9.舞い降りる白い粉は塵を彩る
春子が日本に来てようやく3日が過ぎようとしていた。
絶賛時差ぼけ中の春子は、夜9時には眠くなる。
しかし、あまりわがままを言うわけにも行かなだろうと思い、久我家のダイニングで用意された夕食に呼ばれると、素直にダイニングに向かうことにした。
この日の夕食には、女性しかいなかった。秋の伯母である久我緋乃亜、秋の養母の八名井羽須美、そして、秋のもう一人の叔母である三ノ輪千津姫、そして、千津姫の娘の千沙子だった。
お祖父さんとおじさん達は通常この時間に帰っていることは珍しく、まだ会社にいるとのことだった。
春子は、昼間のことを警戒して夕食に臨んだものの、そこに秋の姿はなかった。
秋は5時が通常の仕事上がりだったが、その後、久我貿易の方に立ち寄ることが多く、帰宅はおじさん達と同じような時間になるようだった。
高校生の隆史はといえば、部活動が忙しいらしく、この時間には帰ってこないことが普通だった。受験生なので、塾で遅くなっているのかと思ったが、そうではないらしい。
緋乃亜伯母さんはもうすぐ60歳だと言うのに、かなり若々しく綺麗な人だった。いい意味でも悪い意味でも随分控えめな人で不必要な会話を良しとしないようだった。
意外にも、千津姫は緋乃亜が苦手のようで、ずいぶん気を遣っているようだった。おのずと夕食では言葉数が少なくなっているようだった。お陰で、春子にとっては初日の夕食時に比べると、遥かに過ごしやすいものとなった。
そして、夕食後は宿題を理由にそそくさと部屋へ戻ってきた。
が、しかし、眠気はどんどん増してくる。
よって、課題もそこそこ切り上げ、春子はベッドの上に傾れ込んだ。
ベッドに横たわったのは9時半ぐらいだったが、眠たさの限界を迎えたのはそれから10分も経たない頃だった。
眠い。
そう思ってうつ伏せになっていると、明かりが消えたのがわかった。
だからと言って、起きる元気は出ない。
そして、暗がりの中、人の気配を感じた。
その気配は寝ている春子に布団をかけると、自分もベッドの縁に腰掛けてきた。しばし動かず、春子を見つめているようだった。そして、ゆっくり深い呼吸を吐き出す。
春子は基本幽霊やモンスター、ポルターガイストといった超常現象を信じていない。
アメリカにもお化け屋敷だの、ハロウィンだのと超常現象を崇拝する文化はあるが、基本、それらはエンターテイメントである。
宇宙人はまた別の話としても、アメリカには呪いとか怨念とかそういうものを理解するための自素がないのかもしれない。例え、非業の最後を迎えた人がいたとしても、アメリカ人であれば、「来世に期待します!」とか「ラッキー天国♡」的な感じで、あっさりとこの世とのつながりを切りそうな気がするのだ。
ヨーロッパや日本のようにいつまでもグチグチとこの世にしがみついている霊など想像できなかった。
そもそもどうやったらそこまで強い形で心をこの世に残せるというのか、それは春子の理解の範疇を超えていた。そして、理解の範疇を超えるような現象に関しては、基本、興味など湧かないのだ。
そんな春子だから、この人の気配を人以外の何者でもないだろう疑わず、恐怖を覚えることはなかった。
目が開かない・・・ああ、無理だ。
予想通り、その気配は春子の頭を軽くポンポンと優しく撫でる。
春子はもはや眠たさでその正体に興味はなかった。
しかし、その優しい手の感覚があのコロラドでの夢の男の子を思い起こさせる。彼が大人になっていたら、こんな感じの優しい手を持った人だったのかもしれない・・・そう思うと、自分をなぜる手を握り返した。そして、その触り心地と温もりを堪能すると、深い眠りに落ちていった。
次の日、教室に到着すると、異様なざわつきが発生していた。
そして、春子はその原因を簡単に見つけるこになる。
自分の隣の机に人がいる。
要が既に登校していたのだ。
要は目が合うと、春子は笑顔を送った。
「おはよう。」
「・・・おう。」
要は、既にいつものことになっているかのように、ずいぶん爽やかにそして軽く挨拶を返してきた。大した用事があるというわけでもないだろうに、スマホをいじっている。
春子は机にカバンを置いて座ろうとしていたが、その時、戸口にいる更紗の姿を見つけた。
「更紗ちゃん、おはよう。」
春子はカバンをそのままにして、後ろのドアから廊下に出て、前のドアの戸口で立ち尽くす更紗に背後から声をかけてみた。
「うん・・・。」
更紗は不意に現れた春子に驚くわけでもなく、難しい表情をしたまま、目線の先に何かをとらえたまま立ち尽くしていた。
「・・・津田くんが・・・どうかしたの?」
更紗の視線の先には眠そうに大あくびをしながら、スマホをいじる津田の姿があった。
「えっ?あっ、春ちゃん・・・」
ようやく更紗は春子の存在に気づくと、今さら驚いて、慌てて挨拶をした。
「おはよ・・・」
春子はバツの悪そうな更紗を眺めた。
「津田くん・・・がどうかしたの?」
「津田くん?
