5.学校へ行こう
ピッロ〜ン、ピッロ〜ン、ピッロ〜ン。
旅行鞄の中にしまい込んだままのスマホを取り出すと、設定していた目覚ましを止めた。まだ午前6時だった。学校までは通常スクールバスを使っていたため、バスのスケジュールに間に合うようには6時起きが常だった。
しかし、春子は眠い目をこするでもなく、そのままベッドに戻る。見事な時差ぼけらしく、5時すぎには目が覚めていたからだ。
トントン
昨晩はなんとなく、秋と気まずい雰囲気なってしまったが、その後、秋と顔を会わす事はなかった。執事の加藤さんは、秋が仕事で外出した事を告げると、浩孝おじさん宅へと夕食のために案内してくれた。座敷のさらに奥には別の廊下があり、それが裏にある大きな洋館へと繋がっていた。廊下を抜けると、春子は、浩孝おじさんの奥さんで、秋の母にあたる八名井羽須美に迎えられた。
羽須美は中肉中背のにこやかで素敵なおばさんで、とにかく明るく陽気だった。春子は裏表のない彼女にホッとした。確かに、彼女には三年前に会ったことを鮮明に覚えていた。秋の弟の隆史はまだ帰宅していなかった。
その後の夕食では、お腹はすいているはずなのに、春子は、長旅で疲れていたせいか、食事が喉を通る感じがしなかった。ダイニングには浩孝おじさんと羽須美おばさん、さっき出会った嫌みな千津姫おばさんにその娘12歳になる千沙子がいた。
千沙子は母親に似て可愛らしかったが、年齢が近いと言われても、特に話す事はなく、また向こうもお友達になりたいという雰囲気でもなかった。
それ以上に、春子には会話に参加する気力がなく、ただただ、べらべらとしゃべるおばさん達のよく動く口元を眺めることにした。
おじいさんは食事に来る様子はなかった。おじいさんは本館で久我家の人々と食事するらしかったが、どうもおじさん達の会話から察すると、今日は知人との会食予定があるらしく出かけているとの事だった。雅孝おじさんとその奥さんの緋乃亜おばさんもおじいさんと同行中らしかった。息子の隼人さんは家に寄り付かず、娘の真緋留さんは現在留学中のため、帰国はできずということだった。
「じろじろ人を見るもんじゃないわ、行儀の悪い。」
千津姫は春子と目が合うと間髪入れずに、嫌みぽっく言った。
食事の後は、すぐに立ち去れなかった。
食後のミルクティーを出されてしまい、春子はその場に留まるはめになった。千津姫は、いちいち余計なコメントを挟みながら、春子を攻撃しているようだったが、春子にはすでに「blah-blah-blah」としか聞こえなかった。
その後、自分がどうやって部屋へ戻ったのかよく思えていないが、現在、朝を迎えている。
再び、扉を叩く音が響いて来た。
トントン
春子はベッドに無造作に放り出された一枚のシャツを眺めていた。5時には目が覚めたが、何をしていたということはなく、身支度もせずに、ただひたすらこのシャツを見て混乱していた。
どういうわけなのか、どこから持って来たのかもわからないが、春子はこのどこにでもある灰色のシャンブレーシャツを抱えて寝ていた。このシャツを大事に抱え込んで、ご丁寧によだれまみれにしてしまった。所持者不明のシャツではあったが、しかし、見覚えがないというわけではなかった。
その事実は一層春子を混乱させる。だが、どうしてもそれ以上は考えられなかった、いや、考えたくなかったのかもしれない。
ドアを叩く音がしてきたのは、ちょうど春子がこれ以上考えてもどうしようもないなぁ、諦め、着替えを終わらせたところだった。
春子は、髪の毛を軽く一つに束ねると、いそいそとドアに向かった。
「はい。」
ドアを開けたそこには、見知らぬ50歳から60歳ぐらいのおばさんが立っていた。
「おはようございます、春子様」
「はい、あの、おはようございます・・・。」
おばさんは春子をじっと見つめ、その目で春子に全身スキャンをかけると、笑顔もなしに、口を開いた。
