7.良家の子女は暇を持て余す
次の日、案の定、朝の学校は大事になった。
春子は駅を二つ電車に乗り、隆史と一緒に登校して来た。学校は駅から徒歩10分程度の距離にあったが、駅には同学園の生徒が多々おり、すでに何かしらうめき声やらざわめきが発生していた。
隆史は気にするなと言うものの、女子の目は痛いほどに眼光を光らせ、春子に忙しなく恨み辛みの呪文を唱えているかのようだった。
「これが普通なんですか?」
困ったね〜と、諦め顔で笑う隆史は、別に状況を楽しんでいる様子でもなかった。家でいる時の気さくなお兄ちゃんは心なしか顔を硬らせているように思える。
学校に近づくに従って、まるで隆史というモーゼが杖を大きく振り上げ、特殊な文言でも唱えたかのように、道ゆく生徒が両脇を犇く街道が出来上がっていた。大半の学生が敢えて隆史の行手を妨げようとはせず、遠巻きにその様子を崇め奉っているのだ。
「春ちゃん、おはよう。」
そんな中、後ろから春子に声をかけて来たのはクラスメートであり、クラス副委員長の蓼科更紗だった。やっぱり可愛い顔をひょっこり突き出すと、目の前に隆史がいることに気づいていなかったのか、少し驚いた様子だった。
「あ、八名井先輩!おはようございます。」
「おはよう。」
隆史はにっこりと疲れた笑顔を見せる。
「更紗ちゃん、おはよう。」
春子は、なんとなく隆史に同情する思いだった。これだけ周りにさわがれると、疲れて仕方がないのではないかなと思うと、同情せざるを得ない思いになるのだ。
春子は遠慮がちに更紗と挨拶を交わした。
「じゃあ、蓼科さん、春子のことお願いね。」
「あっ、はい。」
「春子、俺、夕方は部活があるから一緒に帰れないんだけど、兄貴が連れて帰ると思うから。」
「そうなんですか?」
「まだ2日目だし、家まで一人で帰れないだろう?」
そう言いながら、軽く手を振ると、隆史は優しい笑顔を残して、前方を歩いていた同級生らしき男子生徒を目指して、小走りで追いかけた。隆史を一目見ようと脇に避け、立ち往生していない生徒達だった。
「なんか、八名井先輩って・・・朝から大変だよね。」
いつの間にか、自分の周りには生徒たちの波が復活していた。ただ、やはり前を行く隆史の進む道は同級生であろう男子生徒以外に邪魔されることはなかった。
「ね、人気者って大変だね。」
そんな平和なことを呟くと、春子は改めて更紗の存在に安心した。
「ってか、八名井先輩が私の名前知っているのに驚いたちゃった・・・。」
「昨日話した時も更紗ちゃんのこと知ってたよ。」
「ええ、そうなんだ・・・まともに話したこともないし、知られてないと思ってた。」
この機に、由良島麻耶が婚約者ではない、との情報を、更紗に入れておこうかと思ったが、麻耶が少々気の毒な気がして、敢えて言うのをやめた。
校舎へと続く歩道を行く徒歩通学生が一定数いる一方で、やはり隣の道路は朝の渋滞時間に入っていた。校舎近くの円形広場を目指して次々と車が学園の校内へと侵入してくる。その速度はむしろ歩行者のほうが速いくらいである。ほぼ、黒塗りの車の窓ガラスから中がうかがえることはなく、誰が乗っているかはわからなかった。
ここは高等部の校舎群が立ち並ぶ敷地ではあるが、円形広場に入る手前には右の体育館の前を抜ける道が続いていた。そこからは、中等部、そしてその奥にはさらに初等部・幼稚舎へと続く道が伸びているのだ。小学・幼稚舎へは南門から、また、中学部へは西門がある。しかし、正門であるこの北門を使う生徒は多かった。また、運動場を挟んだ東側には小さなモールが立ち並んでいる。その上はマンションのような作りになっており、遠方より通学を余儀なくされる生徒のための学校寮となっている。ここ私立城泉学園は都心のど真ん中に位置するいわゆる学園都市なのだ。
春子と更紗はそんな混雑する道の横にある歩道を校舎へ向かって歩いていた。前を歩いていたはずの隆史の姿はすでにどこにもない。
「ここでいいわ。ありがとう。」
円形広場に差し掛かった時、春子と更紗の真横で止まる一台の車があった。にこやかに挨拶をし、しなやかに降りて来たのは由良島麻耶だった。麻耶は春子と更紗を一目すると、すぐに視線を外し、運転手から鞄を受け取った。そして、深々とお辞儀をする紳士を後にすると、迷いなく校舎の方へと歩みを進めていった。
どんっ!