・・・ううん、別に、何もないよ・・・。」
更紗はお行儀良く並んだ机を避けながら、自分の席まで行くと、机の上にカバンを置いた。そして、更紗はそのままカバンを握り、席に着いた。春子は後ろをゆっくり追いかけた。
「春ちゃん、昨日・・・」
しばらく俯いていたかと思うと、更紗はおもむろに口を開いた。
「ん?」
「その・・・」
「・・・うん」
しきりにカバンを見つめる更紗を春子はしゃがみんで、下から覗き込んだ。
あからさまに何かを聞きたそうな更紗だったが、どうもはっきりできないようだった。
「その・・・ううん、
なんでもない。
今日の数学の宿題、わかった?」
「数学の・・・宿題?」
「うん、私、数学、苦手なんだよね。」
質問することを躊躇していたわりには、何の変哲もない質問をしてくる更紗を不思議に思うと、春子は少し考えた。
言いにくいこともあるだろうし、
どう切り出していいかわからないことなのかもしれない・・・
だったら、そっとしておくほうがいいよね・・・
春子は、カバンの中身を忙しなく取り出す更紗を眺めた。
「わかんなくはないと思うけど、やってないよ。」
春子はそう言うと、更紗はあっけに取られたように春子を見上げた。
「春ちゃん?」
「昨日は10時には寝ちゃったかな・・・眠くて、あれ9時か?
とりあえず寝ちゃった」
春子は悪気のない笑顔を振る舞う。
「え、でも、・・・大丈夫?」
「分かんないけど・・・いいかなって思って」
「いやいや、だめだろう。」
いつの間にそばに来ていたのか、突如として、後ろから四宮海斗が声をかけてきた。
「柏瀬さん、今日は1・2限目、続けて数学なんだよ。平澤先生なんだから、ほら早く写しなよ。」
そう言うと、海斗は自分のノートを春子の頭の上においた。春子は作り上げた笑顔で受け取ると、好意を無駄にはできないと思い、自分の椅子に戻ってノートを持ってくると、更紗の机の上に置かれた海斗のノートをちょっと見てみることにした。
・・・今から写しても、無駄な気が・・・
そう思いながら、春子は諦め気味にこのありがたいノートを見つめた。
ホームルームが終わると、クラスの生徒達はガタガタと席を立ち、荷物を持って移動に取り掛かっていた。やはりノートを写すような時間はなく、春子は1・2限の数学の時間に入った。
しかし、春子は数学が苦手というわけではないので、課題をやってないことの指導は受けだが、大きな問題とはならなかった。正確には、クラスの半数以上がやっていなくて、平澤が怒れなかったとだけだった。そして、いつもはいない要もきちんと着座しているその教室に、平澤はなにかしら臆した様子だった。
ああ、体育か・・・。
春子は手元のスマホにある時間割表を見ると、朝の体育があることを思い出した。
更衣室は体育館にあるため、移動が必要だ。
だが、春子は体操服を持っておらず、もちろん持ってきてもいなかった。
ただ、そんな心配は杞憂に終わった。
秋が春子に渡していなかったらしく、預かっているので取りに来いと、ホームルーム後、そう担任に言われたのだ。
優しい更紗は自分の着替えもあるのに、わざわざ職員室まで春子に付き合ってくれることにした。もちろん、春子が迷子にならないようにではあるが、職員室と校長室を超えた先には非常階段があり、そこから降りれば、更衣室に直行できるからだった。
職員室に行くと、秋は右奥の自分の席で何かを書いていた。
職員室に入ってきた春子に、声をかけるつもりも、目を合わせるつもりもないようだった。
全体を見渡すと、左奥に2年の担任の先生達が溜まっており、手前に担任の前山が座っているのを発見した。
しかし、職員室は、今朝の教室のように、心なしかざわつきが起こっていた。秋以外の先生は、ミーヤキャットのように背伸び気味に、同方向を見つめていたのだ。
・・・何だ?
