8.ストーカー事変
「・・・」
「・・・」
暗がりの教室には、重い空気が蔓延していた。
窓から見渡せる校庭では生徒達がそれぞれの部活動に励んでいる。さまざまに行き交う生徒の掛け声、がなり声、叫び声。そんな声に邪魔されて静かであるはずのないこの教室。だが、教室にはなんとも居心地の悪い嫌な静けさで満たされていた。
春子は今、秋のオフィスがある化学室に連れてこられていた。
もちろん一人ではまた迷子になるので、授業終了後、担任に職員室まで連行され、その後は秋に職員室からの同行を命じられ、そして、今に至っているというわけだ。
秋は怒っているというわけではなさそうだったが、機嫌がいいというわけでもなかった。無言のまま、つまらなそうな表情で教卓の椅子に腰掛け、隣の机の上の書類を拾い上げていた。
「・・・春子、どういうつもりだ?」
息の詰まりそうな空気の中、秋がようやく口を開いた。
秋の言葉は平静を装っているものの、氷のような冷たさを滲ませていた。
「どういうって?」
「まさか、昨日の今日で、忘れてしまった・・・と?」
秋は、忙しなく机の上の資料を拾い上げ、視線を紙の上に落とした。別に紙の内容を繁々と読解しようとしているわけでない。彼の視線は紙をすり抜け、春子の方に向けられる。
「・・・。」
春子は応えようがなく、なんとなく秋の言葉の続きを待った。
「目立たない、問題を起こさない・・・そう注意したよな。」
「・・・別に目立ってないし、問題、起こしてない・・・ですよ。」
平行線上に秋と春子の視線がぶつかり合う。
教室にあるはずのない時計の秒針の音が響いているようだった。それともこれは外から聞こえる生徒の声なのか。
ハァ・・・
教卓の椅子に座り込む秋は重いため息を吐き出すと同時に、わざわざ集めた紙の束を雑然と机の上に落とした。
「男子生徒と廊下でイチャつくのも、許可なくクラスを抜け出すのも、目立つし、問題だろう?」
春子は平行線に結ばれた秋との目線をあえて外そうとしなかった。
「イチャつく????」
秋が言っているのは、春子が要に廊下に連れ出された時のことだろうというのは容易に想像がついた。
あの時、迫り来る秋は確かに息が上がっているように見えた。いつから見られていたのかは定かではないが、自分たちの立ち位置が、教室からの死角になってはいても、別の角度からは丸見えの位置にいたということだ。二人のイチャつき現場を目撃して、秋は詰め寄ったということなのだろうか。
「津田くんと話してたことですか?ただ話してただけなのに、イチャつくって、ゲスの勘繰りしないでください。」
「下衆ね・・・。にしても・・・、教室で聞かれては困るような話だったんだろ?」
秋は椅子から立ち上がると、教卓の反対側で佇む春子を見下ろした。
秋は、鋭いところをついてくる。春子にも要にも邪な気持ちがないのは確かで、イチャつく意図もなかったが、確かにあの時津田は他の生徒に知られたくないがために自分を廊下へと連れ出していた。
「そんなんじゃないです・・・けど・・・」
春子は歯切れの悪い返事を返すとともに、秋から視線をそらした。
「あんな至近距離で見つめあっていれば、変に勘繰られても文句は言えない。さらに二人で授業をエスケープすれば、なおさらだ。」
秋の声はあくまで平静で穏やかだった。それとは対象に、漂う空気は滑稽なほど冷たい。
「エスケープ?・・・別に逃げ出したわけじゃ・・・。」
「それは英語の意味。日本語は授業をサポったってことだよ。」
「ああ・・・。
でも、それは秋さんにちゃんと伝えたじゃないですか。」
秋は少しずつ歩みを進め、春子との距離を詰めているようだった。
「ちゃんと伝えた?」
「ええ。あの時、津田君の、あの手の傷がどう見ても深かったから・・・、そのままにしておくわけにいかないですよね」
「それで、場所もよくわからないのに、保健室に連れて行ってやって、さらに迷子になったっていうのか?」
「だって・・・」
春子は詰め寄る秋を避けようと、後ろへ下がろうとした。だが、そこには理科室特有の生徒用の長机が並んでおり、それ以上に下がりようがなかった。