どんっ!
春子は後ろから何かに追突されて、思わずよろめいていた。隣を歩いている更紗も同様によろけていた。このぐらいですっ転ぶようなやわな育ち方はしなかったかが、唐突に瓜坊たちにでも出くわしたかのような衝撃だった。愛媛の山奥で幼少期を過ごした春子は赤ちゃん猪である瓜坊たちのかわいさをよく知っている。そして、その考えなしの勢いにも覚えがある。
「麻耶さん、おはよう。」
「運転手さん、今日も素敵でいらっしゃるのね。」
どこにいたのか、麻耶の取り巻き共が湧き出て来ていた。
「麻耶さん、おはようございます!」
「今日のヘアスタイルも素敵!!」
「もしかして、今日ってクロエ?素敵な香り〜。」
女子達は勝手気ままにおしゃべりに花を咲かす。春子は、静かに、そして、にこやかに笑う麻耶にやはり同情の念を抱かずにはいられなかった。
なんだかんだ言って、この人の立ち位置も隆史さんみたい・・・。
そう思いながら、キャピキャピ女子軍団の中で平静と佇む麻耶をしばし見送った。
この日も、やはり津田要は来ていなかった。春子の右隣は昨日と同様の空席だ。不思議な男の子。根掘り葉掘り事情を知りたいとは思わないが、春子はその空席をなんとなく見つめた。
朝のホームルームの後、教室は心なしか昨日よりもそわそわしているようだった。その原因が何なのか春子はいやでもすぐ知ることとなる。
「The word is usually used to mean one of the three things…, or a mixture of them. Science sometimes refers to a spe..cial um, method of finding things out. Sometimes, um, it means, means A body of knowledge arising from discoveri-es.(この言葉はふつう三つのことのうちの一つ,またはその三つ が混ざり合ったものを意味するために用いられる。科学は,ときには物事を発見する 特別な方法を指す。ときには発見から生じる一連の [多くの] 知識を意味する。)」
二時間目のクラスが始まってすぐのことだった。
担当の金原志保梨が文章を読み上げている最中だった。生徒の一人、また一人と、静かに、クスクスという笑い声を込み上げていた。
「Oh my goodness, that’s awful…(あ〜あ、へったくそ)」
「Com’on…(勘弁してよ)」
「Can’t you pronounce words correctly? Where did you learn that English?(英語の発音まともにできないの?どこで習ったの、その英語・・・?)」
そんなことを言う生徒達は確かに流暢な英語で、無駄なコメントを垂れ流しにした。
金原はおそらく25歳前後で、他のベテラン教師達よりもずっと若いように見えた。新任でも、もう三ヶ月は過ごしているはずであったが、確かに、授業の運びがぎこちなかった。英文を読み上げながら、和訳を解説しているものの、どうにも要領を得ないという感じだ。
「先生、that’s lever [lehver], not lever [leever]! What's wrong with you!? (それは、レバーであって、リーバーじゃないですよね。大丈夫?)」
そう言うと、由良島麻耶の取り巻きの一人、宇多川愛美が、突然、金原を止めた。
ただ、これが初めてではない。
クラスが始まってすでに30分が経過しているが、金原のぎこちない発音をこれ見よがしに直そうとする由良島の取り巻き達のせいで、授業は全く進んでいない。金原のぎこちなさは生徒からの余計な指摘によって、ますます誇張されていくようだった。そして、春子には限りなくどうでもいいことのように思われた。
愛美は麻耶を始めとし、他の取り巻き女子達の同意を得ながら、なぜ金原の発音が可笑しいのかを英語で説明し始めた。
