2.ロマン飛行は扉を開く
柏瀬春子にはミドルネームがある。Antheia アンシアだ。ミドルネームは、アメリカで生きて行くにはあったほうが便利だろうという両親の計らいだったらしい。
だが、両親共に日本国籍を有する日本人であるがために、その存在に違和感を感じずにはいられなかった。
春子は静かに唸る飛行機の中で、自分のパスポートを見つめながら、その昔、ミドルネームについて従兄弟から聞かれたときの事を思い出していた。また、それに関しては、在米日本人の友人からも不思議な失笑を買う事があったのだ。
春子はアメリカ合衆国ペンシルバニア州フィラフデルフィアの生まれらしい。らしいというには理由がある。両親の仕事の都合で転々としたので、あまり故郷という感覚がないからだ。三年ほど前に、母のエミリーナ大学での仕事が決まりフィラフデルフィアの郊外へと戻って来たが、やはり新しい町に引っ越して来たという感覚の延長だった。
春子は、今、日本に向かう飛行機の中にいた。
飛行機はどこまでも続く雲海をゆっくりと航行していたが、徐々に雲の中を目指して降下し始めたところだった。
ああ、来ちゃったんだ・・・。
窓の視界が分厚い雲の壁に遮られる。
私・・・なんとなくあきらめて来ちゃったけど、これで良かったのかなぁ・・・。
春子は自分の目線を窓から前に置かれたテレビモニターに移した。
モニターには全プログラム終了のお知らせが流れ、機体の外に付けられた固定カメラの映像へと切り替わった。
真っ黒い海。
夕日に照らし出させた海は青々しさを最高潮に向かえるはずだった。だが、時間が少し遅すぎたのだろうか、青々しさは黒光へと変わっていた。
白い点々が浮かび上がる。船だったり波だったりするのだろうが、この高度からはまだはっきりと見分ける事はできない。
降下を続ける飛行機は気持ちが悪い。
何度乗っても慣れるような気がしない。
ただ、もうすぐ降りられるという安堵感は、雲の上にいたときよりも遥かに大きい。
どこの誰とも知らないおっさんと婚約って、あり得ないよぉ・・・。
そんなの時代劇の世界じゃない。
ふと、母の顔を思い出す。母は漫画が何よりも好きだが、日本の時代劇も好きだった。特に、水戸黄門が大好きで、DVDで何度も一緒に見せさせられたものだった。
そんな黄門様の世界では、『親の借金の形にお代官様に売り飛ばされる』的な悲劇の設定はよくあるパターンだった。が、しかし、だいたい売られる前、もしくは売られてすぐに黄門様が来てくれて、思ったよりもずっとあっさりと解決するという展開が常だ。
が、春子にはそんな正義の味方になってくれそうな人に心当たりがない。
お代官が嫌がる娘の着物を無理矢理引きはがそうとするシーンが頭をよぎる。
そんなときは、留学生のお兄さんお姉さんは決まって爆笑していたものだった。
日本には、意外と黄門様好きが多いらしく、母は、決まって、テレビ放送がなくなった事を愚痴りつつ、留学生たちと熱く楽しく議論したものだった。
春子は少し大きなため息を一つしてみる。
降下する飛行機はとにかく気持ちが悪い。
その上、耳詰まりもしてくる。
鼻をつまんで空気をゴクリッ。
結局、また、詰まってしまうが、それ以外に対処法をしらない。
勉強してる方がましなんだけど・・・。そもそも、婚約って何?
春子は耳抜きをもう一度しながら、当然の疑問を振り返ってみた。
あれ?
