6.転入生と不良少年
転入生というイベントはこんなにつまらないものだったのだろうか。ふと、予期せぬ光景に春子は首をかしげた。
誰かが教室の戸口から覗いて、「転校生が来たぞー」と騒ぐわけでもなければ、廊下に広がるソワソワした感覚もない、教室からどんな生徒が来たのか一目見ようと、顔を出す生徒もいない。そしてもちろん、春子を審査した上で、それに伴う高揚感も落胆の様子も伺えない。
通常運転の平和な教室へと入ると、担任の前山康義は春子の名前と出身地をクラスに告げると、そのまま春子を廊下側の最後尾の席へと着席させた。
春子の左の席は空席、前の席の男子は気に止める様子もなく黙々と教科書を睨む。左斜め前の女子も行儀良く前を見据える。
担任の前山は40代後半、黒縁メガネに七三の前髪にしている、絵に描いたような平凡な男性だ。平凡をこよなく愛し、平凡以上も以下も求めない、平凡をモットーとしたような教諭。そして、担任は何事もなかったかのように、そのままホームルームをこなし始めた。担任同様、生徒達もさほど転入生というイベントに動じる様子はなかった。よって、多少の視線は感じるものの、こんな状況にありがちな全身を舐め回すような好奇の目に晒されることはなかった。
小学生の頃、愛媛の学校に体験入学に行ったときはいつでもお祭り騒ぎだった。
都会では転入生はさほど珍しくないのかな・・・。
目立たず・問題を起こさない、という曖昧な誓いを秋と約束した以上、恒例の質問攻めをどうやって回避するべきか、一瞬頭を悩ませた自分がアホらしいほどだった。
担任、Good jobというべきか・・・。
「四宮くん、蓼科さん、よろしく頼みますね。」
ホームルームが終わりを告げると、担任は教室を見渡しながら、生徒二人にそう呼びかけた。すると、前方に座っていた男子と春子の二つ前に座っていた女子が反応し、立ち上がった。
「柏瀬さん、委員長と副委員長ね、二人からいろいろ教わって。」
二人が担任に会釈をすると、担任はそそくさと教室を立ち去った。先程、理事室に迎えに来た時もそうだったが、この担任は小動物のような動きが好きなようだ。おどおどした印象があるというわけではないが、小太りな体のわりにはずいぶん小回りが効く。
四宮と蓼科と呼ばれた生徒は、お互いに目で合図するかのように、目線をかわすと、続け様に、春子を見た。
あ、目があった・・・
二人はにこりと笑うと、春子の方へと近づいてきた。
「柏瀬さん、僕は委員長の四宮海斗です。よろしく。」
海斗は短髪にきっちりと制服に身を包んだ、清潔感あふれる男子だった。ネクタイを緩めることもなく、また比較的暑い今日でも長袖の袖口を捲り上げるわけでもない。学校のパンフレットに出てきそうな男子学生。ちょっとアンバランスだと言えるのは真面目な委員長が選ぶとは思えないおしゃれメガネだった。
「副委員長の蓼科更紗です。」
更紗はきっちりと髪を後ろで束ね、前は両分けに流している。目は綺麗な切れ長の二重で、小ぶりの鼻、ふっくらとした唇。中華美人のような風貌だった。やはり委員長らしく、特に改変することもなく、可愛らしく制服を着こなしている。もっとも、この学校の女子は特に制服改良には興味がないらしく、右を見ても左を見ても、誰もが卒のない着こなしをしていた。
「どうも・・・よろしくお願いします。」
春子は思わず手を差し出す。と同時に、二人の少し躊躇うような反応を感じ取った。
ああ、普通、握手ってしないんだっけ・・・
差し出された手が虚しく空気の流れを掴む。春子はできるだけさりげなく手を頬へと流し、誤魔化した。
「同級生なんだから、気軽に頼ってね。」
春子の意図を気づいてか気づかずか、それはわからないが、海斗は可愛い八重歯を口から覗かせた。
「ありがとう。」
「お昼休みに、校内、案内するね。」
更紗もそういうと可愛らしい顔をいっそう可愛らしくしてみせた。
特に根掘り葉掘り、何を聞かれるわけでもなく、業務連絡を終わらせると、二人は自分の席に戻っていった。
意外に平和そうだ・・・よかった・・・。