ミーヤキャットと化した先生達の視線の先には、津田要がいた。教室同様のざわつきを起こしたのはやはり要だったようだ。春子は前山の席を目指しながら、右目で、ガタイのいい体育教師であろう男性と話す要の姿を見つけた。
・・・今度は何をやらかしちゃったんだろう・・・
要は、一枚の紙切れを体育教師に差し出しているところだ。
要はかなり背が高いらしく、このどデカい体育教師とほぼ同じ身長だった。かなり威圧的な男性教諭だったが、要と一緒にいることでいっそう威圧感が増していた。
それとも、これは職員室にある緊張感なのだろうか・・・。
「おお、昨日、室川先生からな、聞いてるよ。・・・診断書か・・・わかった。男子はサッカーか野球だからなぁ・・・、まぁ、お前は教室で自習でもしてろ。なっ。」
状況から察するに、ただ単に要が手の怪我を理由に体育の病欠届けを出しているというだけだった。それにしては、奇妙な空気が職員室に立ち込めている。
「先生・・・?」
春子は、そんな体育教師と要とのやりとりをヒヤヒヤしながら見ている前山に声をかけた。何をそんなに心配する必要があるのか春子にはわからなかった。
「ああ、柏瀬さん、これね・・・」
前山は体育教師と要の二人から目線も外さず、机の上に用意されていた薄ビンク色の袋を春子に手渡した。
春子はふと自分に向けられた視線を感じた。
秋だ。
だが、春子が秋の方向に頭をあげた時には、秋はもうすでに視線を目の前の書類に落としていた。明らかに目を合わさないように、春子が振り返ると同時に視線を戻したようだった。
昨日、黙って帰ったから、怒ってんのかな・・・
なんか、意外と・・・
いや、めっちゃ大人気ない・・・
春子は、少し肩をすくめると、呆然としたままの前山に「失礼します」とだけ声をかけて、職員室を後にした。
職員室を出るとすぐに、春子はドアの前で待っている更紗を見つけた。
しかし、やはり更紗も、窓越しに中にいる要に視線を奪われていた。そして、出てきた春子の存在には気づいていないようだった。
「更紗ちゃん、お待たせ。ありがとう。」
春子はちょっと大きく声をかけた。
「あ・・・うん、大丈夫だった?」
更紗は焦って、体で春子の声を追いかけたが、目線は置き去りになり、そのまま要を見つめていた。
「・・・津田くん・・・どうしたんだろうね。」
明らかに今朝からやたら更紗は要のことを気にしている。
「え?」
「気になるんでしょ?津田くんのこと?」
「えっ?」
焦って、頬をほんのり赤く染める更紗。絵に描いたような美少女の反応である。
「先生達もミーアキャットみたいに、津田くんのほう見てるけど・・・
あの先生とのBLでも想像してんのかな・・・。」
更紗はキツネにつままれたような顔を春子に返し、しばし、春子を眺めた。
「いやいや・・・」
更紗は現実に戻ってきてくれたのか、春子を見つけていた。
「冗談よ。」
「ああ、ごめん。春ちゃん、ときどきすごいこと言うから、
ああ、そうか、そうだよね、冗談だよね・・・
思えなかった・・・」
「・・・」
やはり女子トークは時間を短縮するらしかった。そんなアホな会話を楽しんでいると予鈴が鳴り響き始めた。
二人は急いで非常階段を目指した。
本鈴のチャイムは予鈴から5分後のことだ。本鈴が鳴り始めた頃、要は教室に戻ろうと、階段をゆっくり登っていた。
手は処置が早かったため大事には至らなかったが、医者からの一週間のストップがかかり、バイオリンの練習が許されない状態になっていた。
特にすることもないから、大人しく学校に来てみたわけだ。
しかし、ずいぶんと理不尽な奇異の目に晒されたのだ。
教室だけでなく、職員室においても。
普段の素行が悪いだけに、理不尽ではないのかも知れないが、それは思った以上に心地悪いものだった。
そして、それだけに余計に春子の自分と対峙した時の平常さ・むしろ嬉しそうな春子の表情を歪に感じていた。
男子の体育を担当するのは、31歳の若宮時雨だ。鍛えられた体はボディービルでもやっているかと思わせるような筋肉を携えている。ただし、もともと細身らしくマッチョとまではいかないようだった。スポーツマンらしい短髪で、笑顔が溢れる大きめの口からはいつも白い歯をのぞかせていた。
要はあくまでこの若宮に欠席届を出しに来ただけだった。それなのに動物園の凶暴な珍獣を発見したかのような反応をされ、少々心外だった。
まぁ、どうでもいいけど・・・
漠然とそんなことを思いながら、要は教室に向けてさらに階段を登っていった。
すでに授業は始まり、廊下は静まりを増していた。
防音の完備の教室から、教員・生徒の声が漏れ聞こえることはほぼない。
シーンとした階段で自分の足音だけが自分をしつこく追いかけてきていた。
それは、ようやく教室のある4階手前に差し掛かった時だった。
要は階段の上段部から注がれる視線に気がついた。
ひとりの女子生徒がこちらを見ている。
要は思わず足を止めた。
― 誰だ?
