09
帰り道でまさかのひったくり犯に遭遇するといった騒動にも巻き込まれながら、無事に事務所に帰宅した三人。
千晴が作ったカレーを食べて、玲衣夜がデザートと称して焼いたホットケーキもぺろりと平らげて、冷やしておいた桃まで美味しくいただいて……三人のお腹はすっかりぱんぱんである。
お腹が満たされれば、次に襲ってくるのは眠気だったが――しかし千晴にも悠叶にも、各々帰る場所がある。此処で眠ってしまうわけにはいかないのだ。
お茶を飲みながら三十分ほど腹を休めた二人は、玲衣夜に見送られながら事務所を出ていく。
「それじゃあ、二人共気をつけて帰るんだよ」
「うん。玲衣さんもしっかり戸締りしてね」
「あぁ、分かったよ」
千晴と悠叶、二人で並んで駅までの道を歩く。そこに会話はないが、千晴も悠叶も、この沈黙を嫌だとは思わなかった。
元々波長が合うのだろう――普段なら一人でさっさと帰ってしまいそうな悠叶がそれをしないのが、少しずつ気を許しているという証拠でもある。
五分ほど歩き、駅まであと半分の距離まで差し掛かったところで、悠叶は事務所にスマホを忘れてきたことに気がついた。戻るのも面倒だが、連絡手段のとれるスマホがないのも中々に不便だ。
突然立ち止まった悠叶を不思議に思った千晴も、その足を止める。
「悠叶くん、どうしたの?」
「……スマホ、忘れた」
「え、それじゃあ取りに戻る?」
「あぁ」
「付いて行こうか?」
「……いや、いい」
「分かった。それじゃあまた明日ね」
その場で手を振る千晴に背を向け、悠叶は一人で来た道を戻った。
空を見上げれば、先ほどまでは淡い光を放っていた月に、薄っすら雲がかかっている。そのまぁるい輪郭が、ぼんやりと滲んでいた。
事務所まで戻ってきた悠叶は、もちろんインターホンを鳴らすようなことはしない。
鍵がかかっているかもしれないと危惧していたが、すんなり開いた扉を見て「(……不用心すぎんだろ)」と心中で悪態を吐く。――まぁ、勝手に不法侵入しようとしている人間が言えた台詞ではないと思うが。
応接室とダイニングキッチンを通り過ぎて、スマホを忘れてしまったオフィスに向かう。足を踏み入れれば、いつもは柔らかな光で満ちている室内は薄暗い。照明が小さな明かりに変えられているようだ。
そこに、玲衣夜の姿は見えない。風呂にでも入っているのか、もしくはすでに寝てしまったのか……。
わざわざ玲衣夜に声を掛けずとも、スマホだけ持ってさっさと帰ろうと思っていた悠叶だったが、スマホを置きっぱなしにしていたソファに近づけばそこに玲衣夜が寝ていたものだから、表情には出さずとも僅かに驚いた。
閉じられた瞳。長い睫毛が美しい影を作っている。いつもは馬鹿みたいに明るくてだらしのない人間だが、黙っていれば、物静かな美人にしか見えない。
若干失礼なことを考えながらその寝顔をじっと見つめていれば、玲衣夜が僅かに身じろいた。目を覚ましたかと思ったがその瞳は閉じられたままで、しかし、口許が微かに震えている。寝言だろうか。
何を言ったのか、そこまでは聞き取れなかった悠叶だったが――。
「……」
透明な雫が、玲衣夜の頬から重力に沿って顎の方へと流れていく。――泣いているのだ。あの玲衣夜が。
いつだって、こちらまで気の抜けてしまいそうなへらりとした笑みを浮かべている、能天気でどこか変わった女。
悲しいとか寂しいとか、そういった感情なんてこれまで微動も感じさせたことなどなかったくせに――今は、苦しそうに、辛そうに眉を顰めて、涙を流している。
涙は一本の筋を作っただけで、それ以降流れてくることはなかった。
もしかしたら生理的なものかもしれない。ただ偶然、夢見が悪いだけなのかもしれない。それでも――悠叶の目に映る玲衣夜のその表情は、どこか寂しそうに、辛そうに見える。
その涙を指先でそっと拭った悠叶は、膝を折って上体を玲衣夜に近づけた。
悠叶の長い金の前髪が、玲衣夜のターコイズブルーの髪と混ざり合う。二人の距離が、近づいていく。そして――――