春子は深く息を吐きながら、漠然と安心すると、一限目の準備のために、世界史の教科書を取り出した。
ザワッ
廊下で突然ざわめきが起こる。おそらく隣の教室からだ。教室にいた生徒達は、一人、また一人と、ざわめきに注目をし始めていた。
エエェ
キャッ
心なしかかすかな悲鳴すらしているような気がした。来たばかりの自分には特に関係がないだろうと、春子は廊下側に座っているものの、あえて教室の外を覗こうとは思わなかった。
前方の窓際に座っていた女子二人がふと廊下を覗くと、やはり悲鳴に近い感嘆の声を発した。
「マヤさん、先輩よ!こっちにいらしてる!!」
「どうしよぉ〜、朝から先輩のお姿、拝見しちゃった!」
教室奥の窓際で、いく人かの生徒が談笑していたが、その輪の中心にいた女子が反応した。
「え?」
少し赤茶色がかかったサラサラの髪が、彼女が振り返ると同時に、肩からこぼれ落ちる。マヤと呼ばれた少女は、そっと耳に手を当て、髪をかき上げた。赤茶色の目に、鼻筋の通った整った顔はハーフであるといわれても不思議ではなかった。
マヤは周りの生徒からなにがしか羨望の眼差しのようなものを集めていた。
「どうされたのかしら・・・失礼。」
彼女はそう言いながら、厳かに椅子を立つ。急ぐわけでもなく、ゆっくりと、教室の戸口に向かっていく。すました顔をしているものの、何やら選ばれたかのような意気揚々とした歩みを見せた。内心穏やかではない、そんな足取りで、戸口の向こうへと差し掛かる。
女子達の戦々恐々とした吐息は悲鳴にも似たものがある。もちろん、恐怖のものではない。どちらかというと、そう、憧れのアイドルを目の前に狂ってしまったかのような悲鳴だ。
「・・・さん、ごきげんよう。私に何か?」
「いや、転校生、あの、春子いるかな?」
マヤを無視して、そう言いながらクラスを覗いてきたのは、隆史だった。
マヤは呆然とするも、振り返ると、一瞬で教室の後ろにいる春子を見つける。教室内外の女子からは動揺が湧き起こっていた。
「・・・隆史さん」
ボソリとつぶやいた春子の周りに、さらなる、どよめきが響く。自分が何かおかしなことを言ってしまったのか心配になる程のどよめきだ。
前方にいる海斗と目が合う。その目はメガネに曇り、表情を推し測ることはできない。二つ前の席の更紗も他の生徒同様、春子を見つめていた。ただ、その表情はどちらかというと心配しているようだった。
「隆史さん、どうしたんですか。」
クラス内外の生徒が硬直している間に、隆史はマヤの視線の先にいる春子を見つけると、教室の後ろのドアのところまでやってきていた。
「ごめん、春子。これ、教科書、間違えてて、こっちが君のだった。」
隆史の手には、世界史Bと表題された教科書が収まっていた。自分の手に持ってあるのは日本史Bと書かれている。
「あ、すみません。もしかして、じゃあ、こっちが隆史さんのですか。」
「そうそう。わるい。始業だから、また、後でな。」
「いえ、こちらこそ。すみません。」
春子は颯爽と立ち去る隆史を少し見守った。先程、廊下で蠢いていたあの異常な歓喜・感嘆・悲鳴・吐息はなんだったのだろうか。廊下には既に人の姿はなく、遠く離れた位置に先生と思われる人たちが一人、また一人と、移動しているのが見えた。
春子も自分の席に座ろうと、教室側に振り向くと、目の前の視界が遮られた。自分の周りを多数の女子が群がっていたのだ。
女子達は言葉にならない声を握りしめ、春子ににじり寄ってくる。
「?」
一人の女子が言葉を絞り出す。
「どういう関係?」
「?」
「八名井先輩と・・・」
別の女子に言葉が渡される。
「え・・・っと、お世話になってるおうちの息子さん・・・?」
張り詰めた空気がパシンッと音を立てる。
声にならない声が当たりを包み込む。喜びとも苦しみと言えない呼吸とあわせて、少女達の瞳はかすかに涙すら浮かんでいるようだった。
「お世話って・・・?柏瀬さんは、八名井家にいるってこと?」
「ええ、まぁ・・・」
女子の金切り声が響き渡る。
「うそでしょぉ?」
「なんで???ひどいぃ!!!」
「やだぁ・・・・。」
「先輩が、そんな・・・」
女子達は口々に勝手なことを口走る。