階段奥の大きな窓ガラスを背にし、女子生徒は自分を見つめていた。
女生徒の胸元の紋章は緑で刺繍がしてあった。緑の紋章ということから、彼女がかろうじて3年だということはわかった。ただ、同学年でも知らない生徒が多いのに、学年が違うなら尚更で、この女生徒が誰なのか検討もつかなかった。
要は少し気をとられたものの、自分に関係のない人物であることを認識すると、そのまま教室を目指して足を進めることにした。
ドンッ
要がちょうど女生徒の横を通りかかった時、彼女は突然震えながら自分に向かって倒れ込んできた。
要の手を支えに倒れ込む女生徒は、震えというよりもむしろ痙攣をおこしているかのようだった。
「おい・・・ちょっと・・・」
要は痙攣しながら自分にしがみつく女生徒をゆっくり壁にもたれ掛からせると、そっと床に座らせた。女生徒は大人しく要から離れると、そのままそこにうずくまった。
女生徒は動こうとしなかった。
無視して行くわけにもいかないだろうと思うと、要は女生徒にもう一度声をかけた。
「おい、あんた、大丈夫か?」
だが、次の彼女の行動は、要の全く予期できない行動だった。
女生徒は、突然、自分の制服を破り始めたのだ。
痙攣していたはずの手は、しっかりと服を掴み、女生徒は躊躇なく制服を引き裂く。
彼女の肩から胸元が顕になっていく。
女生徒はしっかりと要の存在を自分の視界の中に捕らえると、不気味にニヤリと笑った。
次の瞬間、女生徒は、要の手を握りしめる。
予想以上に強い力。
要の傷のある手をさらに痛めつける。
「!!!」
要が、痛みを食いしばった瞬間だった。
女生徒は乱れた衣服を無視し、スクっと立ち上がる。
同時に、女生徒は要に恐ろしいほどの爽やかな笑顔を向た。
流れるように翻された肢体。
女生徒は一瞬にして要の目の前から消えていった。
突如として、ズドンという鈍い音が廊下に立ち込める。
要は血の滲む自分の手を一旦見つめた。
握りしめられた手は血が滲み、白い包帯を赤く染め始めていた。
そして、そこには白い粉塵が舞い降りている。
要は改めてゆっくり周囲を見渡す。
女生徒はもちろん消えたわけではない。
階段を飛び越え、落ちていったのだ。
女生徒の身体は4階と3階の間にある踊り場に静かにうずくまっていた。
体が横たわる踊り場に接したエレベーターのドアが開く。
悲痛な叫び声が行き場を見失い、彷徨い始めた。
一体何が起きているのか・・・
要は嬉々として転げ落ちることを選んだ女生徒をもう一度見つめた。
「あ、あ、あな、あなた・・・つ、っつ、津田くんじゃない!!!!
悲鳴の主が4階から微かに顔を覗かせ見下ろす要の姿をとらえた。
「・・・」
「あなたが・・・やったの・・・?
「・・・」
要には応えようがなかった。自分でも何が起こったのか把握できないのだ。
「・・・そっ、苑池さん・・・!!苑池さん!!!
