何だろうか。不思議な力に導かれ、僕は黙ってうなずく。
「僕のピアノといっても、音源を録音する感じですか?特に伴奏ということになると。」
僕はさらに尋ねる。
「ピアノのみ、生の伴奏者をつけることが認められます。ピアノ音源、オーケストラ音源を使う人も居るのだけど。私は輝の伴奏がいい。」
加奈子先輩の熱意溢れる目に、改めて、僕は覚悟を決めた。
「わかりました。頑張ってみます。」
僕は頷く。
「ありがとう。輝。絶対、絶対私を信じて。後悔させないから!!」
加奈子はそう言って、練習を始めた。
「わかりました。頑張ります!!」
僕の言葉に加奈子先輩は大きく頷いた。
コンクールの全容が把握できたところで、次は、実際に披露する曲決めをすることになった。
予選で踊る課題曲は、『レ・シルフィード』のワルツ二つ『ワルツOp70-1』、『Op18、華麗なる大円舞曲』に決め、『マズルカ』の方は、自由曲とともに決勝で披露することになった。
早速練習に取り掛かる僕と加奈子先輩。
「いつでもいいからね。」
加奈子はスタンバイをして、僕はピアノを弾いた。
最初は、『ワルツOp70-1』。やはり、昨日の『ワルツ、Op18、華麗なる大円舞曲』と同じように、加奈子先輩を見ていると、テンポを落とそうとする僕がいる。
「テンポはそのまま!!私が合わせる!!」
加奈子の強い言葉に圧倒され、テンポを落とさずに弾くがやはり気にしてしまう。
「テンポはそのままでいいの。これをものにしたいの。私のことなんか気にしないで!!」
弾き終わると、そう言いながら、加奈子先輩は、僕に指摘をして、振りの仕方を復習しようとしている。
さらに、重心をしっかりとるために、加奈子先輩は柔軟運動を演奏の合間に行う。
そうして、もう一度ピアノを弾くように指示され、振りを僕のピアノに合わせる加奈子先輩
そうした通し練習を何回か繰り返して行う。
しかし、どうしても加奈子先輩の方に目が行ってしまう僕。二人で合わせると、テンポがどうしても気になる。
その度に。
「テンポはそのまま!!」
「また、テンポ!!」
そういいながら、加奈子先輩は僕に向かって強い口調で言ってくる。
いや、テンポがずれるごとに口調が強くなる。と言った方が正しい。
どれくらい、これを繰り返しただろうか。
何回目かで、曲が一通り弾き終わったとき。
「輝、すこし、休憩しよう。」
加奈子先輩が言った。
「輝、お願い。昨日の勢いのまま、ピアノを弾いてほしいの。休憩で、少し落ち着いて呼吸を整えてきてくれる。練習にならない。」
加奈子先輩は僕に向かって言ってくる。かなり強い口調で。
こういう時の加奈子先輩は逆らえない雰囲気が、彼女の背中から出ており、仕方なく、休憩を取る。
そう、加奈子先輩に言われても‥‥。
という心情が僕の答えだ。
加奈子先輩の動きを見ると、どうしてもテンポを合わそうとしてしまう。
僕は、加奈子先輩に言われた通り、休憩をするために、レッスン室を出て、バレエスタジオの正面入り口に出る。
正面入り口には大きなソファーがある。おそらく、送迎の保護者のために用意されたスペースだろうか。
そのソファーに座って、持っていたスマホを取り出し、耳にイヤホンを着け、動画サイトを開き、『レ・シルフィード』と検索する。
そこから聞こえてくる音源は、明らかに、僕が今まで弾いていた。ピアノ単体のテンポと違っていた。
テンポが普段弾いているときとずいぶん遅く、三拍子のリズムをしっかり刻み、バレエのための、踊るための工夫がなされている。
いくつかの音源や動画が上がっていたので、比較してみる。
やはり多少、振り付けは違うが、曲のテンポはほぼ一緒だった。
「やっぱりなぁ。」
僕はため息をつく。
「加奈子先輩はああ言い張るけど。もう少し合わせに行かないと‥‥。」
ふうっと。僕は一息ついて、テンポをイメージしながら、持っていたペットボトルを開け、水を飲んだ。
気づけば、イメージトレーニングがてら、指が動いていた。