春子は後ろの机にぶつかるとよろけて机に手をつき、机の端に腰を落とした。
「君よりも学校のことをよく知っているクラスメートはいくらでもいる。ましてや、クラス委員か、保健委員に頼めばいいことだ」
「ん?保健委員?」
「・・・。」
「あっ、そっか、そういうのあるんだっけ・・・。」
日本の学校のシステムに委員会制度があることを春子が知らないわけではなかった。だが、春子はそんなことをすっかり忘れていた。
とはいっても、最後に日本の学校で生活したのは今から3年も前の小学生の頃なのだ。愛媛と同様のシステムがここにあるということに考えが及ばなくても仕方のないことだ。アメリカであれば街が変わられば、ましてや州が変われば学校のシステムはまるで違うのだから。
「・・・。」
秋は無言で詰め寄り、春子の視線を捉えようとした。
「で、でも、あの場合は、気づいたの、私だけだったし・・・」
春子は納得のいく言い訳を考えながら、言葉を続けようとしたが、まともな言い訳は思い浮んでこなかった。よくよく思い返してみると、なんであんなに使命感に駆り立てられたのかもよくわからなかった。
「それはずいぶんご親切なことだ・・・」
秋の威圧感に春子は追い込まれていた。
「そもそも、初日から、ずいぶん彼が気になるようだけど、何かあるのか?」
「うん・・・」
「うん??」
肯定を返した春子に大した意図はない。しかし、馬鹿正直に、ある意味、別の男に興味があると肯定した春子に秋は驚いた。
「それは?」
春子は無意識なのか、顔には初恋を匂わせるかのような淡い表情を浮かべていた。
「はい・・・、ごめんなさい。でも、約束したから、それは言えない・・・です。」
そして、改めて堂々と要と共有する秘密があるとも言っている。秋には春子の意図が見えてこなかった。意図などないのだから、当然なのだが・・・。
「そうか・・・」
「・・・」
秋は、困った様子の春子から、少し離れると、右手の窓の方に目線を向けた。変わらず生徒達は忙しく部活動に勤しんでいるようだった。
秋は西に傾き始めた光の下に入った。
「で、英語の授業の件は?」
「英語の授業?」
「・・・」
「何のことですか?」
「他の生徒と口論になっただろ?」
「口論?・・・えっ?してないですよ・・・」
「・・・」
再び秋の無言の威圧感に襲われる。
「あ〜あ・・・あれは、女子が理不尽に先生の授業を止めるから、だから、ちょっと間違いを指摘しただけで・・・別に口論ていうわけじゃ
「春子、もっと空気を読んだ方がいい」
秋はそう言うと、春子の言葉を容赦なく遮った。
「空気?」
「目立つなと言ったろ?春子にとっては安直な指摘だったかも知れない。
だけど、周りから見ると口論だ。春子が余計なことを言って嗾けたと解釈されることもある。周りの人間を・・・変に刺激するようなことはするな・・・!」
「するなって・・・、そう言われても・・・。だいたい、空気を読んでないのは向こうのほうじゃないんですか?それこそ、わざわざ授業を止める必要もないのに、意味のない揚げ足取りして・・・先生のこと、いじめるなんて・・・くだらなすぎませんか?」
永遠に続くかに思われる説教、理詰めで追い込んでくる秋だったが、春子には納得がいかなかった。
そして、何より、状況の全部把握しているわけでもないのに、相手を擁護する秋に苛立ちも覚えていた。心のどこかで怒りを抑えてくれるいつもの冷静な自分は、隠れて出てこなかった。
「ってか、秋さん、そもそも、何でそんなこと知ってるんですか。」
春子は、何が一番気に触るって、情報が全部秋に筒抜けであることだった。
全把握されていないにしても、秋は知りすぎている。
「秋さん、もしかして、室川先生とかあの黒服のお兄さんとか使って、私のこと、ストーカーでもしてるんですか?」
春子は、よろめきかけた自分の体を長机から起こすと、窓際にいる秋の方を向き直った。
秋は、窓の下を見下ろしたまま、春子を見ようとはしないなかった。
「春子・・・君は仮にも久我の大切な客人だ・・・同時に、僕の婚約者でもある」