・・・こ、こんやくって、その結婚前提ってことだから・・・
ちょっと待って・・・
まさか・・・だよねぇ
やはり、時代劇のお代官が嫌がる娘の着物を無理矢理引きはがそうとするシーンが素直に頭をよぎる。思考を巡らせば巡らせるほど、少々パニックが発生していることを自覚した。
18歳まで待つって言ってるんだから、だ、大丈夫だよね・・・。
そんなこと、あの紙に書いてなかった・・・
そういえば、何も書いてなかった・・・
手を出さないなんてのもなかったような・・・。
もはや春子の頭は大パニックを迎えようとしていた。婚約・結婚の定義に関する詳細は書かれておらず、もちろん、父親が18歳の誕生日までに迎えに来なければ、予定通りの結婚ということになってしまう。そんなことを考えると、やはり流されるままに日本行きの飛行機に乗ったことを後悔した。
もっと抵抗するべきだったのかもしれない・・・
頭がお花畑で漫画と現実を区別しようとしない母。
そして、少年の心を忘れてくれない放浪者の父。
そんな2人のことを思い起こすと、どんどん不安が押しよせてくる。
飛行機が高度を下げる度に、こみ上げる何かがある。
吐き気に似たなにかが。
もちろん、単に乗り物酔いをしているだけなのかもしれないが、それ以外にも不安が口から吹き出しそうだった。
春子の父は自称画家で、ギャラリーに勤めているらしかったが、引っ越しの度に職にありつけるとは限らず、主夫をこなしていた。
しかし、なぜか家を空ける事も多く、『遠征に行く』としか表現しないため、どこで何をやっているのかは定かではなかった。
春子の家庭は基本父親が主夫として家事を担っていたので、彼の『遠征』は母を困らせた。というのも、急にベイビーシッターなんて見つからないからだ。
州法にもよるが、アメリカでは子供の一人留守番を許さない。少なくとも13歳まではチャイルド・プロテクティブ・サービスの厳格な保護下にあるのだ。よって、その度に母はよく春子を自分の仕事場である大学に一緒に連れて行った。
春子の母はあんなに漫画ばかり読んで年中お花畑で脳みそを休めているが、一応大学教授だ。よって、緊急、ベイビーシッターのいない時などは必然的に大学に連れて行かれるものの、講義中は当然ながら放置されていた。
別に放置されていたからといって、文句があるわけではなかった。むしろ、比較的楽しい時間だったと言える。講義中の話し声を聞き流しつつ、お絵描きをしたり、本を読んだり。そして、運が良ければ、大きなお姉さんお兄さんに遊んでもらったりもしたからだ。
ただ、それも中学生になってからはほとんどなくなり、最近では母の大学に足を運ぶことはほとんどなかった。
樹奈美は日本からの来ている客員教授というやつらしく、母のいる研究チームに参加している。これまでに数回顔を合わせたことはある。
樹奈美は、フィラデルフィアからニューヨクまで同行してくれると、 ジョン・F・ケネディー国際空港で別れを告げた。日本での滞在先の住所と航空券、日本円、成田に迎えに来てくれる人の連絡先を春子に持たせると、出発ロビーで春子を見送った。
春子には日本に従兄弟がいる。伯父伯母もいれば、祖父母もいる。だから、日本へ行くのは初めてのことではない。
今回は3年前に行って以来になるが、それまでは年に一・二回と、ちょくちょく遊びに行っていた。日本国籍とアメリカ国籍を持っているのだから、旅行の際に特に難しい手続きもない。 二重国籍でいられるのは21歳までだが、母に言わせると「最高の待遇」らしかった。
そうこうしているうちに、飛行機は最終着陸態勢に入り、無事に滑走路へと降り立った。
滑走路の道路を誘導に合わせゆっくりと進行している。
今回は大きな不安案件を抱えた上に、初めての一人旅。
いつもと変わりないフライトだったが、それでも無事に着地した事に、随分とホッとしていた。
しばらくすると、飛行機は無事タラップに接続されたらしく、ベルト着用サインの点灯が消えた。周りの乗客はいそいそと降りる支度に取りかかろうとしていた。
春子も自分の荷物を取るために、座席を立ち上がると通路に出た。
この時期の飛行機にしては意外と込んでいた。隣のビジネスマン風のおじさんはそそくさと荷物をかき集め、出る準備に取りかかっていた。前の席にいる老夫婦はゆっくり後から降りるつもりなのか身動きを取る気配はなかった。
後方には団体客を思わせる人たちがわけのわからない言語で論議を交わしていた。おそらくたわいもない会話をしているに過ぎないのだろうが、 まるでケンカでもしているようだ。
結局、誰にも挨拶なしで来ちゃった。
サマーキャンプ一緒に行けるって思ってたのに・・・
たぶん、そういうのも、勝手に不参加手続きさせられてるんだろうけど・・・。
学校は残すところ後1週間で夏休みを迎えるところだった。アメリカの学校の夏休みは日本よりもずっと早く、たいてい6月上旬には始まる。夏休みには色々なプログラムも用意されており、参加するつもりだったのだが、この一連の流れから、少なくとも一年は日本にいるというとこで、キャンセルの手続きがなされたのだろうという予測が立った。
そう考えると、やはり納得がいかなかった。
自分の意思が尊重されることもなく、何かしら大きな渦の中をグルグルと無抵抗に回されているような感覚がぬぐい去れない。
借用書をろくに読みもせず、サインを書いた父にすべての原因があるのだが、それでも、昨日の朝まであったはずの平和な日常が突然消えてしまったのだ。