「わたくしはここに勤めております岩本です。朝食の準備ができました。7時半にはお迎えがいらっしゃいますから、ご準備をされてダイニングへいらしてください」
岩本はそう言うと、春子の返答を待たず、回れ右をし、立ち去ろうとした。
「あの、ダイニングって・・・どこですか?」
岩本は振り向き様に、春子を見下ろすと、
「本邸に入られて、 右の突き当たりです 」
そういうと、冷たい目で岩本は再び春子の全身を見渡した。
「・・・そのお姿で学校へ行かれるつもりですか?」
「ダメ・・・ですか?」
白いタンクトップに軽く羽織ったチェックの半袖シャツ、ジーンズのハーフパンツ、軽めのメイク。いつもの服装だ。
「当然です。ここは日本でございますよ。」
ああ・・・
「制服はクローゼットにございます、それから、お鞄もお靴も学校指定の物がございますので、そのような下品なお鞄は、お持ちになられませんように、お願いいたしますね 」
『下品なお鞄』とはどうやら机の上に用意してあったバッグパックのことらしかった。
「それから、その濃いメイクは落としてください。」
そういうと、加藤は間髪入れずに、自分の後ろでドアを閉め、立ち去ってしまった。
こゆい?
なんだぁ????
春子は目の前で閉められたドアに、何かしらやり場のない戸惑いを感じていた。これは俗にいう新参者イビリなのだろうか、こんな大きなお屋敷で、行った事もない『ダイニング』など、ピンと来るわけもない。ましてや、説明もないのに、学校に何を着れば良いかなど想像がつくわけもない。その昔、体験入学で日本の小学校に入ったときはいつも私服だった。メイクをすることをとやかく言われたこともない・・・
春子の怒りはジワリジワリと春子を腐食していった。
ベッドの上にある枕をわしづかみにすると、 春子は思いっきりドアに向けて投げつけてみた。
「SHIT」
ボスッ!
枕はいい音を立てて、ドアの真ん中を命中し、春子は少しホッとした。
トントン
枕がドアを命中したかと思うと、またノック音が響いた。
「は、はい。」
春子は再び岩本さんが戻ってきたのかと、慌てて返事を返した。
「おう、おはよう。起きてた?」
枕を拾い上げて、ドアを開けると、そこには知らない男性が立っていた。白いカッターシャツにネクタイからすると高校生のようだったが、自分よりはずいぶん大人に見えた。
「・・・ん? 学校に私服で行くつもり? 制服は用意してあるはずだけど?」
「いえ、あ、はい、今、聞いたところで、着替えようと・・・」
「ああ、よかった。岩本さんから聞いたんだ。」
「はい・・・。」
「兄貴に春子のこと連れて来いって言われたんだけど、俺、今日も朝練でもう行かないといけないから、とりあえず、村川さんに連れて来てもらうといいよ。」
「村川さん?・・・あの、ってか、あなたは?」
「ああ、隆史だよ」
秋行の弟、八名井隆史だった。彼はあまり秋行に似ていなかったが、別のタイプの美形だと言えるだろう。サラサラの髪を右によけ、目にかかりそうな前髪からはきれいな二重の優しい目を覗かせていた。小さな鼻に、薄い唇は、全体を小顔に見せていた。
「そうそう、兄貴のシャツ返してもらっていいのかな?」
「お兄さんのシャツ?」
「やっぱりアメリカで育ってるだけあって、大胆だよな・・・。まさか兄貴を脱がせるなんて・・・」
「脱がせる???」
「兄貴が勇人さんの服に着替えてるから、ビックリしたよ。ほとんど荷物は移動させたみたいけど、服類はまだ持って来ていなかったから、着るもん、ないもんなぁ・・・。」
隆史は、部屋を眺めるようにキョロキョロすると、秋の部屋への扉に目を固定させた。
「シャツって・・・これですか?」
春子は恥ずかしさを無視して、ベッドの上のシャツを指さした。
「それそれ。」
「あの洗って返したいんですけど・・・」
「いいよ、洗濯機に入れるだけだから。」