「一緒に住んでるってこと?」
「そう・・・だね。」
春子は、そう言う設定でいいのかなぁと考えつつ、慎重に答えていった。静かに頷く春子だったが、女子達はあきらかにやり場のない妬みを目に浮かべている。
これは設定的に目立つなと言うのは無理なのではないか・・・春子はそう思い始めていた。あくまで自分のせいではないが、隆史が注目を集めてしまっている時点でどうにもならない渦の中に落ちてしまっている気がした。
「なんで!?」
「親同士が知り合いで・・・」
「何をやっているんですか!!!いつまでも。始業ですよ、席につきなさい!」
担任、Good job・・・。
蜘蛛の子を散らしたように、ササーッと生徒達が波を立てる。女子の威圧感から解放された春子はそっと心でつぶやいた。
「ねえ、柏瀬さん、ちょっといいかしら。」
一限目のチャイムがなり終わるか終わらないかのうちに、そう声をかけて来たのは、マヤと呼ばれた少女の周りでキャピキャピはしゃいでいた少女だった。もちろん、その後ろにはさらに四人の取り巻きが同行している。
「次は化学室へ移動よ。」
「私たちが同行して差し上げようと思って。」
取り巻きの一人がしゃしゃり出て、春子を見下ろす。どう好意的に解釈しても親切心ではなさそうだ。笑顔でいるようで、誰も目が笑っていないのなだから。
「いや・・・」
春子は胡散臭いこの誘いは丁重にお断りしないと面倒なことになりそうだなと思った。
「ちょっと、こっちの好意を断るつもり?」
いち早く春子が断りそうだと察知したのか、別の取り巻きの一人が粋がって詰め寄ってくる。春子は圧迫感と同時に苛立ちを覚えていた。
「私に選択権がないんだったら、それは好意とは言えないでしょ?」
丁重にお断りするつもりが、口からはなんとも喧嘩腰なコメントが飛び出していた。
「なっ!」
「ちょっと、何をやっているの?」
後ろから姿を表したマヤは、静かに、落ち着いた声で取り巻き達を静止した。
「だって、八名井先輩のこと納得いかないじゃない。マヤさんがいるのに・・・」
「そうよ、マヤさん、こんな子が八名井先輩のそばにいるなんて、許せないでしょ?」
「そうよ、納得いかないわ。」
雑音に囲まれながらも、マヤは静かに春子を見下ろした。何を聞きたいのか、悲しいぐらい想像がついてしまう。
春子はスクっと席を立ち、マヤと対峙すると、さらにその後ろから自分に迫り来る女子達を見つめ返した。
「隆史さんはお世話になっている家の息子さん、親戚。今朝、初めて会って、学校に行く準備を手伝ってもらった。一緒に住んでるっていっても、別に他の人もいるわけだし、広い屋敷で、隆史さんの部屋がどこにあるかも知らない。要するに、親戚のお兄ちゃんというだけ。それ以上も以下もない。他に質問ある?」
そう早口でまくし立てる春子の勢いに、取り巻きの女子達は大人しくたじろいだ。
「いえ、特に・・・。」
「ナイデス。」
「・・・」
マヤはやや冷静に静観を決め込んでいるようだった。
「用事がおわったのなら、行きましょうか。」
取り巻き達の後ろで見守っていた更紗が割り込んで入ってくると、春子を教室から連れ出そうと春子の手を握り、集団の中から解放してくれた。
「いいわよね、由良島さん。」
更紗はそういうと、マヤを見つめた。
「もちろんよ。この子達が、失礼したわね。」
そう言うと、マヤはそのまま教室を出て行った。取り巻き達もバタバタと彼女の後ろを追いかける。
化学室は別の棟にあるらしく、少し歩く必要があった。
「・・・蓼科さん」
「ああ、更紗でいいよ。春ちゃん。」
「ありがとう、更紗ちゃん・・・。あれ、何だったの?」
「八名井先輩のファンよ。といっても、由良島さんはちょっと別かな・・・。」
「由良島さんって?」
「ほら、ハーフみたいな子、由良島摩耶。」
「あああ、ハーフじゃないんだ。綺麗な人ね。」
「生粋の日本人らしいけど、私も高校になって初めて同じクラスになったから、彼女のこと、あまり知らないの。」
「そうなんだ。たか・・・八名井先輩の彼女か何かなの?」