「・・・」
「金原先生・・・何事ですか、1階まで聞こえてま・・・なっ!?」
バタバタと四方より足音が響いてきた。
「室川先生!!!苑池さんが!!!!」
「こっこれは??」
「津田くん、答えなさい!何があったの!!!」
涙でいっぱいの女教師は、再び階段に残っていた要の姿をとらえた。
「津田・・・?
「・・・」
要はうっすらと口を開けるが、言葉は出てこなかった。
「先生方、これは一体、・・・
津田要・・・?」
「久我先生・・・苑池さんが!!!あぁぁぁ・・・いやぁぁ!!!」
金原はここぞとばかりに秋にしがみつく。
「金原先生、落ち着いて・・・」
室川は女子生徒の周りを忙しなく行き来する。
そのうち、かがみ込むと、目元、口元、そして首筋を手で触れていった。
いつの間に自分のそばに人がいたのか、気づいた時には秋が要の肩にそっと手をおいていた。秋はそのまま要を誘導して三階半の踊り場へと移動させていた。
「・・・意識が混濁しています、教頭・・・」
「!!!」
「津田くん、君って子は・・・何をしてんだ・・・」
どこから現れたのか教頭の原は、いつの間にか現れ、室川の後ろで小さく震えていた。
要の周りは否応なしに雑音が増殖していった。
「原先生、それよりも救急車を!」
「ああ、ああ、・・・わ、わかった!!」
「っ先生方、どうされたんですか??」
「津田ぁ!!!」
行先のない言葉が交錯していく。
もはやどれが誰に属しているのかは判別不可能だ。
要は、自分の周りで飛び交う怒涛を無視し、黙って静観することにした。
室川は女生徒の乱れた制服、堅く閉じられた手をそれぞれ触れていく。そして、そこから自分の手についた白い粉を凝視した・・・。
室川はそのまま手を堅く握りしめ立ち上がると、秋の隣で立ち尽くす要に静かに近づいた。
「津田くん・・・」
室川は要の手首を握り、無理矢理、傷を負っている要の手を開かせた。
室川は要の手の平を同様に観察した。要は静かに倒れる苑池の動かぬ体のそばに立っていた。
室川は、自分の閉じた手を要の前でゆっくりと開くと、要の血が滲む手をあらためてつかみ上げた。
白い粉塵が二人の手を彩る。
「・・・マリファナだね・・・」
『津田要がマリファナを使って、女子生徒を冒そうとした』というとんでもない噂は瞬く間に学校中に広がっていった。
体育が終わって教室に戻ると、教室の黒板には大きな文字で「自習」と書かれていた。
訳のわからない生徒達は、当然のことながら、情報収集に勤しんだ。
現在、職員室では会議が粛々と開かれている。
おそらく全クラスが自習となっているのだろう、防音の整った教室は締め切りにすることを忘れられ、いろいろな教室から、いつまでも生徒達の話し声がダダ漏れになっていた。
春子のクラスももちろん例外ではない。
むしろ当事者という立場で、ある種の興奮状態を迎えていた。
誰も彼もがヒソヒソ声で話し込む中、春子は隣の席を見つめた。
春子の隣は再び空席だった。
情報はかなり曖昧ではあったが、現場から一番近くの教室にいた2年A組の生徒たちは自分たちが目撃者になったということに興奮を隠せず、休み時間の間に知り得る情報を誰彼かまわず語り明かしていた。
それによると噂の女子生徒は3年D組の苑池静子で、隆史の隣のクラスの生徒だった。苑池はあまり目立とうとするような生徒ではなかった。しかし、名家のお嬢様であり、学業も先生達から一目置かれるほどの優秀な生徒だった。部活はテニス部に所属しており、全国大会の常連で、7月のインターハイを控えていた。周りからは勉学ともにかなり期待されていたようだ。
目撃した生徒たちによると、苑池の外傷は擦り傷程度で大したことはなく、命に別状はないということだった。しかし、薬物中毒による意識障害の状態で、病院へ搬入されたまま、緊急入院となっていた。
学園内で起こった事件とはいえ、立派な刑事事件である。
しかし、いつまで経っても、けたたましい警察のサイレンの音が聞こえてくることはなかった。
当事者たちの身元、そして学園の体質から、おそらく事件が大きく報道されることもまずないだろうというのが、生徒達の見解だった。
「たっく・・・来週は模試もあるっていうのに、迷惑な話だな・・・」
四宮海斗の隣の席の男子生徒が、そう言った。
「・・・まぁ、想定内だよな・・・」
海斗はそれに応えるかのように、大きな独り言を発した。ただのコメントを垂れ流しに過ぎない海斗であったが、春子はどことなく勝ち誇ったような表情をその顔にうっすら見てとれたような気がした。
「ちょっと、時藤くん・・・
そんな言い方しないでくれない・・・。
津田くんが犯人だって決まったわけじゃないじゃない・・・」
更紗はそう言うと、時藤純也を睨みつけた。
「蓼科さんさぁ・・・、あいつが犯人じゃないなら、誰がやったっていうんだよ。」