隆史は部屋に入ると、シャツを取り上げた。
「あの・・・秋さんは?」
「もう出たよ。早朝会議だって。まぁ、今日からはこの家に寝泊まりするみたいだから、よかったね」
「よかった?」
「うん、だって、兄貴がいないと寂しいだろう?」
「はい????何でですか」
「だって・・・付き合ってんだろ?」
春子は隆史の言ってることが理解できなかった。この人の中で一体何がどうなったらそんな平和な関係になっているのか、皆目検討がつかなかった。
「兄貴が春子のことに執着してるのは知ってたけど、一人、日本に来て、婚約って、春子もよっぽど兄貴のこと好きなんだな・・・」
母を彷彿させるお花畑。ある意味この隆史さんは可愛い人なのかもしれない、春子は自分の気持ちが冷めていく感覚を捉えた。
「昨日、俺と兄貴ほぼ同時に帰宅して・・・、っていっても、9時ごろだったけど、そしたら春子、リビングのソファで潰れてたんだよ。時差ぼけだよな。で、兄貴が本家に連れて行ったけど、その後、兄貴がなかなか戻ってこなくて、ようやく帰って来たと思ったら、服が違うだろう・・・。聞けば、服を君に取られたって言うし・・・」
隆史は上機嫌でケタケタと笑い飛ばした。
「で、オフクロなんかさ〜、さっそく、うまくやってくれているようで良かったわ〜なんて、喜んでたし・・・」
「×○△!!!!」
春子は全身の血が顔から上に集まるのを感じた。
「ち、違います!!!私、ただ・・・」
春子の朝の疑問は複雑な形で解決した。いつの間に帰ってきたのかも、どうやってベッドに入ったのかも、どうやってパジャマに着替えたのかすらもぜんぜん覚えていなかった。そして謎のシャツ。残念ながら、秋がすべてをやってくれたと解釈するべきなのだろう。
「まぁ、照れなくてもいいんじゃない」
「照れてるわけじゃなくて・・・」
「へいへい、ああ、おもろ・・・。」
隆史は自分の脇腹を抱え、肩を震わせる。何がそんなにツボに入ったと言うのだろうか。
「あ、ちょっと入っていい?」
「は、はい、どうぞ。」
「あんな焦ってる兄貴なんて初めて見たわ。笑えるから、もっと聞きたいところだけど、とりあえず、今は学校に行く準備、しないとね・・・」
隆史はそう言うと、部屋の奥の右手にあるウォークイン・クローゼットの中にむかった。
「ああ、これこれ、春子の制服ね。」
入ってすぐに、うす青い色のシャツに赤のチェクのリボン、同様に黒地ベースに赤のチェックの入ったプリーツのスカートが鏡の横に掛けてあり、それを取り出すと春子に手渡した。
「うちの学校は特に厳しい規則はないけど、髪は縛った方が良いかもなぁ。靴は・・・このローファーな。靴下は無地ならどんなのでも良い・・・はず。たぶん。それから・・・」
さらにクローゼットの中から服を取り出してくる。
「これ、カーディガン。うちの学校、結構、冷房が効いてて寒くなるから、一応持っていっておいた方がいいと思う・・・で、これが鞄で・・・」
気がつけば教科書なども机の上に並べられていた。訳の分からない様子の春子の変わりに、隆史は春子の荷物を準備してくれた。
「あの、隆史さんも同じ学校なんですか?」
「そうだよ、ま、俺は三年だから二年とは校舎が違うけど・・・」
必要な教科書を入れると、鞄を春子に手渡した。
「そう言えば、昨日はごめんね。本当は一番暇な俺が空港に迎えに行くつもりだったんだけど、突然、試合にかり出されちゃって。」
「試合?」
「そう、弓道部の。でも、今日は別の朝練で、うわ、やべっ。」
自分のアップルウォッチを覗き込むと、隆史は焦った様子を見せた。
「ごめん、春子、俺、行かなきゃ、また学校でな。」
「はい、ありがとうございます。」
「ま、これからよろしく頼むよ、義理のお姉さん」
再びケタケタと笑いながら、部屋から出ていく隆史の後ろ姿を見送りながら、春子は朝からどっと疲れる思いがし、ベッドに突っ伏した。