「どうなんだろう、幼なじみで婚約者って噂はあるけど、詳細は知らないわ。ま、家柄的に彼女だったら、みんな認めるしかないしね。」
「家柄?」
「そのうちわかると思うけど、この学校ってちょっと特殊でしょ?中高一貫・・・まあ、ほぼ、幼稚舎から一緒だったりするし。私は中学からだけど。それなりの財力がないと入れないし。一般学生なんてスポーツ科の特待生くらいだし。だから、子供同士の友人関係にも親の社会的地位とか会社関係とかが色濃く反映されるのよ」
「・・・そうなんだ。それって、すごい面倒くさいね・・・。」
春子のコメントに、更紗は静かに笑った。
「春ちゃん、うちの学校のこと、知らないの?」
「うん・・・全然。昨日、にほ・・・東京に着いて、今日から学校行ってこいって感じで・・・。」
「そっか、大変だね」
「うん、かなり大混乱中。」
更紗は可愛い笑顔で春子に同情した。
「そっか、なら、由良島さん相手にああでも仕方ないか・・・。」
「ダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど、誰も彼女に言い返せないから・・・。親の立場を考えるとね。あ、でも、八名井にいるんなら、関係ないか・・・。」
「ある程度大きなお家だとは思ってたけど、八名井って何なの?久我のお家が大きな貿易会社で、八名井は分家だってことは知ってるけど・・。」
「分家って言っても、もともと八名井は伝統ある名家だから、その昔、吸収合併か婚姻関係かで久我と結びついたって聞いたけど・・・。由良島はその八名井と肩を並べるくらい久我との関係が深いの。久我の右腕が八名井なら、左は由良島なんじゃないかな。だから、当然、由良島の一人娘と八名井の一人息子が婚約してても全然不思議じゃないでしょ?で、周りにいた子達は親が由良島産業の重役なんだって。」
春子はちょっとうずくまって立ち尽くしたい気持ちになった。情報が多すぎるし、何より春子の知っている日本の社会とはずいぶんかけ離れているのだ。
「なんか漫画の世界みたいだね。今どき、親の家柄とか、しかも、婚約っ???」
自分が婚約事件に巻き込まれているのを棚に上げると、春子は違和感を更紗にぶつけてみた。
「そうだよね。なんか、時代錯誤な感じするよね。でも、ここの学校じゃ、結構よくあることなんだよ。財界の人とか、政府関係の人とか、元家族だの、そういう家柄の子供ばかりだから。」
「すごいね・・・更紗ちゃんは・・・いるの?」
「婚約者?いや、うちはない。別に、由緒正しき家ってわけじゃないから、関係ないかな。」
「八名井先輩は、じゃあ、家柄がいいから、あんなにみんな騒いでたってこと?」
「えっ?違うよ。確かに名家の一人息子っていうのは魅力的だけど、やっぱりあの容姿だもん、かっこいいじゃない。推しの子、多いよ。」
「推し?推しって何?」
「?憧れの人っていうか、すっごい好きすぎて崇拝してるっていうやつ。」
「かっこいいの?」
「かっこいいでしょ?」
「・・・」
「・・・」
「あ、着いた。」
女子トークというのはいとも簡単に時間を押しのけてしまうようで、二人はいつの間にか化学室に着いていた。ほぼ埋まった席から空席を見つけると、春子は大きいため息と共に席についた。
隆史さん・・・確かにかっこいい・・・かぁ・・・。
普段、アメリカで色々な人種に囲まれていると、正直、かっこよさの基準がよくわからない。特に春子は育っていく中で、自分の幼馴染と思える友はほぼ白人・黒人だ。常に一緒にいる日本人は父親もしくは留学生の年の離れたお兄さん達、そして遠く離れた愛媛にいるやっぱり歳の離れた従兄弟達だけだった。日本人のかっこいいという基準を推し量るにはサンプルが少なすぎる。
あれだけ騒がれるんだから、よっぽどかっこいいんだろうなぁ・・・知らんけど・・・。これって、むしろ、久我でお世話になってるって言った方が良かったんじゃないのかな・・・。
今更・・・、視線が痛い。
目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、女子達の視線はずいぶんうるさかった。
ガラッ!!!