「大切だなんて・・・思ってもないくせに。
ぼそっと呟く春子の声は、秋を通り抜ける。
西日を背に被り、秋の整った輪郭だけが、くっきりと窓越しに浮かび上がる。
「久我家の面子もあるんでね、君を奇行に走らせないためだよ。」
秋は、わざわざ春子を苛立たせるような言葉を選んで、返答をする。
「つまり、私を監視してるってことですか?」
「・・・」
秋は相変わらず平然と窓を見下ろす。
春子の問い全てに、わざわざ回答するつもりはないようだった。
「・・・秋さんは、私にどうしろって言うんですか。口を噤んでろって・・・・、黙って何もするなってこと・・・?」
「ああ、そうだよ。そうしてほしいよ。まだ、それの方が扱いやすい。」
間髪入れずそう答える秋を、春子は無性に蹴飛ばしたくなっていた。
婚約者だの一目惚れだと訳のわからないことを言っておきながら、春子という人間への信頼はまるでない。そうとしか読み取れない言動をする秋。ある程度わざと自分を苛立たせようとしているような気もしたが、17歳の若さはそれを冷静に分析することを許さなかった。
やっぱり惚れてるなんて、嘘じゃない・・・、このクソジジィ・・・。
「わかりました。以後、余計な言動は慎みます!!!!」
春子はムカムカする気持ちを言葉に乗せて吐き捨てた。
「・・・ああ、頼むよ・・・。」
差し込む光に阻まれて秋の表情をはっきりと見ることはできなかった。春子は、くるりと向きを変え、退出しようと、出入り口のドアの所まで、ズカズカと近づいた。
「秋さん!」
ドアの前でぴたりと止まると、春子は声を張った。
「ん?」
振り返ってみたが、外の光を背に、窓際に佇む秋、やはりその表情はよく見えなかった。
「いーーーーーーーーーだ」
それでも、秋の輪郭がこちらを向いていることを確認すると、春子は自分の後ろの戸を勢いよく開けた。そして、ドアに素早く体を滑り込ませ、外へスルリッと抜け出す。
もちろん、とどめに怒りに任せて、ピシャリとドアを閉めた。
煮えたぎるドス黒いものが春子の心を掻き乱す。
よく覚えのある感情だ。
この後に及んで、無理にコントロールをしようとは思わない。
ただただ、悔しさも追いかけてきて、春子の心を余計に乱す。
だいたい、文化が違いすぎよ、こんなの・・・。
・・・空気ぐらい読んでるのに
何がよくて何がダメなのか・・・、そんなに心配なら、リストにでもして、渡してくれればいいじゃない!!
心には怒りと共に、冷静な自分がひょっこりと顔を覗かせる。
なぜ秋は全然信頼の置けない自分を婚約者としようとしているのか。
どうして、ここまで厳重な監視下に置かれなければいけないのか・・・。
ただ一つ言えるのは、彼は自分を使って何かを成し遂げようとしている・・・そんな曖昧な、しかし確信めいた考察が浮かび上がっていた。
ガラッ!
秋のオフィスまでは廊下を挟んで校舎間の移動だけ、教室に戻るのはそう難しいことではなかった。
「よぉ・・・」
怒りに任せて、勢いよく教室のドアを押しのけた春子を待ち受けていたのは津田要だった。
「あ・・・、津田くん。まだ、帰ってなかったんだ・・・」
「まーな・・・」
要は西日の差し込む教室でつまらなそうにスマホを弄っていた。春子の乱暴なドアの開閉に特に驚いた様子はなかった。教室には他に誰も残っていなかった。
「これ」
要はそう言うと、隣の席に座り込んだ春子にきちんと巻かれた包帯を見せた。
「きちんと治療してもらったんだ。」
「ああ、4針、縫われた・・・。」
「え?????・・・そんな、医療行為していいの?」
「ま、元外科医だし、ずいぶんあっさり縫いやがったよ。」
春子は自分の教科書類をカバンの中に仕まい込むと、要はすでに帰宅準備が整っていつでも帰れそうな状態にあるということに気がついた。
治療が無事終わったことを伝えたくて、残ってくれていたのかもしれない、そう思うと、春子はふと笑顔になっていた。
「あっ、なんか目が赤い。泣いたんでしょ?」
「ハッ、なんでだよ。局部麻酔。」
「麻酔???・・・学校で?