それにしても、流れがあまりにも強引なような気がした。
そして、別れ際の母の顔をふと思い出す。春子は能天気な母の顔に微かなかげりを感じていた。何かある、しかし、それが何なのかは検討すらつかなかった。
春子はじっと自分が座っていたシートを見つめた。
「これ?君の・・・?」
ふと、頭上から声が降って来た。見上げるとそこには隣に座っていた大学生ぐらいの青年がコンパートメントの荷物を抱えて、春子を見下ろしていた。
「あ、あの、はい。私のです。」
「よかった。ごめんね、僕のがその向こうだから、出しちゃった方が早くて。」
「いいえ、大丈夫です。あの・・・ありがとうございます。」
その青年は、うっすらと浮かべた微笑みとともに、首を軽く「いいよ」と言うために振ると、また頭上の自分の荷物を取るために、少し身を前方へと進めた。
前の方から人々が流れ始めているのが見えた。
ようやくタラップが整い、日本国内へと到着できるようだった。
再び青年の方を見ると、目が合う。向こうはもう一度、軽く笑顔をくれると、そのまま先に人の流れに入っていた。
その後、税関で長たらしくせき止められることもなく、バッゲージクレイムでもすんなりと自分の荷物を見つけ、そして春子は到着ロビーへと進んだ。
もう周りには、機内で一緒にいた人たちの陰はない。別に縁もゆかりもない人たちだが、なぜかそれを寂しく感じた。
そして、得体の知れない不安感が全身を再び包み込む。
到着ロビーを抜けると、人だかりがあった。
出迎えの人々なのだろう、プラカード持った人や、春子の横をすり抜ける人々と挨拶を交わす人。
しかし、春子を待っている人はそこにはいない。
春子は視線をそんな人々の活動に固定させたまま、手探りで自分のポーチをあさった。
樹奈美は成田に着いたら、電話をしろと、迎えに来てくれる人の連絡先を持たせてくれたのだ。
財布にしまい込んだことを思い出すと、とりあえず、ポーチから財布を取り出した。そして、財布の中に、連絡先の書かれた紙をようやく見つける。
その紙には、一つの住所が書かれてあった。八名井さんというお宅の住所らしく、電話番号の主は八名井隆史と書かれてあった。
あれ?・・・八名井って人んち?
クガのお家じゃないんだ・・・。
春子は母から見せられた借用書を思い出そうとした。
確かに、世話になれと言われた先、いや、正確には嫁に行けと言われた先は、クガという名字だったような気がした。
三年前に会ったことがあるとは言っていたが、東京には3日間の短い滞在だったため、一体どこでどうやって会ったのかは覚えていなかった。
どうにもこうにも不安の津波が心の中でうねりをあげる。
春子はそんな不安を取り除きたい一心で、手に力を込め連絡先の書かれた紙を握りしめた。
大丈夫よ。
むちゃくちゃなことなんか絶対させられないよ。
だいたい、向こうが私を好きにならなきゃいいんだし・・・
三年前に会ったときに、『見初めた』かなんだか知らないけど、2日間で好きになったって、嘘っぽすぎるし・・・、
私だって、ビッチ(素行悪い女性)になることぐらいできるんだから。
とにかく、連絡しなきゃ・・・
そう思うと、春子は自分のバックパックからスマホを取り出した。しかし、スマホの電源を入れると、春子は手を止めた。
不安の原因・・・これか。
out of service (圏外)の文字がスマホにうかびあがある。
春子のスマホは当然ながら、日本では圏外だ。13歳のときからスマホを持ってはいるが、国際電話をかけられるようには設定していない。国際ローミングも用意していない。
前回日本に来た3年前は、その時は父も母もいた。そして、両親の携帯は海外でも使えるように設定してあったはずだ。
かろうじてwi-fiにはつながるのだろうが、そこからどうやって名前しか知らない相手に連絡をしろというのだろうか。IDを要するアプリの使用はできない。最低限の機能しか持たされてもらっていないのだ。
・・・どうやって電話しろって言うんだろう・・・。
春子は圏外表示のされたスマホから目を離すと、周りを見渡した。
所狭しとごった返す人の波、この小さな空間に寄せ集められた現代人は、だれしもが携帯やスマホで話し込んでいる。
そのまま見渡すと、大きなはてなマークが目に入る。
そうだ、あの、インフォメーションセンターのお姉さんに聞いてみよう・・・。
左方向で人の波がせき止められている場所にインフォメーションセンターの表示が見えた。どうしようもないときは人に聞く、それが鉄則だ。しかし、変な大人と口を聞くのは何としても避けたい。職員らしき人に聞いてみるのが妥当だろうなと、ふと、昔、父が旅行のたしなみをぼやいていた時のことを思い出した。
はい、パパ、了解です。
春子はそう思うと、インフォメーションセンターデスクの前の列に割り込んだ。
一人、また一人、と自分の前方にたむろしていた人たちが、消え去って行く。そして、彼らは四方八方へと迷いなく歩みを進めて行く。大人もいれば小さい子供もいる。だけど、迷子は自分一人なのかもしれない・・・。
「はい、どうされましたか?」
いつの間にか春子の前には隙間ができていた。
きれいなお姉さんがカウンター越しに春子に笑顔で呼びかける。
「あ、あの、電話を・・・」
一瞬、どう質問したら良いのか戸惑ってしまた。
電話を貸してください?携帯電話下さい?