「津田ぁ、お前はまた遅刻か。いい加減にしないと落第だぞ。早く座れ。」
それは4限目を迎えた時だった。移動から帰って、4時限目を迎えた春子達は国語の授業を受けていた。もう、クラス開始より15分が過ぎている。
津田と呼ばれた男子生徒は、何も言わず、だるそうに、春子の方へと目線を送った。別に春子と目線を合わせようとしている様子ではない。そのまま視線を落とすと、春子の方へ向かって歩いてきた。
津田は他の生徒とはずいぶん毛並みが違っていた。前髪は風に煽られたかのようにかき上げられ、前髪は周りの黒髪よりずいぶんと色が抜け、茶白がかっていた。両方の耳にはピアスが3つ、目鼻立ちはうっすら化粧でもしているかのようにくっきりし、制服のシャツは慌てて着込んだのかやたらはだけていた。
隣に近づいてきた津田の左顎下には、赤黒い字があるのが見えた。目頭付近と唇は切れているのか、少し赤黒く腫れ上がり、少し血が滲んでいた。
津田は一瞬、春子の視線に気づいたが、すぐに目線を外すと、乱暴に着席した。
少し気になったのか津田は春子に視線を戻す。むしろ睨みつけているようすではあったが、不良という文化圏に育っていない春子は、睨みつけられているとは思えず、にっこりと微笑みを返した。
「よろしくね」
ザワッ
国語を教える田上春彦は淡々と授業を続ける。しかし、春子を取り巻く空気は多いに揺らいでいた。
津田からの返事はない。
ん?
春子は津田を少し覗き込む。
津田は教科書を開ける様子もなく、子供のように不貞腐れた様子で座っていた。
「あの、転校してきたの、よろしくね。」
そう言う春子に津田はめんどうくさそうに視線を向ける。
「話しかけんな、ブス。」
間髪入れずに、ゆっくり開かれた津田の滑らかで血の滲む、艶やかな口からは、理解できない言葉が静かに発せられた。
「・・・」
「・・・」
先生の読経だけが教室に響き渡る。
「ガキ」
春子がそう言うと、周りにはサァ〜ッという引き波を思い起こさせる音が流れたようだった。
津田は予想外の春子の反応に驚いたのか、春子の方を見つめた。
「反抗期・・・なんでしょ?」
春子はにっこりと最高の笑顔を津田に送ると、津田から視線を外して、前を向き、このつまらない授業を聞くことにした。
クラスが終わるチャイムの音が響くと、春子はなんとなく津田の目線を感じた。こっちを見ている様子はない。
「・・・ねえ。」
頬杖をしたままだったが、ピクリと津田の視線が動くのが見えた。
「・・・」
「これ、長いの?」
春子は自分の首を指差しながら、津田に話しかけた。ちょうど津田の顎下の赤黒い字の部分である。
「・・・」
春子の質問の意味がわからないと言った様子ではなかったが、津田は驚いた様子で春子を見ると、返答に困っていた。
「ダメだよ、こいつに関わっちゃ。」
津田の口が少し開いたかと思ったが、その声は、津田のものではなく、委員長の四宮海斗のものだった。
自分を見下ろす海斗を、津田は興味なさそうに睨みつける。ちょっとした緊張感が空気中を漂う。睨み返す海斗を無視すると、津田は乱暴に立ち上がり、そのまま教室から出ていった。
「委員長・・・」
春子は嗜めるように海斗に声をかけた。
「海斗でいいよ。」
海斗は嗜められたとは受け取らなかったようで、平然と春子に返答した。
「春ちゃん、私、お昼休みに生徒会から呼び出されて・・・四宮くん、代わりに案内お願いできる?」
「生徒会から?・・・わかった、いいよ。」
更紗は二人を見つけて、そういうと、イソイソと廊下へ出ていった。
校舎の案内を兼ねて、別の塔にある食堂件コンビニに連れて行かれると、春子はそこの食堂で海斗と昼食を済ませた。
特に春子が聞いたわけでもなかったが、海斗は津田要という人物について説明してきた。学園始まって以来の不良で、どんな校則違反も、親が大物政治家かなんかで先生達から注意を受けることもなく、暴力沙汰やカツアゲなどやりたい放題だとかなんとか、海斗はツラツラと情報を垂れ流してくる。要するに、近づかないことに越したことはないのだと力説する海斗だった。
「へ〜・・・不良には見えなかったけどなぁ・・・。」
「見えなかった?・・・いやいや、あいつ、全身で表現してるでしょ?茶髪で、ピアスで、制服も校則違反だらけだ・・・」
「茶髪でピアス・・・ああ、そっか、珍しいのか・・・。」