いいの???」
「さあな。」
通常、学校医は医者とは見なされていない。医薬品を出したり、注射したり、診断するなどの「医療行為」はできないはずだ。ましてや、局部麻酔など、学校の保健室に常備すら許されていないはずだった。
ただ、世間一般の常識とはかけ離れているこの学園のことだ。細かく追及するのはやめておこう、春子はそう思った。
この日の帰宅は秋に同行される予定だった。だが、どうにも秋の顔を思い出すとムカムカと腹が立つ。帰り支度はいともあっさりとできたものの、秋のオフィスに戻る気にはなれなかった。
なかなか教室を離れようとしない春子を察したのか、要は八名井の住所を聞いてきた。自分の降りる駅と八名井家がある駅とでは、一駅違うだけで、近いという理由で、要は春子を送って行くことを申し出た。
秋が待っているかもしれないと思うと、少しの罪悪感が過ったが、どうせいろんな人から自分の行動は筒抜けだろうということを思い出すと、春子は、ほんのひとつまみの罪悪感を握りつぶした。そして、要と一緒に帰ることにした。
いつどこで誰かに監視されているのかもしれないと思うと、心穏やかではなかった。
ようやく電車に乗った時点で、自分をつけていそうな人間がいないことを確信すると、ホッと息をつくことができたようだった。
「・・・よかったね。顔の傷もいいみたいだし。」
要は春子を椅子に座らせると、自分は立ったまま近くの手すりにもたれ、傷のある手を隠すように腕組みをした。電車は混んでいるわけではなかったが、要はちらほら見える空席にあえて座ろうとしてはいないようだった。
「ああ・・・。
ついでに消毒されたよ。」
顔の傷は確かに消毒で覆われていて、赤みがほとんど消えていた。
「それって、やっぱり弦のせい?」
要は見上げる春子を下に見下ろすと、同意の、軽い相槌を打った。
「・・・ペグ(バイオリンの上にある黒い回す部分)、締めすぎちゃったの・・・?」
「へぇ、よく知ってんな。」
電車は揺れるが、要は地球の重力も慣性の法則も重力加速度も無視しできるようで、何事もないかのように突っ立っている。彼だけではない、東京人の不思議な能力だ。
「ママの勤める大学って、国内でも有名な音楽院が隣接してるから・・・。留学生のバイオリニストに聞いたことがあるの。」
「ハッ、どこの愛媛の大学だよ・・・。」
要は真面目に思わず吹き出すと、怪我のない手で口を抑えた。
「あっ・・・」
春子も慌てて自分の口を押さえる。どうにも愛媛の出身という設定自体を忘れてしまう。一瞬、どうやって誤魔化すべきか考えたが、何も思いつくことはなかった。
「なんでかは聞かないけど、知られたくないんだろ?気をつけろよ・・・」
「・・・」
「・・・」
「聞かないんだ。」
「聞いてほしいのか?」
春子は不思議そうに見上げる。
要は彼には似合わない優しい眼差しで春子の方を覗き込んできた。
「う・・・ん、・・・どうだろう。そうかもしれない。聞いてほしいのかも。
なんか、日本に来てまだ3日しかたってないけど、無茶振りばかりで・・・、色々隠すのも面倒くさくなっちゃったんだよね・・・。
あれはダメ、これはダメ・・・って、だったら書面にして出してこいってのよ・・・
「まあ、アメリカとは色々違いすぎるもんな・・・。」
「え?
知ってたの?」
春子は改めて要の瞳をとらえた。
「いや、たまたま。
お前が来る・・・前の日に・・・クラス、サボって、屋上で寝てたら、久我と室川が来て、話しているのが聞こえたんだよ。」
要は少し悪いことをした子供のように鼻の頭を指でなぞると、手すりに捕まった。
何か予期するところがあったのだろうか、 電車が大きく揺れた。
要は全ての物理の法則を無視する。しかし、そばで立っていたお姉さんは、物理法則に従うと、要に唐突に寄りかかってきた。お姉さんは慌てて、すみませんと謝ると、近くの吊革に捕まり直した。
「じゃあ、知ってたのに、かまかけたんだ。」
「まぁ・・・そんなつもりじゃなかったけど、結局、そうなったか・・・、
わりぃ。」
「ううん・・・。平気。
そっか・・・、なんかありがとう。」
「ん?」
春子はにっこりして、要を見た。
要はお礼を言われたことに、不思議な感覚と大きなドキリッという心音を耳にした。
「ちょっと気楽になった。うん、たぶん。
久我先生との婚約を隠さなきゃいけないのは理解できるんけど、自分の出身まで隠すのって納得いかなかったんだよね。アメリカ出身だっていうことの、何がいけないんだろう・・・」
「婚約?」
要は再び種類の違った大きな鼓動を聞いたような感じがした。
「うん、言ってたでしょ?」
「あ、いや・・・それは知らなかったわ。」
「あっ・・・」
春子は棒読みで、要に反応すると、視線を斜め上にそらした。
「・・・まぁ・・・、よくある話だよな。」
要は電車の外の流れる景色に視線を逸らすと、当たり障りの返答をしてきた。
「よく・・ある?