「先生、seriously you call yourself an English teacher?(そんなんでよく自分のこと英語の先生だなんて言えるよね。)」
生徒の流暢な英語コメントが理解できているのかそうではないのか、定かではなかったが、金原は男ウケするであろう可愛いクリクリ目に涙をいっぱいに浮かべているかのようだった。そんな彼女の儚さが彼女らを苛立たせるのか、さらに、口々に英語で金原に詰め寄っていた。
「・・・でも、それってイギリス英語かアメリカ英語の違いじゃない・・・」
秋との誓いに従い、ダンマリを決め込もうと思っていたのに、進まぬ授業にイライラしたせいか、春子は気づかずにボソリと呟いていた。ハッとして、思わず口を塞いだが、春子の呟きは思いのほか大きかったようで、愛美を含めた大半の生徒達は自分を見つめていた。
「What do you know?(あなたに何がわかるのよ。)」
それまで、何も言っていなかった麻耶が流暢な英語を口にしながら、春子を見つめていた。愛美達取り巻きは強い後方支援を受けたのか、同じように英語で捲し立てて来た。
「Yeah, tell me what you mean by that!(そうよ、どう言う意味か言ってみなさい。)」
「Of course, if she can understand what we are saying..., right? (私たちがなんて言ってるのかわかってるんだったらだけどね)」
すでにほぼ全員の生徒の視線が自分に向けられていた。しまったと思いつつ、引き下がれない状態を観念すると、春子は腹を括った。
「だって、lever を leever と発音するのはイギリスなら普通でしょ?英語の発音なんて多種多様なわけだし、その微妙な違いをどれが正しいか問答するなんて、意味ないでしょ・・・」
ふとそんな無意味な押し問答を楽しんでやっていた両親を思い出すが、棚に上げることにした。
「それでも、どっちが正しいかって厳密に言うんだったら、イギリス英語のほうじゃない。英語っていうくらいなんだから、あっちが本場だし・・・」
思わず、英語の「英」のところで、カニさんのような動作、両手の人差し指と中指を二本くっつけて、その指をクイックイッと2回曲げるジェスチャーをしそうになっていた。これは、外人すぎるのではないかと気づいたが、時すでに遅しとはこのことで、春子は、すでに自分の両手を胸元まで上げていた。そして、できる限りさりげなく、その両手を拳に変えると、胸元に引きつけ、頬杖をついて誤魔化した。
「What? How dare you!! (なんですって、よくもそんなことを!!)」
「What are you… !!(何を・・・!!)」
憤慨する愛美ら取り巻き女子達だったが、その怒りは「ふーっ」とオーバーに一呼吸置く麻耶に邪魔された。
「It seems she got a point…(まあ、そうなんじゃない)」
麻耶は何事もなかったかのようにボソリと呟いく。
その呟きが、意外すぎて、春子は少し麻耶を見つめた。麻耶が改めて春子を見ることはなく、その背中から怒りを発している様子でもなかった。
「先生、さっきの文、SVOCとおっしゃっていましたが、もう一度説明していただけますか。」
張り詰めた空気の中に、颯爽と助け舟を出してくれたのは海斗だった。
「い、四宮くん?」
「さっきの構文なんですが、つまり、第五ということですよね。でも、この場合、SVOOとも取れるんじゃないでしょうか。」
海斗は、自分の疑問点を要領よく再度まとめると、金原はホッとした様子で、授業へ戻っていた。日本語で文法を説明する彼女はまるで水を得た魚のようだった。
「あの子、どういうつもりなのよ・・・。」
休み時間に入り、突然、春子の耳には愛美の大きな独り言が耳に入って来た。
「あんな偉そうなこと言うからには、大した英語力なんでしょうね」
「まさか在米4年の李梨花や愛美に敵うわけないじゃない。」
「麻耶さんだって、ロサンゼルスに5年も住んでたのよ。TOEICなんて、中等部の時点で、900以上もあったらしいし。」