私立城泉学園高等部、そう掘り込まれた立派な石の門をくぐったのはいっとき前だった。車はまっすぐな道をしばらく進むと、円形広場に差し掛かる。そこには車が隊列をなし、一人、また一人と、車から降り立つお子様達が、しゃなりしゃなりと優雅な歩みを進めていた。
「春子様、そこの右手にある階段をお上がりください。廊下を挟んだ向かいが職員室となっておりますので」
「ありがとうございます。」
円形広場から植え込みをまたいで、左手には5階建ての校舎への入り口とその建物の二階へと直接つながる階段があった。その向こうにはいくつかの校舎が渡り廊下を挟んで立ち並んでいるようだった。また、右手には同じく渡り廊下を挟んで大きな体育館が聳え立っていた。
しずしずと歩みを進めるお子様達に迷いはない。ご友人と会話を楽しまれる様子はあるものの、呆然と立ち尽くす春子に気をとめる人はいなかった。
「では、お気をつけて、いってらっしゃいませ。」
送ってくれた村川さんは、17歳のどこの馬の骨ともしれない自分に深々と頭を下げる。村川さんはご丁寧に運転手らしい黒い制服に身を包み、さらにご丁寧にこの車の大群の中まで春子を送ってくれた。久我家のお抱え運転手の一人だ。そんな丁寧な彼は一向に立ち去る気配がない。
素敵な笑顔で見送ってくれる村川を後ろに残すのは、心地悪いことこの上なかった。だが、この小さな社会では大の大人が深々と頭を下げてお子様を送り出すことが普通なのか、周りを行く生徒達が村川と春子のやりとりに興味を示すことはなかった。
春子は改めて階段登り口の門をくぐると、そのまま階段を登り始めた。
少し歩くと、颯爽と教員と思われる大人が自分の隣をすり抜けていった。そうかと思うと、自分の手前で足を止め、後ろを振り返り春子を見つけた。
「おはよう。」
春子は周りをキョロキョロするが、どうやら挨拶は自分に向けられているようだった。
「おはようございます。」
教員はとびきりの笑顔をサービスする。
「転校生ですよね?」
続けて教員は余計な気を遣って歩調を合わせると、春子に話しかけてきた。
「はい。」
「八名井くんのところの・・・柏瀬春子さんかな?」
「はい。そうです。」
「そうか、よかった。昨日着いたばかりなんだよね。ちょっと慣れるまで大変だろうけど、頑張ってね。」
教員はありきたりの口上を述べた。
この教員は今登校してきたという様子ではなかった。秋と同年代を思わせる男性教員はカバンなどの荷物を持っていなかった。春子を出迎えに出てくれていたと考える方がしっくりきた。
「ありがとうございます。」
何を頑張れというのだろうか。
昨日から随分何もかもが曖昧だなぁ・・・
そう考えながら、隣でニコニコと笑顔を提供してくれる男性教員を眺めた。そして、そうこうしているうちに、春子と教員は階段を登り切っていた。
玄関口を入ると、左には受付らきし事務室があり、中には五人ほどの大人達が慌ただしく活動していた。廊下は左へと伸びており、教室へと繋がっているようだった。正面には窓が並べられた広い部屋があり、職員室と書かれたプレートが両サイドのドアの前に掲げられていた。その窓のさらに右手にはまたドアが二つほど立ち並んでいた。一つのプレートには校長室と書かれている。もう一つは特に何もなかった。
「ああ、靴はそのままで、そこを右に行ってごらん。奥が理事長室なんだけど、そちらでお待ちだから。」
この学校は理解していた日本とは勝手が違うらしく靴を履いたまま中に入るらしかった。玄関はあるものの下駄箱は設けられていない。
ふと右の視界の奥に先ほどまでいた正面の円形広場が広がる。村川は春子に気づくともう一度軽くお辞儀をした。立ち去る気配のない彼は明らかに他の車の邪魔になっている。ただ、それに苛立ちを見せる車は一台もなかった。
トントン