17歳に婚約させることが、よくある話なの?」
春子は要に視線を戻すと、真剣に心配になってきた。
「・・・この学校ってなんか異常だよね!!」
ただでさえ、文化の壁を感じているのに、城泉学園はこの学園独特の常識・文化があるらしく、自分が知り得る日本のそれとは大幅にかけ離れている。
「別に・・・、あの、八名井さんと由良島もだろ?」
「ああっと、それは・・・、隆史さんが違うって言ってた・・・かな。」
春子は思わず申し訳ない気がした。
別に本人たちの認識の差は春子のせいだというわけでないが、少なくとも麻耶は婚約を望んでいるように見えたことが、何かしら申し訳ない気持ちを起こさせた。
「へー・・・、複雑だな。」
「だよね・・・。」
電車はようやく一つ目の駅に停車する。
左側の扉が大きく開く。
思ったよりも人が乗り込んできた。
春子は、目の前に妊婦さんを見つけると、何も言わずに立ち上がり席を譲った。
さらに人は押し寄せる。次の駅で降りなければいけないからだろう、要は春子を引っ張って、右の開閉されていない扉へと場所を詰めた。要はどの駅でどちらの扉が開くのかも把握しているようだった。
・・・こっ、これはきつい・・・
春子は、どうしようもないと思いつつも、要に捕まっていた。壁際に押しやられた状況では、これ以上に掴めようがない。
重力に順応な春子は電車が進もうとした瞬間、隣のしらないおじさんに激突しそうになっていた。そうして、要はそんな春子を捕まえると、俺に捕まってろと言って、自分の袖を貸してくれた。
こんなの見られたら、また秋さんにあらぬ疑いをかけられるんだろうな・・・
そんでもって、今度は節操がないとか・・・
ああ、言いたい放題、言われそう・・・
「ま、あの学校じゃ、よくあることだよ。」
春子の思考に被るかのように、要はボソリと呟いた。
「当人たちが納得してんなら、ありなんじゃない?」
さっきの婚約に関するコメントの続きらしかった。
「・・・納得してんなら・・・、ね。」
春子が見上げると、要は精一杯の同情を込めた表情で見下ろした。
春子もそうでしょと言いただげに同意を求める視線を送った。
「複雑だな」
「めちゃ・・・ね」
そういうと春子は思わず吹き出した。前にこんなふうに気楽に笑ったのは、いつだったのだろうか。ほんの数日前までは学校の同級生とふざけていたことを考えると、大した時間が過ぎているわけでもないのに、もうずいぶん昔のことにように思えた。
要は詳細を言える相手ではないのかもしれない。しかし、春子は聞き飛ばしてくれる彼の存在を心強く感じていた。
要はそれ以上何も聞こうとはしなかった。
「それよりも、コンクール、大丈夫なの?」
「ああ、別に、予選は8月、本選は10月だし・・・。まだ、時間はあるよ・・・。出られるかどうかはわからないけど・・・。」
「どうして?」
「よくある話だよ。親父は俺に家業を継がせたい。代々続く家系だから。バイオリンは昔からやらせてくれてたけど、あくまで見場のため・・・。続けてるのが見つかったら、楽器、壊されて終わりだろうな・・・。」
「隠れて練習してるから、学校の時間と被っちゃうんだ・・・。そこまで真剣なのって、すごいね。」
「・・・」
要は自分の下で、蠢く小さなこの奇妙な生物に不思議な感覚を覚えていた。出会ってまだ2日。大した時間を過ごしているわけではないが、今までに感じたことのない心地よさが自分を支配していくのを無視できなかった。
「津田くん、たしか、あれ?
・・・津田くんのお父さんって
・・・議員さんでしょ?」
とぼけた顔をして春子は要を見上げた。
「・・・。」
「津田くんが・・・議員さん????」
「・・・無理があるだろう。」
春子はどうしようもなく笑いが抑えられず、思いっきり吹き出してしまった。
「へへ、津田くん、絶対、バイオリン、続けた方がいいよ。」
「お前なぁ・・・失礼なやつ・・・。」
要は自分に笑顔が溢れそうになるのに、新鮮な驚きを覚えた。