「うちに編入してんだから、最低でも700はあるんだろうけど・・・。」
「どうかしら、八名井の後ろ盾があるんだから、編入試験なんてまともに受けてないんじゃないの。」
「言えてる・・・クスクスッ」
春子は自分のことが話されていることに気づくと、複雑な気分で天井を見上げた。そして、見上げる最中、前の方で、心配そうに覗き込む更紗を見つけた。
「気にすることないよ。」
海斗がどこから現れたのか、春子の頭上に現れると、そっとつぶやいた。
「四宮くん・・・」
「ねっ。」
別に愛美達の戯言を気に留めるつもりはなかったが、海斗の心遣いは、それはそれで可愛いし、ありがたいなと思い、春子は笑顔を返した。
「ありがとう。」
「由良島さん達、あまり金原先生のこと好きじゃないみたいだから、とんだとばっちりだったね。」
「・・・なんで、あんなに意地悪なの・・・?」
「いや、僕も、そこまでは・・・」
「多分なんだけどね・・・」
そうして話を切り出して来たのは先ほどまで前方に座っていた更紗だった。要の席にいつの間に着座したのか、頬杖をついて春子と海斗を見つめていた。
「・・・あの先生、海外の院卒らしくて、今年教職に着いたばかりなんだけど、張り切ってたんだよね・・・。で、新学期そうそう、麻耶さんの文法の間違いを指摘しちゃったでしょ・・・。」
海斗にもその話が思い当たる節があるようだった。
「あの子、確かに英語はうまいし、今までも結構、英語の先生泣かせって言うか・・・。でも、金原先生、新人で張り切ってるから、小さな文法の間違えをみくびっちゃダメだみたいな感じで、お説教しちゃって・・・。」
「まぁ、それが仕事だもんね・・・。」
教師が当然の仕事をした、春子にはそうとしか思えなかった。別に英語が母語だからと言って、文法が完璧なわけではない。それは、英語が母語の春子にとってはそれは当然の認識だった。日本人が国語を勉強するように、英語を勉強するわけで、春子は自分の英語のクラスの成績があまり芳しくないことを思い出した。
「まあね、でも、麻耶さんを始め、海外在住組はプライド的に許せなかったんじゃないかな・・・。小さい頃から英才教育も受けて来たわけだし。」
「海外在住組?」
「そうそう、あの子達、両親の海外赴任で、ほとんど在米期間が3年以上あるらしいのよ。そもそも親の海外赴任って栄転だし。」
「へ〜・・・。」
「なんにしても、柏瀬さん、由良島さん達の機嫌を損ねないほうがいいよ。」
「そうなの?」
「うん、ややこしいって言うか・・・。百害あって一理なしって感じよね、四宮くん。」
「・・・そうだな。」
「そっか・・・じゃあ、直接、話してみたほうがいいのかな。」
「春ちゃん?」
「柏瀬さん、人の話聞いてた?」
「だって、まだきちんと知り合ってもないのに・・・なんか、特に由良島さんはなんか違う気がするし・・・」
「違う?」
「どいてくんね?」
更紗と海斗と三人で話し込んでいるはずが、突然、知らない低い声が頭上から降ってきた。
ようやく登校して来たのか、頭上から春子と更紗と海斗の三人を見下ろしているのは津田要だった。要は海斗よりも頭ひとつ背が高かった。
「あ、ごめんなさい。」
更紗はそそくさとそこを席から立ち退くと、春子に「また後でね」と視線を送り、自分の席へと帰っていた。さっきまで自分の後ろに立っていたはずのカイトの姿もそこにはなく、彼も自分の席へと帰っていくところだった。
「おはっ・・・」
予期せぬ要から挨拶に春子は、少し驚いた。
「うん、おはよう。」
目頭の擦り傷も口の傷も昨日と比べるとだいぶ良くなっているようだ。
「津田くん、昨日は帰っちゃったんだ。」
「まあ」
「忙しいの?」
「まあ・・・な」
「大変だね」
「まあ」
乱暴に机に鞄を置きながら、椅子に座ると、特に春子との会話に興味もなさそうに、要は上の空で返事をして来た。春子は、ふと、この無口な少年ともっと話がしてみたくて、揺さぶりをかけてみようかなと考えていた。
「そっか・・・忙しいんだ・・・、コンクールか、何かで?」