階段を一緒に登ってきた男性教師が理事長室の戸をたたくと、奥からの返事を待たずにドアが開いた。
「おはようございます」
春子はとりあえず『恥にならないように』と考え、頭を下げて挨拶をした。
「どうぞ。」
そう、声が返ってきたかと思うと、聞き覚えのある声に春子はゆっくり視線を上げた。
「あき・・さっ!?」
秋は思わず大声を漏らしそうになる春子の口を慌てて塞いだ。
「室川、わるいな・・・」
「ああ、じゃあお嬢さんはお連れしたからな、また後で。」
「おう、助かるよ」
そういうと、春子の口を抑えたまま、秋は春子を自分へと引き寄せると、そのまま奥へと導き、大きな理事長のものであろう机の前に置かれた黒革のソファに着座させた。
室川という男性教諭が閉めたのだろうか、戸は自分の後ろでパタリと音を立てた。
秋は自分も春子の隣に腰をかけると、フーっとため息と共に少しうなだれた。
「春子。昨日は君が寝てしまっていたから・・・」
今朝のシャツと混沌が、いともあっさりと春子の脳裏に思い起こされる。春子は慌てた。
「あれは、違うんです、べつに脱がせようとかなくて!!」
そう言い始めた春子を秋は素早く遮った。
「わかってるよ。別に何があったわけでもないし、とりあえず落ち着いてもらっていいかな?」
秋は優しく春子を宥めた。
「もうすぐ校長と理事長がいらっしゃるだろうから、その前に手短に・・・いいか?」
遠慮がちに春子に了解を求める秋はまた違う印象を春子に与えた。
「・・・はい。」
春子はゆっくりとうなづく。
「ま、2つね。春子、君はアメリカから来たわけだけど、ここではそれは言わないように。君のお母さんの故郷、愛媛から来たことになってるから。」
納得がいかないと眉をしかめる春子に、秋は一呼吸置いて続けた。
「悪目立ちされても困るんでね。あくまで馴染めるようにだよ。馴染んだ頃に明かしたければ、明かせばいい。それに、君は思ったよりも日本をきちんと理解してて、日本人らしく振る舞うことができるようだし・・・。何かあっても、愛媛から来たってことにしとけば、誤魔化せるだろう」
春子の表情に納得はなかったが、秋はとりあえず続けることにした。
「それから・・・、君は八名井の家にいることになっている。八名井と久我の関係が秘密になっていると言うわけじゃないが、久我で、僕の婚約者であるというのは、理事長と校長、それからさっきの室川先生以外は知らない事なんだ。」
「・・・ですよね。こんな非常識なこと他の生徒に知られたら困りますよね。」
春子は間髪入れずに突っ込んだ。
「ま・・・、そうだな。」
意外にも秋は潔くそれを認めると、少し笑顔を見せた。春子は静かに重いため息をつく。秋が抵抗してきたら、どれだけ非常識なのかをせめてやろうと思ったのに、こうあっさりと認められてはやりようがない。
何かさらに言いたそうな春子の表情に、秋は、笑顔で頭をくしゃくしゃと撫でた。どうやらこの触り方は彼なりの愛情らしい。秋の手は嫌いじゃないなぁ、と漠然としたことを思った。
「昨日から・・・わかんないことばっかりです。」
「ん?」
「抽象的なことばかり言われて、何に気をつけるべきなのか、いまいち理解できないし・・・でも、秋さんの言ってることはわかりました。要するに目立たず・・・何でしたっけ、ああそうだ、問題を起こしてはいけないんですね。女子高生と婚約なんて、なんか、都の淫行条例に引っかかりそうですもんね。」
プハッ
秋は春子の隣で素直に吹き出していた。
「淫行って・・・、ハッ。あのぉ・・・あれだ、ちょいちょい単語のチョイスがおかしいから・・・それは気をつけてね。」
秋は口の歪みを抑えるかのように、自分の手を顔に押し付けた。
「あの、秋さん、お仕事は?」
春子はククッと笑いを押し殺す秋を無視して話しかけた。
「仕事?」
「はい、だって久我貿易の人なんですよね?」