「あんだけ目撃者がいると、完全にアウトでしょ?」
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、ここまでとはなぁ・・・」
「だよなぁ」
更紗の近隣にいた別の男子達は、そういって笑い飛ばし、状況を楽しんでいるかのようだった。
おそらく、普段、要を前にしたら何も言えないからだろう。しかし、それ以上に春子は四宮海斗に見え隠れする無表情の中の奇妙な喜びが気になっていた。
「白昼堂々と、やろうとするって、どうかしてるよな。」
「マジでな、どんだけ溜ってんだよ」
「キメセクのつもりだったんじゃねーの?」
男子は下品な茶々を入れる。
海斗はそれに反応をしているつもりはないようだった。
ただ、春子の視線に気づくと、勝ち誇ったような笑顔を造り上げた。
海斗の無意味な勝利の表情に春子は何かしら苛立ちを覚えた。
「津田くんには、無理だと思うよ。」
そして、考えるより先にそう発言していた。
興奮の最高潮を迎えていた教室は、突如、嵐の目の中に入ったような静けさを迎える。
海斗のあれは明らかな挑発だ。
「柏瀬さん・・・ずいぶん・・・はっきりと断言するのね」
あくまで我関せずを決めて、教室の右前に溜まっていた由良島麻耶はそう言うと、春子の方に向き直り、視線を向けた。
麻耶だけじゃない、やはりクラスのほとんどは春子を凝視していた。
「だって、少し考えればわかるじゃない。」
春子は薄ら笑いを浮かべる海斗を視界にとらえながら、そう言った。
「あんたねぇ・・・なんなッ」
春子の返しにイラついた愛美は、すぐさま春子を反撃しようとしていた。
だが、それは麻耶によってあっさりと防がれた。
「彼には無理だっていう根拠は何?」
麻耶は冷静に春子に向き直ると、可憐に前髪を掬い上げた。
一方、海斗は興味を失ったのか、我関せずというように、自分の教科書へと視線を落とした。
「・・・だってチグハグでしょ?」
春子は海斗に視点を置いたまま、麻耶に話しかけた。
「何がチグハグだって言うの?」
愛美は苛立ちを隠せないまま、由良島の制御を振り切っていた。
「だって、金原先生は、例の女の子の悲鳴を聞きつけて、駆けつけたんでしょ?」
「ああ・・・らしいな。」
近くにいた男子が春子に答えた。
「で、先生がきた時はもうすでに女の子は階段の下に倒れてたのよね?」
「そうだね、私はそう聞いたけど・・・」
「私も」
別の女子達が答える。
「彼女がそんな職員室まで聞こえるような悲鳴を上げられる状態なんだったら、津田くんには無理だよ。
「なんでそんなことが言えるのよ。」
愛美は勢いよく両手を組むと、春子の前に立ちはだかった。
「先生が悲鳴を聞いて駆けつけるまでの時間にもよるし・・・服の素材にもよるんだけど、洋服なんてそんな簡単に引きちぎれるもんじゃないよ・・・」
春子はそういいながら自分の制服を引っ張って見せた。
「チープなAVやエロ漫画じゃあるまいし・・・。
私の友達でも襲われた子いたけど、服自体はそんな破れてなかったし、まぁ、ナイフとか銃があれば、別なんだろうけど・・・」
「叫ばないように、口を押さえつけて、引き裂いたって考えられるじゃん・・・・、で、叫ばれたから焦って突き落したんじゃないの?で、先生がそこに駆けつけて・・・。」
春子の前にいた別の女子がボソボソと自分の考えを口にしてみた。
「確証はないけど、もし仮に襲い始めてから悲鳴をあげられるまでに時間があったとするでしょ?じゃあ、津田君が彼女の口を塞いで騒がないようにしたってことになるんだけど、その場合、服を引きちぎるのは片手になるよね。そうしたら、今、津田くんの片手はあの通りだし、片手だけで服を引きちぎるのはますます難しくない?」
生徒達はそれぞれ目線を合わせながら、他の生徒の様子を伺っているようだった。
「そもそもあの傷がうそなんじゃないの?自分に疑いがかからないように!」
「それはない。4針、縫ってるもん。」
「4針?」
「そう。」
春子は昨日室川の違法医療行為があったことをつげる。
教室は再び、静けさに身をまかす。
「それに、なんで室川先生はマリファナって断定したんだろう・・・。」
「・・・そりゃ、元医者なんだからそのぐらいわかるでしょ?」
「マリファナだよ?マリファナって独特の匂いがするんだよ。向こうじゃ、吸ってる人、多いから、よく知ってるんだけど、津田くんからはそんな匂いしなかったんだよね・・・」
「津田がやったわけじゃなくて、苑池さんにやらせたんでしょ。津田が触れてないんだったら、臭いぐらい誤魔化せるよ。」
「ないない。
万が一、津田くんが全く触れていない状態を想定したとして・・・、まぁ、注文は津田くんがしたとしても、苑池さんが受け取って、勝手に開けて、勝手にやったってことになるよね・・・
随分、素直すぎない?