ここはあくまで日本なわけだから、たとえ東京でも珍しいことなのだということを思い出した。
「私も茶髪でピアスだけど、別に不良してるわけじゃないよ。髪の毛は元々だし、ピアスは昔から開けてあるから・・・。」
ピアスはつけてはいなかったが、春子は自分の耳元を触った。小学生の頃に開けたピアスの穴だ。日本に帰った時は、いつも母が一筆描かなければいけなくて面倒だと騒いでいたのを思い出した。
「今日だって、どうせ喧嘩でもしてて遅刻したんだろうし、あの顔の傷。」
「そんなこと、ないと思うよ。手が綺麗だったし・・・。」
「?」
「喧嘩って拳使うでしょ?」
「さーね、あいつのことだから、ナイフとか持ち歩いてんじゃないの?」
「・・・いろいろ大切にしてるものがあるだろうから、たぶん、そんな人じゃないと思うよ。」
「・・・」
そう言い切る春子を海斗は不思議そうに見つめていた。
食事後、海斗は校舎の至る所を見せてくれた。正門から入って左から、一年の校舎、自分たちのいる二年の校舎、そして運動場側に向かって三年の校舎、さらに奥にある音楽・美術室、そして、今いる食堂のある特別の校舎と、三年の教室から向こうに見えるのが運動場、と簡単に言うとそんな感じだった。
「ね、四宮くん、この先は?」
職員室すぐ下の階にはちょっとした踊り場があって、その向かいには医務室が設けられていた。ただ、そのまた奥に別の建物へ続くであろう廊下がもう一つあったのだ。
「ああ、あそこには生徒会の特別室だよ。」
「特別室?」
「この学校の生徒会はかなり運営が独立してて、学校行事なんかも生徒会が全部統括してる。だから、まぁ運営に参加してる生徒用の特別室なんだよ。一般の生徒は立ち入り禁止だから・・・近づいちゃダメだよ。あぁ、でも、八名井先輩ならもっと具体的に知ってるはずだよ、役員だから。」
「そうなんだ。」
「そう。八名井先輩は生徒会役員じゃなくて、学年会の役員ね。」
この学校の生徒会はずいぶん複雑なようで通常の生徒会長・副会長・書記・会計の四人に加え、その下に学年会という各学年の代表がいるらしい。3年の学年会長が隆史ということだった。海斗は2年の学年会長をになっているが、1・2年が生徒会の母体活動に駆り出されることはないらしかった。さらにその生徒会の上には、生徒理事会と言うのがあって、理事会長と副理事が存在する複雑な構造になっていた。生徒会は全学年の総選挙で選ばれるが、生徒理事会は理事長の選出制ということで、それなりの家柄なの人が選ばれるらしかった。
春子は複雑なシステムに、自分は近寄らないでおこうと思う反面、一般の生徒が立ち入り禁止の部屋なんて変なルールだなと思いつつ、その場を通り過ぎようとしていた。
ちょうどその時、自分の視界の向こうに二人の人影を見つけたような気がした。
「津田くん?」
「ん?」
特別室があるであろう部屋の前に、津田要の姿を見たような気がした。もう一人は女子生徒のような風貌であったが、津田に隠れて確認することはできなかった。
誰が一般学生で誰がそうでないのか、この学校のルールがわからない以上、一般生徒立入禁止区域に誰がいても自分には関係のないよね、そう思いながら、春子は視線をそらした。
「柏瀬さん、どうかした?」
「ううん、何でもない。」
「あっ、予鈴だ。戻ろうか。」
もう一度、廊下の奥に目をやるが、そこには要の姿も女子生徒の姿もなかった。
見間違えかな・・・。
予鈴のチャイムはワンワンと鳴り響いていた。
二年の校舎はそう遠くもなかったが、海斗に追いつくには、小走りしなければいけなかった。
その後授業に、津田は帰ってこなかった。
トントントン
「はーい。」
春子は学校から帰るとお腹も減らずだったので、そのまま部屋に戻って、ベッドに突っ伏していた。そこへ、ほぼ同時に帰宅していた隆史は、食事に来ない春子を心配してか、サンドイッチなどの軽食をもって部屋を訪ねて来ていた。
隆史に学校で彼の訪問がいかに大事件で大変だったかを訴えると、隆史はひたすら爆笑していた。隆史は、周りはいろいろ言っているが、摩耶を婚約者だと思ったことはないとも言うと、さらに笑い飛ばした。
ああ、摩耶ちゃんはそれなりに本気そうだったのに、かわいそう・・・。
春子はほんの少し同情心を傾けた。
ノック音がしたのはちょうどその時だった。ケタケタと笑いころげる隆史をほったらかすと、春子はドアを開けた。