「ああ、まあね。別にリモートできないことではないし、今はちょっと事情があって、春から臨時でここで雇ってもらってるんだよ。」
「へ〜、先生なんですか。」
「そう。物理のね。」
「うぇ・・」
「苦手なの?」
「まあ、どちらかと言えば。」
「そうか、まぁ2年は選択だから、春子が選ばなければ、取る必要はない科目だ。夏休みまでに決めればいいだろう。」
「そうなんですか。」
「ああ、後で前山先生に説明してもらえばいいよ。」
「前山先生?」
「そ、君の担任。」
「・・・。」
「・・・。」
秋は自分のスマホをポケットから取り出すと、時間を確認した。
「・・・。」
「さっきの先生は?」
「室川先生?」
「はい」
「校医だよ。」
「校医?・・・ああ、保健室の先生?」
「そう。」
「ふ〜ん、男性の先生って珍しいですね。秋さんにとっては?」
こっちの奇抜な事情を把握しているというからには、おそらくただの同僚というわけではないだろう、春子はそう思った。
「そうだな、大学時代からの友人だよ」
秋はようやく春子の問いに淡々と解をくれていた。
「じゃあ・・・」
トントン
この流れで、少しでも状況を把握しておこうと思った矢先、春子の声は再びノック音にかき消された。
「はい。」
秋は颯爽と立ち上がり、そう答えると、春子にも立つように目線を送った。春子が立って、ドアの方へ振り返るのとほぼ同時に、ドアが開き、初老の女性が二人入ってきた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはようございます、久我先生、柏瀬さん。」
大人達は軽い会釈と共に交互に挨拶を交わす。一通り互いの目通しが終わったのか、三人は春子の方へ視線を向けた。
「あーっと、おはようございます?」
自分に求められる行動がこれでいいのかわからないまま、春子はとりあえず自分も挨拶をした。
初老の女性達はコーヒーテーブルを挟んだ向かい側のソファへ歩みを進める。おそらく母と同年代であろう二人のうち一人の女性はやたら若作りしているようで、もう一人は実年齢よりも老けて見えた。若作りの女性はスーツのボタンを外し上着を机の上に置くと、ソファに腰掛けた。それと同時に秋と春子にも着座するよう促してきた。もう一人の老婆のような女性は机の右手にあった掛け椅子へと進むと、遠慮がちに座り込んだ。
「柏瀬春子さんですね。理事長の花井可憐です。そして、こちらが学校長の友景貴代子先生です。」
「どうも・・・、はい、よろしくお願いします。」
春子は着座したまま頭を下げる。二人は奇妙な満面の笑みを浮かべる。どうして学校の先生っていうのはこう笑顔を作るのだろうか、そのうち顔が引き付けを起こしてしまうんじゃないのかなぁ・・・春子は脳裏で湧き上がる無駄なコメントを無視した。
「理事長、校長、この度は無理を言って申し訳ありません。」
秋は春子の知らない社会人男性としての装いをまとうと、理事長と校長に素敵な笑顔で頭を下げながら、そう言った。
若い男性に笑顔を向けられて気をよくしたのか、理事長は意気揚々と笑みを返す。
「久我様のやられる事ですからね、問題ないと思っておりますよ。久我先生もいつも通りご指導に当たってくださいね。」
「ええ、ご配慮、感謝いたします。」
理事長の花井は、頭をうんうんと頷きながら、春子にもとびきりの笑顔を送った。
申し訳なさそうに座っていた校長は、やはり遠慮がちに前のめりになると、理事長の顔色を伺いつつも、話しを切り出した。
「柏瀬さん、久我先生にはお伝えしましたが、あくまでお二人のご婚約は内密にしておいてください。あなたは未成年です。18歳までは何かと問題が伴うものですからね。それに・・・他の生徒たちに余計な刺激は与えたくありません。」
「承知しております。」
顔色ひとつ変えることなく淡々と受け答えする秋を尻目に、一体どんな刺激があるって言うんだろう?と、心の中で悪態つく春子だった。