要はギョッとして、春子の方を振り返ると、周りが自分たちの会話を聞いていないか確認するためにキョロキョロと当たりを見渡した。誰も春子と要の会話に聞き耳を立ててはいないようだった。むしろ、その教室の一部には、容赦無く要に話しかける春子を敬遠してか、春子と要を取り巻く空白の空間が出来上がっていた。
「ちょっ、ちょっと来いよ。」
要は思い切り春子の左手を掴むと、そのまま教室の外へと連れ出した。教室から少し離れ、教室の生徒からの死角に入ると、要は春子を壁際に追い詰めた。
あ、壁ドンだ・・・
壁に寄りかかり追い詰める要を春子は興味津々に見上げた。
「なんで・・・あんなこと・・・」
「あんなことって、何か変なこと言った?」
「さっき、コンクールって」
ドギマギしながらも威圧をかけてくる要だったが、春子はふと、自分の顔のそばにある彼の手に包帯が巻かれていることに気がついた。
そして、ほんのりと香る血の匂い。
「・・・これ!・・・怪我しちゃってる?・・・保健室に行こう!」
春子は思わず、要の右手を握る。
「っつぅ・・・、別にこのぐらい大丈夫だよ、お前、離せ・・・」
振り解こうとする要だったが、うまく力が入らないようだった。その証拠に、春子の非力な握力で、彼の手を握ったままにしておくことができていた。
「ダメだよ。大切な手なのに」
春子は要の手首を握り直すと、無理矢理引っ張って壁際から押しのけた。
「おい、そこの二人、どこに行くんだ、もうすぐ授業だぞ。」
声をかけて来たのは秋だった。少し息の上がった様子の秋は、春子と要に詰め寄ろうと近づいて来ていた。
どことなく怒っているように見えるが、現状、目の前にいる怪我人を放り出すわけにはいかない、春子は一種の使命感に駆られると、秋が来ている逆方向へ方向転換しながら、秋に向かって声をかけた。
「先生、この人、怪我してて・・・だから、保健室、連れていって来ます。」
そう言い残すと、後ろに迫り来る秋を無視して、そのまま要を引っ張った。急いで、要の傷に触らないように手首を支えると、春子は要を夢中で引っ張りながら階段を降下していった。
授業の始業を伝えるチャイムが廊下に鳴り響く。
そして、それは春子と要の大きな足音を消し去ってくれていた。
「お前、保健室の場所なんてわかんのか?」
ちょうど一階まで降りた時、要が笑いを堪えた様子で、春子に話しかけた。
「あっ・・・」
春子はようやく冷静さを取り戻すと、右を見ても左を見ても、自分が今どこにいるのか検討がつかないことにようやく気がついた。
「お前、なんで分かったんだ?」
階段を降りたところで、立ち止まると要がそう聞いて来た。
「保健室?」
「アホか。それはわかってねーじゃん、・・・そうじゃなくて・・・」
「ああ、だって、その首筋・・・。そもそも私があなたに話しかけようと思ったのだって、そのせいだから。そうじゃなかったら、話しかけて欲しくなさそうな人に話しかけないよ」
「これか・・・誰も気づいたことなかったんだけどな・・・」
要は傷のない方の手で首筋の字を覆った。
「うん、向こうの知り合いの人に、結構そのぐらいやってる人がいるから、分かったの。」
「向こうって?愛媛に?」
「いや・・・愛媛・・・あの、あう、うん、まぁ。」
春子は要同様に首筋に字を持つ知り合いを思い出していた。ただ、自分が愛媛の出身だと言う設定になっているのは忘れていた。滞在期間は短かったけど、愛媛では見たことがない。そう思い動揺しつつも、まぁ、バレはしないだろうと思い直した。そんな字を持った人たちはアメリカの母の大学にいた学生達のことだ。
「誰にも言うなよ」
「反抗期?」
「っふ、それ、好きだな。でも、まぁ、そんなもんかな・・・どうなんだろう。」
春子がからかうようにそう言うと、要は自分を恐れない奇妙な転校生と対峙するのがアホらしく感じ、素直にそう返した。
「このぐらい大丈夫だから。お前、教室、帰れよ。」
授業が始まったため、静けさで包みこまれた廊下。
要は春子に余計な手間を取らせていることを思い出した。
「だめよ。手の怪我を甘くみて、できなくなったら、どうするの?あの校医じゃ、頼りないけど・・・見てもらわないよりはいいと思うよ。」