ふと、アニメのワンシーンを思い出す。
そうだ、公衆電話があるはずだ
緑色のやつが、至る所に立っているはずなんだ
「公衆電話ってありますか?」
「はい、ございますよ。この先をもう少し進んでいただいて、そちら、先にあります本屋を右にお進みください。電話のマークがあるのが、少し見えるんですが、お分かりになりますか。」
「・・・たぶん、大丈夫です。ありがとうございました。」
そそくさと、インフォメーションセンターの前を立ち退くと、春子は人の流れに乗るように、歩みを進めた。
言われた通りにスーツケースを引きずりながら電話のマークを探してみると、確かに本屋のところに電話マークらしき物があり、電話のような物がいくつか並んでいた。
誰も使っていなかったので、一番手前にあった電話の前まで行ってみることにした。
・・・緑じゃない。でも、たぶんこれだよね・・・
春子はそんなことを思いながら電話の受話器をあげてみた。
画面に指示が出ているが、いまいち良く分からないというのが感想だった。
カードってなに?クレジットカード・・・
持たせてもらってない・・・
万札を入れる場所・・・なさそう
この穴、ってどうみてもコインだよねぇ
じゃあ、コインを作ってこないと
でも、どうやって?
春子は目の前の公衆電話を見つめて受話器から微かに聞こえる発信音を耳にしながら、その場に立ち尽くした。
パソコンなら慣れているが、公衆電話を見るのも、触れるのも、今回が初めてだ。
春子はやっぱり誰かに訪ねられないかと当たりを見渡してみた。
だが、公衆電話付近には人影はなかった。
春子は受話器をいったん戻した。
もう一度、カウンターに聞きに行くべきか、その向こうのロビーでたむろしている人たちに聞くべきか、そう思いながら視線をロビーへと向けると、歩行者を挟んだ向こう側の到着ゲート付近に佇む一人の男性と目が合った。
目が合っちゃった・・・どうしよう。
男性は、年は20代のような人で、簡単な薄手のシャツとジーンズ姿という簡素な出で立ちだった。しかし、他の人よりも背が高いのか、頭一つ出ており、また整ったきれいな目をした人だった。
男性は、春子から目線をそらし、俯き加減になると自分の右手に視線を送ったようだった。
そして、もう一度春子に向き直ると、だるそうに方向を替え、まっすぐ春子の方に向かって来た。
・・・なに? 手相とか見る人?