それに、その場合の津田くんの罪状は?
紹介したこと?そんな証拠が出てくるとも思えないけど・・・それだけじゃ罪にならないでしょ・・・強要したって言えるのかな?」
「そんなの、あいつのことだから、なんらかで脅してたってこともあるんじゃないか?」
「百歩譲って、そうだとしても・・・、うん、やっぱりおかしいよ。」
「なんで?」
「だって、誰もそんな匂いに関するコメントしてないじゃない。あれだけ目撃者がいて、あの匂いに気づかないっていうのはないよ。残り香もなかったみたいだし・・・。」
春子は少し考え込んだ。
そして、あえてそれを邪魔しようとする者はいなかった。
四宮海斗は背を向けたまま教科書に書かれて文字の羅列を目で追いかける。興味がある風ではなかったが、春子は彼が自分に耳を傾けているのを確信していた。なぜかと聞かれると、勘としか言いようがなかった。
「よっぽどの少量だったとしても・・・いや、そもそも、マリファナぐらいじゃ、意識の混濁なんかないもんなぁ・・・。混濁するほどやってるんだったら、匂いもあるし、バレないって、無理でしょう・・・」
春子は独り言のように呟いた。
「あっ、その前に、彼女の服に付着してたのは白い粉だったんでしょ?」
「ああ」
「らしいね。」
「それが?」
いつのまにそばへ来ていたのか、机の前に立っている更紗が心配そうにそう聞いてきた。
「じゃあ、もっと根本的にチグハグになっちゃうよ、
マリファナって、白い粉じゃないもん。
室川先生だって伊達に医者やってるわけじゃないんだから、マリファナが白い粉じゃないことくらいわかってると思うんだけどなぁ・・・
見たことないかもしれないけど、マリファナは、つまりグラス(grass)、ウィード(weed)、ハーブ(herb)とかっていろいろな種類があるんだけど、いずれにしても「草」って俗称がつくような物なのね。つまり草なのよ。どんなに純度を上げて生成しても白い粉じゃない・・・むしろタバコみたいなやつ。
白い粉って、どっちかといえば、覚醒剤とかコカイン・・・ヘロインもか・・・。しかも、結構純度が高いってことだよね・・・なのに、なんでそんなこと言ったんだろう・・・」
ふと、周りの静けさが緊張感を持っていることに気づく。
無理もない、みんなただただ呆気にとられているのだ。
「春ちゃん・・・出身・・・愛媛なんだよね。」
更紗は誰にも聞こえないような小声で春子に話しかけた。
「・・・あ、あぁ、うん」
春子も更紗同様に小声になる。
「愛媛ってそんな危ないところだっけ?」
「・・・」
やってしまった、そう気がつくと同時に、春子は自分の背後に怒りのオーラが迸っているのを感じた。
「柏瀬さん・・・ちょっと来てもいましょうか?」
そう怒りの言霊を吐き捨てたのは秋だった。
秋だと確信するのに、後ろを振り返える必要はまったくなかった。
もしかして、盗聴器もつけられてるのかなぁ、私・・・。
春子は素直に振り返り、秋を見つけると、黙って教室を後にすることにした。