「ずいぶん失礼だなぁ。」
随分タイミング良く、しかし、足音もなく背後に立っていた。
校医の室川だった。秋の大学時代の友人で、秋の事情を事細かく把握している唯一の男性だ。室川正樹は旧華族・室川家の御曹司、もちろん城泉学園の卒業生だ。室川に関わらず、ここの教師は卒業生が大半を占めている。秋も例外ではない。室川は当初外科医を目指していたらしいが、何かの手術に失敗し、それ以降メスが握れず、医師の道を断念、現在学校医の職についている、というのが、更紗による情報だった。
「柏瀬さん、津田くんは僕に任せて、早く、教室に戻りなさい。」
いつから春子達の会話を聞いていたのか定かではないが、室川は全てを把握しているようだった。そして、室川は春子にそう促すと、有無を言わさず、要を連れて保健室へと続く廊下に消えていった。
一体何をどうしたらこうなったのかはわからない、決して地理感覚が優れているとは言えないが、ここまでダメだとも思ってはいなかった。そう、春子はいつの間にか見事に迷子になっていた。
どのぐらいこの辺りを徘徊したのだろうか、何度やっても元いた教室へと続く階段が見つからない。上に上がるが、また知らない間に下に降る階段に行き着いてしまうのだ。
同じところをぐるぐると回っているようで、この迷いの森から抜け出せないでいた。
ようやく、見慣れない景色に差し掛かったと思った今、春子の目の前にあるのは立ち入り禁止と言われた生徒会の特別室だった。
どうしよぉ・・・変なところに来ちゃった・・・
春子は目の前に貼られた「一般生徒立ち入り禁止」の文字を見つめていた。厳重に物々しく閉じられた両開きの扉。ここまで、あからさまに『入るな』と言われると、人間の心理としては入ってみたくなってしまうのではないだろうか、春子は自分がすっかり迷子になっていることを無視して、ふと考えをめぐらせていた。
とりあえず、緊急事態だし、だれかいるかもしれないし・・・。
中から人の気配がするというわけでもなかったが、春子は誰か助けてくれる人がいないかどうか確かめるために、この両開きの扉を押してみることにした。
扉には鍵がかかっていない。
開けるな、入るなと言う割には随分不用心である。
キィーーーーーーーーーィ
高音の不気味な軋む音が響き渡る。
この校舎は随分新しい建築物なのに、この扉はことのほか建て付けが悪いようだった。
扉の向こうには、木造の建物となっていた。随分年代物なのか、建て付けの悪さの原因はどうやらこちら側にあるようだった。広々とした廊下は大きな窓を背に螺旋状の階段で上へと繋がっていた。いくつかの部屋があるのだろうか、ドアがいくつか立ち並んでいた。その螺旋階段の行き着く先には一際大きな両開きの扉が再び静かに佇んでいた。
「そちらは立ち入り禁止ですよ。」
後ろから聞こえた声は、春子の肩を掴むと、グイッと後方へ優しく引き寄せた。黒のスーツにこの薄暗がりの廊下でサングラスをかけているガタイのいい男性は、春子の体を自分の脇に抱え込み、ヒョイッと持ち上げると、そのまま扉を閉めた。
耳からは何か通信機のようなものが見え隠れしている。どう見てもいわゆるSPの人のようだった。
SPのお兄さんは持ち上げた春子を軽々と自分の後ろに置くと、ドアに鍵をかけた。
「はい、いらっしゃいました。教室までご同行いたします。」
SPのお兄さんは首から垂れ下がるインカムにそう誰かに報告すると、無言で春子を先に進むようにと促した。導かれるままに春子はお兄さんの後をおとなしく付て行くことにした。
SPのお兄さんは、春子が先ほどからグルグルと回っていた階段がある場所を少し進む。その先には別の階段があり、それを登るようにと春子を促した。
確かに、そこの先には見慣れた廊下、そして自分の教室があった。
「あの、すみませんでした。ありがとうございます。」
春子は軽くお辞儀をして、お兄さんを見た。やはり無口なお兄さんは春子に返答することなく、春子を確実に教室前まで見送ると、徐に姿勢を後退させ、そのまま元来た廊下をグングンと戻っていった。