「すいぶん、楽しそうだな。隆史、来てたのか。」
「よっ、兄貴。おかえり。」
今、帰宅してきたところなのだろうか、まだスーツ姿の秋が春子の部屋の中にズカズカと入って来ると、上着を無造作にベッドの上に放り投げた。秋はネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ二つはずしながら、そのまま自分の部屋に一歩入って、ペットボトルを取り出すと、春子の隣のソファに座り込んだ。秋の部屋へと通じるドアは開け放たれている。
実はこのドアは共同のバス・キッチンスペースにつながっていた。秋の部屋はさらにその向こうになっている。共同スペースには小さいシステムキッチンと、冷蔵庫、それなりに調理をしたければできるであろう最低限の調理器具が兼ね備えられていた。そして、その奥にはトイレ・お風呂のスペースが設けられている。この建物自体が、新婚、若夫婦の住まいといった仕様になっていた。
そして、この兄弟はどうも春子に与えられた部屋をまるで自分たちのもののように侵入してくる。他人様の家にお世話になっているので、あえて目くじらを立てようとは思っていないが、なんとも心地悪いことこの上ない。
「春子、学校はどうだった?」
秋は春子を心配した様子で、覗き込んできた。
「はい、大丈夫です・・・。初日なので、大変でしたけど。」
正直、疲れ切っているが、それを見せるわけにもいかない。そう思うと、春子はにっこりと笑った。
「・・・隆史が悪かったな。」
「知ってるんですか?」
「ああ、あれだけの騒ぎになると・・・な、いやでも耳に入ってくるから。」
秋はキンキンに冷えたペットボトルに口をつけると、一口二口と水を含んだ。
「隆史・・・、お前、学校で春子に近づくな。って、今更言っても、もう遅いか・・・。」
春子の目の前のソファにいる隆史はサンドイッチを手にして、兄に渡すと、自分も一つ口にした。
「なんだよ、人をバイキンみたいに。兄貴って、意外と心狭いよな、このぐらいで、やきもち焼くなよ。」
秋はもらったサンドイッチを小皿の上に置くと、隆史のおバカコメントを見事にスルーした。
「お前は自分のことをもっと自覚しろ。」
「別に周りが勝手に騒ぐのはどうしようもないだろう・・・。俺だって迷惑してんだから。」
「なるべく春子と距離を置いておけ。春子が困る。」
「いえ、別に、大丈夫です。女子がうるさいですけど、だからって実害があるわけじゃないですから・・・。」
「・・・そうか。」
秋は、春子の様子を伺うように眺めると、慎重に何かを考えているようだった。
「ったく、兄貴、最近どうにかしてるよ。春子が可愛いのはわかるけど、とつぜん、教師として学校に入ってくるし・・・。俺と兄貴が兄弟だって知っている奴が少なくても、やりにくくてしょうがないよ。」
「・・・」
秋は膨れる弟を無言で無視すると、俯きかげんに、再度水を口に含む。
ふと、春子には一つの疑問が浮かび上がった。
「あっ、でも、元々、朝は、隆史さんに私のこと学校、連れてこようとさせてませんでしたか?」
「確かに!」
隆史は面白そうに兄を見据える。
「・・・ああ・・・なぁ・・・、深く考えてなかった・・・。」
「兄貴、ウケる〜・・・らしくねぇ」
隆史はにやけると、肩を震わせた。
「あー、じゃあ、もう手遅れってことで、明日の朝は春子、連れてくから、一緒でいいよね。」
「はーい。」
「・・・。」
「・・・兄貴にこれ以上嫉妬されても困るから、俺は帰るよ。春子、また明日な〜。」
やはり無責任なコメントを残すと、隆史はもう一つサンドイッチを拾い上げ、口に咥え込んで、いたずらっ子のように、颯爽と春子の部屋を後にした。
夜の風が静けさを装飾していく。
隆史が開け放った窓から、綺麗な空気が流れ込んでいた。
月の光を背に纏い、爽やかな夜の世界が誘われる。
「夕食は?」
「いえ、あまり空いてなかったので、遠慮しました。でも、隆史さんがこれを・・・」
「疲れた?」
「・・・はい。そうですね。女子の勢いがすごいので・・・」
「まぁ、だろうな。」
「時差ぼけのせいでもう眠いですし・・・」
「そう・・・」
春子は秋との何気ない会話をかわしていく。