いや、ボケてどうする。
春子はめちゃくちゃな思考のまま、目の前の電話の方を見つめ直した。そして、自分の場所より少し先に、お手洗いの表示を見つけた。
こんなところに知り合いがいるはずはない、ましてや、空港で手相を見ましょうなんて素っ頓狂なことを言ってくる人もいるはずがない。
おそらくあの男性はトイレを目指しているんだろうなぁと思うと、ほっとして、もう一度男性がいた方向に目をやってみた。
が、そこにはだれもいなかった。
一瞬、心に落胆の感情がわき上がってくる。
知り合いであるはずがないとは思ったが、それでもこの混沌とした状況を救ってくれる人なのかもしれないと期待してしまったようだ。
春子は口を噛み締める。悲しい気持ちが自分を埋め尽くすのを防ぐためだ。
「あの・・・」
春子は、驚いて、声のする後ろに振り向いた。
先ほどの男性が春子の真後ろに立っていた。
思った通り、背が高く優しい目の人だった。
「君、春子ちゃんだよね?」
「・・・」
春子は迷っていた。
日本は安全な国だと両親がいつも言っていたが、今は一人。
そして、知らない人に話しかけられている。
しかも、この男性は自分の名前を知っている。
驚きを隠せず、ただ呆然と見つめる春子を察したのか、男性は少し罰の悪そうに春子の返答を待った。
「えっと・・・。」
春子の回答を待たずに男性は手に持っていたスマホを春子の前に差し出した。
「これ、君であってるよね。」
そこには3年前に来日した際、どこかのお寺らしき前で映った両親と自分の姿があった。
「あ・・・、八名井の者なんだけど・・・」
春子は何か緊張の糸が切れる思いがした。
目の前にいる男性はあくまで無愛想な顔をしていて、あくまで他人だった。
だが、春子は自分の足がどこにあるのか分からなくなったような気がした。
「あっ、おい!ちょっと・・・」
次の瞬間、春子はサラサラな布地を頬に感じた。サテン・・・のような光沢があるわけではないが、さらっとした生地、まるで母が乾燥機から取り出してすぐのタオルのような肌触り。
春子は思わず、その生地の中に顔をうもらせてみた。
「・・・はる、春子ちゃん・・・?」
血の気が引く感じがした。
自分の体を支えている物が他人の手だと気づくのにそう時間はかからなかった。春子は自分の顔をその心地よい生地から払いのけると、後ろへと引き下がった。
「ご、ごめんなさい。
私、あの、どうしていいのか分からなくて、
それで・・・、えっと、あなたは・・・」
「僕は八名井の家の者で、迎えにきたんだけど、樹奈美さんから聞いているだろう?」
「ああっ、あの、はい、到着したら、『やないたかふみ』さんって方に連絡しろって言われました。」
「ああ、それは弟で・・・
ちょっと都合で、来られなくなったから、僕が代わりに」
「・・・そうですか
・・・ありがとうございます」
樹奈美さんとも大して親しい仲ではない。むしろ、つい24時間前まではほぼ知らない人であった。それなに、その名前に懐かしさを感じると同時に、再びホッとしている自分がいた。
「・・・。」
「・・・。」
「まあ、じゃあ、行こうか。歩ける?」
八名井の家のこの青年は、春子の隣に置いてあった、 スーツケースを自分の方にたぐり寄せると、春子をどこかへと誘導しようと手をのばした。
「・・・。」
春子はお兄さんの質問の意味がわからず、首をかしげてみせた。
「さっき、ふらついていたみたいだから・・・。」
お兄さんは春子の表情から、察したのか、そう続けた。
「あ、あれは、あの違うんです。
ずっと緊張してたから、力が抜けちゃったみたいで・・・」
春子は安心感からなのか、素直にこのお兄さんの手の指し示す方向に足を進め、そのまま先導する彼の後をチョコチョコと着いて行く事にした。
「緊張してたって?」
「・・・はい、初めてだったので。」
「一人で飛行機?」
お兄さんは少し春子に向き直ると、すぐ手前にある回転ドアをめざし、歩みを進めた。
「いいえ、電話です。」
彼は、春子の返事に足を止め、振り返った。
目の前の回転ドアは世話しなく回っている。今はまだ6月にも関わらず空の港を行き交う人が多いようだ。
「電話?」
春子は自分の前で不思議そうな顔をしている背の高いお兄さんを眺める。
「はい、飛行機はよく乗るので、大丈夫なんですが、
・・・電話が・・・」
春子は先頃までいた公衆電話の立ち並んだ一角に視線を送った。
「ん?」
お兄さんも春子の向けた視線の方向を追いかけた。
そこには、誰にも相手されない公衆電話が、寂しくお行儀よく並んでいる。
「その・・・、電話がよくわからなくて
公衆電話って使った事ないし・・・。
本物のプッシュフォンって初めて見ました・・・」
「・・・ああ・・・。」
お兄さんは申し訳なさそうな顔をすると、少し俯きながら、口元を抑え、春子から視線を外した。
「でも、無事にお会いできてよかったです。」
「そうだね。
・・・一応、ゲートの前で待ってたんだけどね。」
「えっ?」
お兄さんは俯いたまま回転ドアに入っていった。
春子は彼に続いてドアをすり抜けると、蒸し暑さの立ちこめる日本の空気の中へ、ヒョコヒョと足を進めた。