ふと、ようやく空腹を感じた春子は目の前に置かれた光り輝くような葡萄を一つ摘み上げると、口に入れてみた。溢れる果汁に口が満たされる。見事な巨峰だ。
「秋さんは・・・もともとあの学校で教えてたわけじゃないんですか?」
秋はソファにもたれかかり、外を眺めていた。その顔には気の抜けたやわらかな笑顔を覗かせる。
「いや、そうじゃないよ。でも、緊急の欠員のために雇われただけで、別に君がくるからって、ねじ込んでもらったわけじゃない。」
「ですよね。なんか、それだと、ストーカーっぽいですもんね・・・」
秋はクスリッと笑う。
「兄弟っていうのは?内緒なんですか?」
「え?」
「隆史さんが八名井の一人息子だって、友人も言ってたし・・・、隆史さんも・・・さっき・・・」
「まあね、僕はあえて苗字を変えてないし、年もこれだけ離れていると・・・、別に隠しているというわけでもないけど、聞かれないこと、わざわざ言う必要もないだろう。」
つまり、『お前も言うな』ということだろうなと春子は解釈し、頷いた。
「・・・。」
「・・・。」
心地のいい風が部屋の中をいっぱいに包み込む。
春子は夜の空気が好きだった。
「そうだ、秋さん、私のクラスの津田要って、知ってますか?」
「・・・まぁ、それなりに。生徒だし、あの学校では異色だからなぁ。」
秋は体を起こすと、テーブルにある葡萄を手にした。
「そいつがどうかしたのか。」
葡萄を口に含みながら、口の側からこぼれ落ちる汁を拭う秋の姿は確かに絵になっている、春子はふとそんな馬鹿なことを考えた。
隆史も綺麗な顔立ちをしているのだろうが、確かに秋の方が好みなのかもしれない・・・映画のワンシーンをスローモーションにしたような彼の動作に春子はしばらし時間を置き去りにしてみた。
「いえ、ちょっと気になったので・・・。」
春子は少し考え込んだ。いざ、どうしたと聞かれると、特になんだということはなかった。本当に少し気になるという意外に言いようがない。
秋は春子の顔を覗き込んできた。突然現れた秋の顔に、驚いて春子は思わず退いた。
「な、何ですか?」
緩やかな夜の風は初夏の匂いを運ぶ。春子はやはり遠い昔に秋の影を追いかけたことがあるようなそんな既視感を覚えていた。春子は窓を閉めるために、ソファを立った。実際は、突然現れた秋の顔を避けるために立ったのかもしれない。
「浮気はナシで頼むよ、婚約者様?」
ソファにいる秋を下に臨むと、秋は優しい目をして春子を見つめていた。ただ、春子にはその優しい目が残酷さを彩っているようにも思えた。
「う?うわきって、不貞行為ってことですか?」
「そう・・・だね、その不貞行為だよ。」
秋は春子の古風な単語選びに笑いを堪えきれず、にこやかに微笑んだ。春子は慌てて視線を逸らすと、窓を閉めようとゆっくり手を伸ばした。
「・・・今日、出会ってた人と?
・・・まったく、なんかお花畑ですよね。
・・恋だの、婚約者だの、私は母みたいにおめでたくないです。
ましてや出会ったばかりの人と、なんて・・・」
「そう、わからないよ。僕は・・・、そうだったんだから」
春子は秋の声が自分の真後ろにあることに再び驚く。そして、窓を閉め始めた自分の手に秋の手が覆い被さってきたことに気づく。
「秋さん?・・・あの・・・一人で、できま・・・」
もちろん秋が手伝いたくて手を握って来たわけじゃないことくらいわかっている。でも、春子はどうしていいのか変わらなかった。跳ね除けることもできたはずなのに、春子は呆然とそれを見つめると、そのまま窓を閉めた。
暖かい大きな手。
春子は戸惑いながら、窓越しに自分の後ろに立ちつくす秋の姿を確認した。
秋はやさしく春子の後ろ髪を掬い上げると、自分の顔を埋めた。
そして、そのままゆっくりと愛おしそうに春子を包み込む。
「秋さん??」
「ん?」
「だって、18歳まではって・・・」
「そうだな、正式な婚姻も婚約もない。だけど、18になるまで手を出さないとは言ってないだろ?」
大丈夫か、このスケベオヤジ!!!!
春子は、急いで、秋を押しのけると、とりあえず距離をとった。そのまま窓と向い合っている秋が、後ろ向きにも笑っているのがわかる。
からかったな・・・。
反発心と怒りを感じながらも、春子はもう一度秋を睨みつけた。
ただ、立ち去ろうとするそのそばで、春子は、窓の向こう見つめる秋の目の奥に、あの冷めた氷のような光があることを見つけてしまう。